2016年3月14日(月)



昨日2016年3月13日(土)までのコメントに追記をしたいと思います。
主に以下の11日間のコメントに追記をする形になります。


2016年3月2日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160302.html

2016年3月3日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160303.html

2016年3月4日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160304.html

2016年3月5日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160305.html

2016年3月6日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160306.html

2016年3月7日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160307.html

2016年3月9日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160309.html

2016年3月10日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160310.html

2016年3月11日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160311.html

2016年3月12日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160312.html

2016年3月13日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160313.html

 


今日も昨日までのコメントの続きになります。
まず、昨日コメントできなかった仕訳についてのコメントから書きます。
昨日、【設例@】の仕訳として、次の仕訳を書いたかと思います。


参謀試案の仕訳(法人税法の規定を参考にしたイメージ上の仕訳)

(寄付金) 100円 / (資産) 50円
(現金) 60円      (譲渡益) 10円
                (差額負債調整勘定) 100円


上記の仕訳は、時価について考える上での私個人の試案に過ぎず、まず説明をしないと全く意味不明な仕訳になっていると思います。
ここでは、法人税法上は資産には予め決められた時価がある、ということを前提に考えているわけです。
法人税法上は「資産には予め決められた時価がある」ということは、この場合、
「資産を取得した人は金額にして時価の寄付を受けたもの」ということです。
「資産を取得した人は金額にして時価の寄付を受けたもの」ということを取引の前提にして考えると、
資産の譲渡を行った人は時価(ここでは100円)の金額の寄付を行った、という捉え方が先に来るわけです。
ですからまず最初に、借方に100円の寄付金勘定が来るわけです。
そして、引き渡した資産の帳簿価額は50円ですので、50円の資産勘定が貸方に来ます。
また、資産を引き渡した見返りとして現金を60円受け取っていますので、60円の現金勘定が借方に来ます。
そして、引き渡した資産勘定と見返りとして受け取った現金勘定の差額が譲渡益となるわけです。
このままでは貸借に100円の差額が生じますので、差額100円は差額負債調整勘定で調整しています。
上記仕訳では、取引を「寄付の部分」と「資産の譲渡の部分」とに分けているわけです。
「この取引は資産の譲渡人にとって寄付なのだ」、という捉え方が一番最初に来ているわけです。
相手方に金額にして100円の寄付を行ったということをまず最初に認識することにより、
資産の譲渡の部分は通常の資産の譲渡に準じた会計処理になる、と考えているわけです。
「この取引は資産の譲渡人にとって寄付なのだ」という会計処理(仕訳に記入する)をまず行うことで、
資産から時価という縛りをなくしている(その結果、通常の資産の譲渡と同じ扱いをできるようになる)、
というふうに考えています。

 


この、「この取引は資産の譲渡人にとって寄付なのだ」という会計処理(仕訳に記入する)をまず行うことで、
資産から時価という縛りをなくす、という考え方は、
現行の規定上も会計理論上も、全く行わないことかと思います。
誰にとっても前代未聞と言いますか、そのような考え方などないのではないか、と誰もが思うだろうと思います。
ここはまさに私個人の試案という部分です。
ただ、試案ついでにこの場合の買い手の仕訳を書きますと、次のようになるかと思います。


