2018年1月11日(木)



今日は記事を1つ紹介し、ここ数日間のコメントに対し、一言だけ追記をしたいと思います。

 

2018年1月11日(木)日本経済新聞
決算開示の基準を統一 金融庁 法務省
課徴金見直し案見送り 公取委、通常国会への提出
(記事)

 

 


「企業自身は業績予想を行ってはならない。」という点について書いた8日前のコメント↓

2018年1月3日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180103.html

 

「企業は増資を行ってはならない。」という点について書いた7日前のコメント↓

2018年1月4日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180104.html

 

「たとえ投資家間で株式の取引を行っても、『株式の本源的価値』には何らの影響を与えることもない。」、
それが「所有と経営の分離」と呼ばれる概念の本質の1つである、という点について書いた6日前のコメント↓

2018年1月5日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180105.html

 

完全な「銘柄間の比較可能性」を担保することは現実には始めから不可能なことだ、という点について書いた5日前のコメント↓

2018年1月6日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180106.html

 

完全な「銘柄間の比較可能性」を担保することができるのは同一業界・同一業種内の銘柄間のみである、
という点について書いた4日前のコメント↓

2018年1月7日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180107.html

 


「企業は配当を行ってはならない。」という点について書いた3日前のコメント↓

2018年1月8日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180108.html

 

「企業は負債を計上してはならない。」という点について書いた一昨日のコメント↓

2018年1月9日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180109.html

 

「証券制度」の観点から言えば、「株式の譲渡ができない会社であれば会社は配当を支払ってもよい。」、
そして、「『有価証券報告書』の方が『営業報告書』よりも、記載内容はより詳細・豊富・正確でなければならないはずだ。」、
さらに、「会社清算時まで利益を留保することが『株主の利益の最大化』につながるとは限らない。」、
という点について書いた昨日のコメント↓

2018年1月10日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180110.html

 

 



今日はまず、昨日書きましたコメントの補足をしたいと思います。
昨日書きましたコメントを読み返したのですが、次の2箇所の記述が意味が分かりづらいかもしれないなと思いました。
昨日書きましたコメント全体を読めば、私が言いたいことは伝わるのではないかと思いますが、
この部分だけを読むと意味が通じないなと思いましたので、語弊があってはいけませんので一言だけ補足をしたいと思います。


>確かに、どのような会社であれ、会社が配当を支払えば株主の利益(株式の価値)は配当金額以上に減少してしまいますが、
>たとえ会社が配当を支払っても、
>少なくとも「投資家による将来の業績の予想(「株式の本源的価値」についての投資判断)」について悪影響が生じる、
>ということは決してないわけです。

>将来の業績予想ができなくなる(「株式の本源的価値」について投資判断を行うことができなくなる)というわけではない、
>という意味においては、「株式の譲渡ができない場合」であれば、
>会社が配当を支払うことは投資家保護の観点には反しない(「投資判断」という点では投資家の利益は害されていない)、
>と言えるわけです。


どのような会社であれ(株式の譲渡ができる会社であれ株式の譲渡ができない会社であれ)、会社が配当を支払うと、
投資家は将来の業績の予想ができなくなる(投資家は「株式の本源的価値」について投資判断をすることができなくなる)、
という点に変わりはありません。
将来の業績の予想(「株式の本源的価値」についての投資判断)」について悪影響が生じると言えば悪影響が生じるわけです。
しかし、私が昨日伝えたかったのは、
投資家が将来の業績予想をできなくなること(「株式の本源的価値」について投資判断を行うことができなくなること)は、
「株式の譲渡ができない会社」に関しては投資家に悪影響はない、ということを言いたかったわけです。
確かに、会社が配当を支払うと、投資家は将来の業績予想をできなくなります。
しかし、「株式の譲渡ができない会社」に関しては、そもそも投資家は将来の業績予想をしませんので、
「投資判断」という点では投資家の利益は害されていない、と書いたわけです。
「株式の譲渡ができない会社」では、そもそも「投資判断」という概念自体がないわけです。
会社の「株式の本源的価値」については、投資家は受託者に委任をして終わりなのです。
投資家は、会社の利益、すなわち、「株式の本源的価値」を最大化する人物に、委任をしたはずです。
株式の譲渡を行う際にのみ、投資家は将来の業績予想をする(「株式の本源的価値」について投資判断を行う)、
というだけなのです。
「投資家は投資判断を行うことができるのか否か?」という点が論点となるのは、株式の譲渡が可能な場合のみなのです。
「株式の譲渡ができない会社」では、「投資判断」は問題とならないのです。
また、「株式の譲渡ができない会社」では、「ディスクロージャー」は当然のことながら行われません。
なぜなら、出資者は投資判断をしないからです。
「株式の譲渡ができない会社」では、現在の出資者や市場内外の投資家がその会社について「投資判断」をする、
ということ自体が始めからないのです。
「株式の譲渡ができない会社」では、投資家が将来の業績予想をできなくなっても、全く問題はないのです。

