2018年1月16日(火)
「企業自身は業績予想を行ってはならない。」という点について書いた13日前のコメント↓
2018年1月3日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180103.html
「企業は増資を行ってはならない。」という点について書いた12日前のコメント↓
2018年1月4日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180104.html
「たとえ投資家間で株式の取引を行っても、『株式の本源的価値』には何らの影響を与えることもない。」、
それが「所有と経営の分離」と呼ばれる概念の本質の1つである、という点について書いた11日前のコメント↓
2018年1月5日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180105.html
完全な「銘柄間の比較可能性」を担保することは現実には始めから不可能なことだ、という点について書いた10日前のコメント↓
2018年1月6日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180106.html
完全な「銘柄間の比較可能性」を担保することができるのは同一業界・同一業種内の銘柄間のみである、
という点について書いた9日前のコメント↓
2018年1月7日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180107.html
2018年1月8日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180108.html
「企業は負債を計上してはならない。」という点について書いた7日前のコメント↓
2018年1月9日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180109.html
「証券制度」の観点から言えば、「株式の譲渡ができない会社であれば会社は配当を支払ってもよい。」、
そして、「『有価証券報告書』の方が『営業報告書』よりも、記載内容はより詳細・豊富・正確でなければならないはずだ。」、
さらに、「会社清算時まで利益を留保することが『株主の利益の最大化』につながるとは限らない。」、
という点について書いた6日前のコメント↓
2018年1月10日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180110.html
「証券制度」から見ると、「発行者の内部留保」は全投資家に帰属している、という点について書いた5日前のコメント↓
2018年1月11日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180111.html
「証券制度」から見ると、「会社は営業費用全般を支払ってはならない。」という結論になり、また、
「会社制度」から見ると、「たとえ無賃・無給であっても会社は従業員を雇用してはならない。」という結論になる、
という点について書いた4日前のコメント↓
2018年1月12日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180112.html
「会社を設立した出資者(会社に払い込みを行った出資者、一番最初の株主)は、
自分自身が選択し委任を行ったのだから会社の業務執行者(受託者)のことをよく知っているが、
市場の投資家は、会社の業務執行者(受託者)のことを、少なくとも会社を設立した出資者よりは知らない。」
という点について書いた3日前のコメント↓
2018年1月13日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180113.html
「会社は固定資産を保有することはできない。」という点について書いた一昨日のコメント↓
2018年1月14日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180114.html
「会社は棚卸資産を保有することはできない。」という点と、
「証券制度の観点から言えば、会社は予め「清算期日」を定めておかなければならない。」について書いた昨日のコメント↓
2018年1月15日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180115.html
2018年1月3日(水)から2018年1月15日(月)までの期間のコメントで、
理論上の「会社制度」と「証券制度」については一通り書くことができたように思います。
