2018年1月13日(土)


今日も、ここ数日間のコメントに対し、一言だけ追記をしたいと思います。

 

「企業自身は業績予想を行ってはならない。」という点について書いた10日前のコメント↓

2018年1月3日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180103.html

 

「企業は増資を行ってはならない。」という点について書いた9日前のコメント↓

2018年1月4日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180104.html

 

「たとえ投資家間で株式の取引を行っても、『株式の本源的価値』には何らの影響を与えることもない。」、
それが「所有と経営の分離」と呼ばれる概念の本質の1つである、という点について書いた8日前のコメント↓

2018年1月5日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180105.html

 

完全な「銘柄間の比較可能性」を担保することは現実には始めから不可能なことだ、という点について書いた7日前のコメント↓

2018年1月6日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180106.html

 

完全な「銘柄間の比較可能性」を担保することができるのは同一業界・同一業種内の銘柄間のみである、
という点について書いた6日前のコメント↓

2018年1月7日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180107.html

 


「企業は配当を行ってはならない。」という点について書いた5日前のコメント↓

2018年1月8日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180108.html

 

「企業は負債を計上してはならない。」という点について書いた4日前のコメント↓

2018年1月9日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180109.html

 

「証券制度」の観点から言えば、「株式の譲渡ができない会社であれば会社は配当を支払ってもよい。」、
そして、「『有価証券報告書』の方が『営業報告書』よりも、記載内容はより詳細・豊富・正確でなければならないはずだ。」、
さらに、「会社清算時まで利益を留保することが『株主の利益の最大化』につながるとは限らない。」、
という点について書いた3日前のコメント↓

2018年1月10日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180110.html

 

「証券制度」から見ると、「発行者の内部留保」は全投資家に帰属している、という点について書いた一昨日のコメント↓

2018年1月11日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180111.html

 

「証券制度」から見ると、「会社は営業費用全般を支払ってはならない。」という結論になり、また、
「会社制度」から見ると、「たとえ無賃・無給であっても会社は従業員を雇用してはならない。」という結論になる、
という点について書いた昨日のコメント↓

2018年1月12日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180112.html

 



昨日のコメントでは、「証券制度」から見ると、「会社は営業費用全般を支払ってはならない。」という結論になり、また、
「会社制度」から見ると、「たとえ無賃・無給であっても会社は従業員を雇用してはならない。」という結論になる、
という点についてコメントを書きました。
出資者にとって、「この世で最も大きな収益を獲得できる人物」は、自らが選択・委任を行った受託者だけなのです。
出資者にとって、会社が雇用した従業員は、「この世で最も大きな収益を獲得できる人物」というわけではないのです。
会社が雇用した従業員が会社の業務を執行した時点で、
出資者自身が選択・委任をした人物が会社の業務を執行した場合と比較して、会社の収益(売上高)は少なくなってしまうのです。
その意味において、たとえ無賃・無給に基づく会社による雇用・従業員による労働であろうとも、
従業員の雇用は、「株主の利益の最大化」に反しているわけです。
従業員が業務を執行した場合は、受託者が業務を執行した場合に比べて、会社の収益(売上高)が必然的に減少してしまうのです。
これが、「会社制度」から見た場合の、従業員の雇用は「株主の利益の最大化」に反しているということの理由です。
そして、出資者は、出資者自身が選択・委任をした人物が会社の業務を執行した場合は会社の将来の業績を予想できるのですが、
出資者自身が選択・委任をした人物以外の人物が業務を執行した場合は、会社の将来の業績を予想できないのです。
出資者は、出資者自身が選択・委任をした人物は会社の利益を最大化させるはずだ、と期待できます。
しかし、出資者は、出資者自身が選択・委任をした人物以外の人物(すなわち、会社が雇用した従業員)に関しては、
その人物は会社の利益を最大化させるはずだ、もしくは、その人物は会社にこれだけの利益をもたらすはずだ、
というふうには期待できないわけです。
出資者が選択・委任をした人物というのは、文字通り出資者自身が信用して財産を託した人物(受託者)であるわけですが、
会社が雇用した従業員に関しては、先ほど書きましたように、会社の利益を最大化させる人物というわけではないのに加え、
簡単に言えば、その人物の働きぶりというのは出資者には全く分からないと言っていいわけです。
それはイコール、出資者は会社の将来の業績を全く予想できない、ということを意味しているわけです。
その意味において、会社が従業員を雇用することは、投資家による投資判断が行えなくなる原因となるのです。
これが、「証券制度」から見た場合の、従業員の雇用は「会社の業績の予想の可能性」に反しているということの理由です。

 