 


次に、昨日書きましたコメントと関連がある記事が今日の日本経済新聞に載っていましたので紹介します。
記事の中から重要な部分を引用したいと思います。

>金融庁と法務省は企業の決算開示に関するルールを見直す。
>1年ごとに作成する事業報告書と有価証券報告書(有報)について、同じ情報を伝える項目であれば表記を統一する。

>事業報告書は法務省所管の会社法で、有報は金融庁所管の金融商品取引法で規定されている。
>今は「純資産」と「純資産額」、「従業員の状況」と「使用人の状況」など同じ内容でも違う用語での記載を義務付ける
>項目が多い。ルール改正で表記をそろえる。

歴史を遡って商法と証券取引法の規定の違いを比較していかなければならないわけなのですが、
営業報告書と有価証券報告書の記載内容はほとんど同じであるわけです。
「市場の投資家は株式購入後は会社の株主(委任者)になる。」、という点を鑑みますと、
営業報告書と有価証券報告書の記載内容は結局のところ同じでなければならない、という考え方になるわけです。
しかし、昨日書きましたように、営業報告書は将来の業績予想とは無関係の「経営の結果の報告」であるに過ぎない一方、
有価証券報告書は会社の将来の業績予想の材料となる「ディスクロージャー」(投資の判断根拠となるもの)であるわけです。
営業報告書と有価証券報告書とを比較すると、「投資判断」の根拠という点において、
理論的には、「営業報告書」よりも「有価証券報告書」の方が記載内容はより詳細・豊富・正確でなければならないはずだ、
という考え方もあるわけです。
この理論上の矛盾(両者は同じでなければならないが他方はより詳細でなければならない)について、理詰めで考えてみますと、
結局のところ、株式の譲渡が認められている会社では「営業報告書」が不要である(「営業報告書」の位置付けが不明確になる)、
という結論に行き着くと思います。
株式の譲渡が認められている会社では、「有価証券報告書」のみを作成・提出すればよいわけです。
そして、株式の譲渡が認められていない会社では、「営業報告書」のみを作成・提出すればよいわけです。
株式の譲渡が認められている会社では、株式の譲渡を前提とした報告書を作成・提出するべきですし、
株式の譲渡が認められていない会社では、株式の譲渡はしないことを前提とした報告書を作成・提出するべきなのです。
株式の譲渡が認められている会社が、株式の譲渡はしないことを前提とした報告書(「営業報告書」)を作成・提出することは、
書類の作成目的を鑑みれば、やはり矛盾なのです(そのことがこの理論上の矛盾の根本原因なのです)。
証券制度の理論上は、会社が既存株主(より実務的には、基準日現在の株主)のみを市場の他の投資家とは異なる取り扱いとする
というのは、矛盾と言いますか、一言で言えば発行者と投資家との関係性に反する、と言わねばならないわけです。
「開示情報の不公平」という意味でもそうですし、「会社の内部留保」の帰属(配当等のこと)という意味でもそうです。
特に会計・財務の観点から言えば、「発行者の内部留保」は全投資家の共通のものだ、という理論的前提があると思います。
「発行者の内部留保」は全投資家の共通のものだからこそ、
発行者は全投資家に共通の財務情報開示を行うのではないでしょうか。

 