2018年1月3日(水)から2018年1月15日(月)までの期間に書きました内容を振り返ってみますと、
現代経営や現代会計ではあまりにも当たり前のこととされていることのほとんどが実は理論的には行ってはならないことだ、
ということに気付かされます。
「理論上の考え方」から言えば、実際にはその考え方に厳密に基づいて実務を行っていくことは事実上不可能なのですが、
「会社制度」や「証券制度」について理解をするためには、
まずは「会社の枠組み」(株式会社の原理)についての理解を深めることが一番大切なことであるわけです。
「会社の基本構造はこうなっている。会社ではこのような仕組みで商取引が行われる。」といった具合に、
まずは「株式会社のメカニズム」(骨格や基本的考え方)について理解をすることが何よりも大切なことであるわけです。
これまでのコメントに敢えて付け加えるならば、理論上は「会社は債権を保有することはできない。」となろうかと思います。
他の言い方をすると、「会社は債権者になることはできない。」となります。
なぜならば、会社が債権を保有しますと、貸し倒れの可能性が出てくるからです。
また、会社が債権を保有しますと、たとえ貸し倒れは生じないとしても、会社清算時に円滑な残余財産の分配ができない、
ということになります。
最も元来的には、売上代金(現金)の受領が売上の実現だ、と考えるわけです。
煎じ詰めれば、残余財産の分配は現金で行うわけなのですから、
理論的には、会社は残余財産の分配が行えなくなる状況に陥ってはならない、という考え方になるわけです。
昨日書きました言葉を用いれば、「会社の貸借対照表の借方は常に現金のみである。」、という状態でなければならないのです。
以上が、理論上は「会社は債権を保有することはできない。」ということの理由です。
>内部留保という言葉はフローとストック両方の意味を持つため混乱を招きやすいが、区別する必要がある。
>日本ではストック概念としての内部留保(利益剰余金)への課税が念頭に置かれているようだが、
>筆者の知る限り、これまで世界で実施された内部留保課税はすべてフロー概念としての内部留保課税だ。
記事の文脈において、なぜ内部留保課税がフロー概念として観念できるのかと言えば、
一言で言えば、「内部留保(利益剰余金)の増加額」に対して課税を行っているからである、と説明付けできると思います。
すなわち、課税標準が「内部留保(利益剰余金)の絶対額(金額そのもの)」である場合は、ストック概念としての課税であり、
課税標準が「内部留保(利益剰余金)の増加額(累積額の増加額)」である場合は、フロー概念としての課税であるわけです。
記事中の文言を用いれば、「留保利潤税」と「留保金課税」はどちらもフロー概念としての課税であると説明されていますが、
「利益の留保額はどれだけ増加したのか?」を課税標準としていることから、この内部留保課税はフロー概念としての課税である、
という論理立てになっているわけです。
ストック概念とフロー概念とを対比させて、理論上の両者の違いについて説明しますと、
最近日本でも導入が議論されている「ストック概念としての内部留保課税」は、
内部留保(利益剰余金)が一切増加していなくても毎年課税される、という特徴があります。
なぜ毎年課税されるのかと言えば、課税標準に変動はないからです。
しかるに、米国や台湾で既に導入されている「フロー概念としての内部留保課税」は、
内部留保(利益剰余金)が増加していない場合は、課税はされない、という特徴があります。
なぜ内部留保(利益剰余金)が増加していない場合は課税はされないのかと言えば、この場合は課税要件自体がないからです。
簡単に言えば、「増加額」が課税標準(課税のための要件)なのですから、「増加額」がゼロなら課税もされないのです。
所得額が0円ならば所得税は課税されない、ということと全く同じです。
所得税は、フロー概念としての課税・フローに対する課税の最も典型的・最も古典的な税目です。
「ストック概念としての内部留保課税」と「フロー概念としての内部留保課税」との間には、
上記のような理論的相違点があるわけです(一言で言えば、課税標準が両者では根本的に異なっている)。
最近日本でも導入が議論されている「ストック概念としての内部留保課税」は、「内部留保があること」が課税原因なのです。
一方、米国や台湾の「フロー概念としての内部留保課税」は、「内部留保が増加したこと」が課税原因なのです。
同じ「内部留保課税」でも、その意味合いはストック概念としてのそれとフロー概念としてのそれとで全く異なると言えるのです。
以上のように、ストック概念とフロー概念とを対比させて考えてみると、内部留保課税については一定度の理論は成り立っている、