買い手の仕訳

                            (受取寄付金) 100円
(資産) 60円              / (現金) 60円
(差額資産調整勘定) 100円


上記の仕訳も、また意味不明だな、と思われると思います。
ここでも、「まず買い手は金額にして100円の寄付を受けたのだ。」というところから仕訳の記入を始めています。
これにより、資産の譲渡から時価の縛りがなくなります。
したがって、買い手は現金60円を支払って資産を取得します。
このままですと貸借に100円の差額が生じますので、現行の法人税法の規定から勘定科目名だけを拝借して、
差額100円を差額資産調整勘定で調整しました。
ただ、受取寄付金は益金であるのに対し、差額資産調整勘定はここでは損金不算入、と考えています。
すなわち、買い手には益金100円のみが認識される、ということになります。
この試案の場合、現行の法人税法の規定に比べ、益金は60円多くなり、また、資産の取得原価は40円小さくなります。
この結果、買い手が資産を再譲渡した場合、時価云々を度外視すれば、取得原価が小さくなった分、
譲渡による益金は相対的に40円多くなる、ということになると思います。
この辺り、私の試案はあまりにも奇抜なため、現行の法人税法の規定との比較はあまり意味はないかもしれません。
あくまで試案ということで、読んでいただければと思います。
一見して意味不明な仕訳だと思われると思いますが、上記仕訳についての説明付けは以上のようになります。

 


では、今日は次の設例を考えてみましょう。

【設例A】
時価100円の資産を、代金110円を受け取って相手方に譲渡した。資産の帳簿価額は50円である。

まず、現行の法人税法上の仕訳は次のようになります。


買い手の仕訳

(資産) 100円   / (現金) 110円
(寄付金) 10円


売り手の仕訳

(現金) 110円  / (資産) 50円
                (譲渡益) 60円


買い手には、法人税法上特段の益金は認識されません。
寄付金10円は、法人税法上は損金不算入(課税所得額に影響を与えない)というだけです。
売り手には、法人税法上60円の益金が認識されます。
上記仕訳を見てみますと、買い手、売り手、それぞれにとっての「法人税法上の影響」を考えてみますと、
資産には時価がない場合と同じ状況になっているかと思います。
買い手にとっては、資産の取得の見返りとして支払う金額が資産の時価を超えてれば、資産には時価がないことと同じであり、
売り手にとっては、資産の譲渡の見返りとして受け取る金額が資産の帳簿価額を超えてれば、資産には時価がないことと同じである、
ということに結果的にはなっています。
ただ、細かいこと(その後の取引のことまで)を言いますと、
買い手が資産の取得の見返りとして支払う金額が資産の時価を超えている場合、
資産に時価がある場合は取得原価はやはり時価である一方、資産に時価がない場合は取得原価は支払った資産の対価の金額です。
このことは、買い手が資産を再譲渡する場合、譲渡益(益金)の金額に影響してきます。
譲渡価額が同じなら、取得原価が小さい方が譲渡益の金額は当然大きくなります。
その意味では、やはり資産に時価があるかないかでは、買い手が支払う金額が多かろうと、法人税法上の影響はあることになります。
また、上記仕訳だけを見ると、寄付金10円は、企業会計上(会社法上)は費用になるのだろう、と思われるかもしれませんが、
企業会計上(会社法上)は上記の仕訳そのものを切らないわけです。
企業会計上(会社法上)は、資産の取得原価は110円になります。
その意味では、資産に時価がありますと、法人税法上と企業会計上(会社法上)とで差異が必然的に生じるといえるでしょう。

 