概念的に言えば、「発行者の内部留保」は前提・所与のことと言いますか、固定され変動しないものだと言いますか、
その一部は特定の日の株主に帰属している、などという考え方はないように思うわけです。
全投資家に共通の「発行者の内部留保」を基に、残余財産の分配を巡って投資家間で市場で株式の取引を行うことを
証券取引と呼ぶのではないでしょうか。
「株式の本源的価値」に不連続性を生じさせないためにも、
「発行者の内部留保」の一部を特定の日の株主に帰属させる(すなわち、基準日の株主に配当を支払うこと)、
ということは行うべきではないわけです。
これは、投資家による「将来の業績予想の不可能性」とはまた別の議論・別の論点であると思います。
「『発行者の内部留保』は誰に帰属しているのか?」という問題であるわけです。
「会社制度」から見ると、会社の内部留保は当然に株主に帰属しています。
しかし、「証券制度」から見ると、「発行者の内部留保」は全投資家に帰属しているのです。
なぜなら、「発行者の内部留保」を競って、投資家は株式の取引を行うからです。
内部留保の一部を切り出して特定の投資家にだけ配当として支払う、
という考え方自体が「証券制度」から見るとないのだと思います。
「発行者の内部留保」は全投資家に帰属しているのです。
そしてそれが「株式の本源的価値」の根拠であるように思います。
「株式の本源的価値」の一部が特定の日の株主に帰属している、などという考え方があるでしょうか。
2018年1月8日(月)のコメントでは、「企業は配当を行ってはならない。」ということの理由について書いたわけですが、
今日はまた別の観点から見た「企業は配当を行ってはならない。」ということの理由に辿り着けたように思います。
2018年1月8日(月)のコメントでは、「投資家は将来の業績予想ができるのか否か?」という点が主な着眼点であったわけですが、
今日の議論では、「『発行者の内部留保』は誰に帰属しているのか?」という点が主な着眼点であるわけです。
例えば、会社が次のような配当方針を掲げている場合は、
たとえ会社が毎年配当を支払おうとも、投資家は会社の業績を予想できる、という言い方ができると思います。
「会社は、事業年度毎に、1株当たり最大50円の配当を支払う。
ただし、十分な利益剰余金がない場合は、利益剰余金の全てを配当として支払うものとする。」
このような配当方針で会社が配当を支払う場合、
投資家は、自分の業績予想を基に、毎事業年度の会社の「貸方」(内部留保の金額)を予想することができます。
結果、投資家は、自分の初年度の事業年度の業績予想を基に、将来に渡る毎事業年度の会社の業績を予想することができます。
会社の配当方針さえ明確であれば、たとえ会社が配当を支払おうとも、投資家は会社の将来の業績を予想できるわけです。
しかし、それでも会社は配当を支払ってはならないわけです。
なぜならば、「発行者の内部留保」は全投資家に帰属しているからです。
「発行者の内部留保」の一部を切り出すことはできないのです。

 


今日は、議論の自然な流れの中で、「企業は配当を行ってはならない。」について新しい観点から考えました。
「将来の業績予想の可能性」とも「株主の利益の最大化(『株式の本源的価値』の最大化)」とも異なるまた別の観点から、
「企業は配当を行ってはならない。」ということの理由に辿り着いた気がします。
今日もやはり、会計や財務の観点からこの結論に辿り着いたように思います。
「貸借対照表」やその「資本の部」を常に頭の片隅に置きながら、今日の議論について、考えを進めていったように思います。
特に「証券制度」との関連で言えば、「発行者の内部留保」の一部が一部の株主のみに帰属する形になるな、と気付きました。
「株式の本源的価値」は1つのはずであり、「株式の本源的価値」の一部が一部の株主に帰属するというのはおかしい、
と思いました
「証券制度」を通じて・「証券制度」に照らすと、「会社制度」についての理解が深まることが実際に非常に多いのですが、
「証券制度」から会社を見る時は、「会社制度」から会社を見る時とは、相当程度見方を変えないといけない、
とも今日は思いました。
会計や財務を議論・思考の中心に据えた上で、「会社制度」という観点からではなくあくまで「証券制度」という観点から、
「発行者の内部留保」について理詰めで考えたところ、今日書きました結論に辿り着いたな、とやはり思います。
「会社制度」について理解する際も「証券制度」について理解する際も、
やはり会計と簿記が理解の基礎になる、と改めて思いました。
それから、今日紹介している記事には、独占禁止法の改正についても載っています。
公正取引委員会が当初検討していた改正案は、司法制度全体に対し非常に広範な影響を与え得る内容を含んでいたようです。
改正案に対しては、それならば「秘匿特権」という考え方を導入するべきだ、との意見が強かったようです。
記事には、「秘匿特権」について、次のように書かれています。

>法制化をするなら日本の法体系全般に関わる。公取委で対応できる範囲を超えている。

今日最初に書きました議論と関連があることなのですが、
上場企業の決算開示に関するルール作りも、金融庁のみや法務省のみではできないことだ、と考えなければならないわけです。
記事にも次のように書かれています。

>複数の省庁にまたがる制度を整理する必要がある

甲省や乙省という言い方をしますと、どうしても省や省の職員の間に壁のようなものができてしまうのかもしれません。
しかし、そもそも国というのは1つであるわけです。
担当事務(所管する法律等)を省毎に分けた方が事務の執行上は効率的になる、ということもあるとは思いますが、
国民の立場から見ますと、省と省でなわばり争いをするのが一番非効率なことだ、というふうに見えるわけです。
事務を執行する上で、あくまで便宜上「省」という形で部署(チーム、グループ)を分けているだけなのですから、
必要以上に「省」の区分けにこだわるのではなく、普段から複数の省庁が連携して事務を執行することが大切だと思います。

 

A ministry merely represents a department or an office of a government of a country.

省というのは、一国の政府の部や課を表しているに過ぎないのです。