とも言えるのですが、会計の観点から言えば、やはり「フローの結果がストックである。」という視点が抜け落ちているように
思えると言いますか、特に「利益」に関して言えば、「フローがあったからストックがある。」という考え方になるわけです。
「利益のフローがあった、だから、利益がストックされている。」、という会計上・簿記上の流れがあるわけです。
特に法人税との関連で言えば、「利益のフローに対する法人税を支払ったから利益がストックされている。」と言えるわけです。
したがって、「利益のストックがあること」や「利益のストックが増加したこと」というのは、
どちらも法人税を支払った後の議論に過ぎないわけです。
つまり、米国や台湾の「留保利潤税」と「留保金課税」は、
どちらも「フロー概念としての課税」を終えた後の議論に過ぎないわけです。
「内部留保(利益剰余金)」というのは、会計上の捉え方としては、
「『フロー概念としての課税』を終えた後のストック」という捉え方しかできないわけです。
つまり、「留保利潤税」と「留保金課税」の課税標準である「増加額」というのは、真の意味でのフローではないわけです。
「内部留保(利益剰余金)の増加額」に対して課税をするとなりますと、
それは実質的に「配当を支払わなかったことに対する課税」という見方になるわけです。
現代経営・現代会計では、「配当をいかに支払うか?そして、配当をいかに支払わないか?」という論点も非常に重要である
わけなのですが、十分な経営判断を行った上で、会社は配当の金額を決めることになるわけです。
会社には十分な投資機会(事業機会)があると判断したからこそ会社は配当を支払わなかったのに、
配当を支払わなかったことに対して課税されるというのは、課税の公平性に反するわけです。
なぜならば、投資機会(事業機会)は会社毎に異なるからです。
投資機会(事業機会)が全会社にとって平等ならば、
会社が配当を支払わなかったことに対して課税するということにも一定の理があるわけです。
なぜなら、その場合は、配当を支払わなかったことに関する正当性もまた全会社で平等・共通のはずだからです。
しかし、会社は、自社が置かれた事業環境を十分に勘案した上で、
自社にとって最善と考えられる配当方針を採用したに過ぎないわけです。
それは純粋に経営判断の範疇の事柄であって、少なくとも正しい経営判断をしたこと理由に課税される言われはないわけです。
そもそもの話をすると、「内部留保(利益剰余金)」というのは、利益の蓄積額を表象しているに過ぎないわけです。
「内部留保(利益剰余金)」という実体のある物があるわけでは全くないわけです。
「内部留保(利益剰余金)の増減額」というのは、純粋に経営の結果を表しているに過ぎず、
「内部留保(利益剰余金)」があろうが「内部留保(利益剰余金)」が増加しようが、そこにいいも悪いもないわけです。
したがって、「内部留保(利益剰余金)」に対して、
「フロー概念としての課税」を行おうが「ストック概念としての課税」を行おうが、
一言で言えば、フロー概念もストック概念も課税標準足り得ない(課税の原因とは成り得ない)わけです。
内部留保課税に関しては、二重課税になるという論点もあるのですが、その点については今日は議論しないこととします。
ただ、米国や台湾の「留保利潤税」と「留保金課税」について言いますと、
これらの課税はやはり「配当を支払わなかったことに対する課税」という見方になってしまうことから、
この場合、「ストックの増加原因はフローではない。」という見方をするべきではないかと思います。
つまり、「フローがあったからストックが増加した。」のではなく、
「フローはあったが『そのフローを配当しなかったから』ストックが増加した。」、という論理の流れになるわけです。
したがって、これらの課税については、「増加額」に課税を行ったこととも異なる、という見方をするべきなのです。
内部留保課税に関しては、二重課税になってしまうのではないかという議論をするよりも、
そもそも課税の根拠自体がない(「配当を支払わなかったことに対する課税」というのはおかしい)、と考えるべきなのです。
この記事で議論されている内部留保課税は、「フロー概念としての課税」のことを念頭に置いているのではないかと思いますが、
「フロー概念としての課税」も、なぜ課税標準が生じたのかを鑑みれば、やはり理論的には論拠に乏しい課税なのだと思います。
一国の政府として、「これは会社に配当を支払わせることを目的に導入した税目である。」、ということであるならば、
国の「政策」としては、この課税は意味は分かりますし一定度の効果が期待できるというのも分かるのですが、
企業経営や投資家の立場から見ると、「配当を支払わなかったことに対する課税」というのはやはりおかしいのではないか、
という見方になるのです。