それから、上記のように、「会社は従業員を雇用してはならない。」という点について、
「会社制度」と「証券制度」の両面からその理由について論じたわけですが、
「証券制度」から見た理由について一言だけ追記をしたいと思います。
ここで論じたい事の論点を一言で言いますと、次のようになります。
「会社を設立した出資者(会社に払い込みを行った出資者、一番最初の株主)は、
自分自身が選択し委任を行ったのだから会社の業務執行者(受託者)のことをよく知っているが、
市場の投資家は、会社の業務執行者(受託者)のことを、少なくとも会社を設立した出資者よりは知らない。」
「投資家は、会社の業務執行者(受託者)のことをよく知っているか否か?」という点は、投資家にとって、
会社の将来の業績を予想する上で、極めて"critical"(決定的な、局面を左右する)であるわけです。
会社を設立した出資者は、
「私は、市場の全投資家と同じように、会社が行った『ディスクロージャー』に基づいて会社の将来の業績を予想しています。」、
と主張するわけですが、「会社を設立した出資者は会社の業務執行者(受託者)のことをよく知っている。」という事実は、
会社を設立した出資者と市場の投資家との間に、絶対に解消することのできない情報格差を生じさせるのです。
確かに、会社設立後(受託者に委任を行った後)は、会社を設立した出資者は、
個人的に会社の業務執行者と接触したりはしていませんし、個人的に会社の内部情報を受領したりはしてないわけです。
確かに、「会社設立後(受託者に委任を行った後)」に関して言えば、会社を設立した出資者は、
市場の全投資家同様、会社が行った「ディスクロージャー」のみに基づいて会社の将来の業績を予想するわけです。
しかし、「会社を設立した出資者は会社の業務執行者(受託者)のことをよく知っている。」という事実は、
会社の将来の業績予想の精度(いかに正確な業績予想を行うか)という点において、
市場の他の投資家との間に、極めて"critical"(決定的な、局面を左右する)な違いを生じさせるわけです。
一言で言えば、会社を設立した出資者は市場の他の投資家よりも圧倒的に精度の高い業績予想を行うことができるわけです。

 


さらに言えば、会社を設立した出資者は、会社の業務執行者を自分自身で選択し委任を行った時点で、
確定した利益額というわけではないものの、
「この業務執行者であれば、将来これだけの利益額を達成できるはずだ。」という期待を持つことができたわけなのですから、
市場の他の投資家と比較して、始めから圧倒的に詳細で正確な業績予想を行うことができる、と言えるわけです。
これはもはや、「市場の他の投資家とは業績予想の前提が異なる。」、とすら表現できるわけです。
一言で言えば、会社を設立した出資者の判断根拠は、市場の他の投資家の判断根拠とは根源的に異なっていると言えるわけです。
「証券制度」の理論上は、会社が行う「ディスクロージャー」により、
市場の全投資家は同一・共通の判断根拠に基づき投資判断を行い株式の取引を行う(全投資家間に情報格差は一切ない)、
と考えるわけなのですが、実はその理論では、
「会社を設立した出資者(会社に払い込みを行った出資者、一番最初の株主)」のことは完全に度外視されていると思います。
「会社を設立した出資者(会社に払い込みを行った出資者、一番最初の株主)」のことを完全に度外視した上で、
会社が行う「ディスクロージャー」により全投資家間に情報格差は一切ないのだ、と言っているだけなのだと思います。
繰り返しますが、会社を設立した出資者の投資判断の根拠は、市場の他の投資家のそれとは根源的に異なっているのです。
理論上も、両者の間に情報格差はないと考えることは極めて難しい(そう考えるのは理論上もやはり無理がある)と思います。
会社を設立した出資者は、市場の他の投資家とは異なり、会社の業務執行者を選択・委任をしたのだが、
それでも会社の業務執行に関する情報量は市場の他の投資家と同じである、と考えるのはやはりできないのではないでしょうか。
理論上は、「市場に『会社を設立した出資者』はいない。」ということがどこか前提になっているように思えます。
確かに、「市場に『会社を設立した出資者』はいない。」ならば、
市場の全投資家は同一・共通の判断根拠に基づき投資判断を行い株式の取引を行うということができます。
しかし、株式の新規上場の際は、必ず「会社を設立した出資者」から市場の投資家へ株式の売却が行われることになるわけです。
この問題(情報格差)は、会社が行う「ディスクロージャー」では根源的に解決することはできないように思えます。
株式の譲渡(取引)が開始される前と後とでは、「証券制度」における「理論上の断絶」が必然的に生じてしまうのだと思います。
一番最初に株式の譲渡(取引)が行われる瞬間に、「証券制度」における「理論上の断絶」が必然的に生じるわけです。
この問題(情報格差)は、理論上も解決はできないと思います。
悪く言えば、現実の「証券制度」は、その「理論上の断絶」を言わば無視した上で、構築・運用されているのです。

 


Some securities systems presuppose that there is a shareholder executing operations of a company in the market,
and other securities systems presuppose that there is a shareholder executing operations of a company in the market,
but no securities systems presuppose that there is not an investor who founded a company in the market.
For, at the first stage of the distribution of shares,
shares are transferred inevitably from an investor who founded a company to other investors in the market.

会社の業務を執行する株主が市場にいることを前提とした証券制度もあれば、
会社の業務を執行する株主は市場にいないことを前提とした証券制度もありますが、
会社を設立した出資者は市場にいないことを前提とした証券制度というのは、1つもないのです。
というのは、株式の流通の最初の段階では、株式は必然的に会社を設立した出資者から市場の他の投資家へと譲渡されるからです。