では次に、ここからは私個人の独自の考察になりますが、昨日の論理展開を踏まえた仕訳について考えてみましょう。
昨日は、【設例@】を題材にして、
”別の人は100円で資産を買うと言っているにも関わらず、60円で資産を買うと言っている人に資産を売ることは商取引ではない。”、
という点について考えた上で、法人税法の考え方を参考にした参謀解釈の仕訳を書きました。
では今日の【設例A】の場合は、どのように考えるべきでしょうか。
昨日の【設例@】とは異なり、今日の【設例A】では、
資産を時価ではなく時価以上の価格で売ろうとしているわけですから、売り手は利益を最大化しようとしています。
ですので、この取引は売り手にとって寄付の側面は全くないと言えるでしょう。
問題は、買い手にとってこの取引は寄付の側面はないのか、という点でしょう。
時価のある資産の場合、資産の取得原価は時価でなければならないわけですが、
仕訳を見ても分かるように、時価以上の金額で資産を取得する場合は買い手に寄付金勘定が計上されてしまうわけです。
文字通り、買い手は寄付金を支払う、という考え方・仕訳・会計処理になってしまうわけです。
この点をどのように考えるか・解釈するか、の問題になろうかと思います。
1つの見方としては、買い手は寄付金を支払うのならば、それは売り手にとっても寄付金ということだ、という見方です。
ただ、昨日の【設例@】とは異なり、今日の【設例A】では、
「取引全体が寄付的行為・贈与的行為」という見方・捉え方はできないと思います。
つまり、買い手は受贈益100円を認識した上で資産を時価である100円で取得し、
さらに、支払った現金110円は、全額売り手に対する寄付である、という見方・捉え方はできないと思います。
買い手としては、当然のことながらできる限り低い価格でその資産を取得したいと思っているのですが、
商取引という文脈では、時価未満の価格では売り手は絶対に売らないわけです。
ですので、買い手としては、その資産を取得したいと思っている場合は、
購入希望価格を必然的に時価以上に上げざるを得ないわけです。
つまり、商取引という文脈では、時価のある資産の譲渡は必ず時価以上の価格で成立するのです。
そういったことを考えますと、買い手としては、商取引上必然的に時価以上の価格を売り手に支払うことになるにも関わらず、
「その取引は寄付的行為・贈与的行為である。」などと言われてしまうと、取引そのものが成り立たないわけです。
その資産の換金性・現金との交換性を鑑みると、支払った現金のうち時価の金額を超える部分(差額部分)は寄付だ、と言われると、
買い手としては納得できなくはないかもしれませんが、
「取引全体が寄付的行為・贈与的行為」という見方・捉え方をされてしまうのはやはり納得いかないでしょう。

 



この辺り、その資産の性質・特徴・社会的位置付け、さらには用途といったことを十分に考慮に入れなければ
理論上は答えは出ないと思います。
これまで、時価のある資産として、国債、土地、建物、の3種類の資産について考えてきました。
ところが、これら3種類の資産は、換金性・現金との交換性という点ではどれも全く同じ(必ず現金化できる)なのですが、
これらの性質・特徴・社会的位置付け、さらには用途は根源的に異なるのです。
国債は、有り体に言えば、現金との交換そのものにしか使えない、と言えます。
国債は、現金と同等物と言っていいですし現金の代替物と言ってもいい資産です。
国債に、稼動させるだの使用するだの収益するだのいった概念はないわけです。
国債には利息が付されていますので、その部分だけは収益すると言っていいのかもしれません(受取利息は確かに収益・益金)が、
理論的には、利息も含めて1つの国債、という捉え方になると思います。
つまり、会計上は元本と利息は認識の仕方として全く異なるわけですが、元本部分と利息部分とは資産としては一体的と言いますか、
元本の引受に際し別途利息の受取に関する契約は締結しないと言いますか、
有価証券の生来的な概念として利息と呼ばれるものが元本とは別にあるわけではないと言いますか、
簡単に言えば、相手にお金を貸していることの見返りとして利息を受け取るわけですから、
元本と利息は、資産としては・大きな視点で取引を見れば、一体不可分のものであるという捉え方になるわけです。
したがって、国債は、稼動や使用や収益は行えず、専ら現金との交換そのものにしか使えない、と言えるわけです。
一方で、土地というのは、稼動や使用や収益が行えます。
取得した・所有している土地をそのまま他の人に賃貸借すれば、収益が行えます。
取得した・所有している土地の上に家を建てて住めば、使用が行えます。
取得した・所有している土地の上に事業場を建てて事業を営めば、稼動が行えます。
国債同様、土地も現金との交換は行えますが、
国債とは異なり、土地というのは、稼動や使用や収益を行うことが主目的と言っていいでしょう。
また、建物というのも、稼動や使用や収益が行えます。
取得した・所有している建物をそのまま他の人に賃貸借すれば、収益が行えます。
取得した・所有している建物に住めば、使用が行えます。
取得した・所有している建物で事業を営めば、稼動が行えます。
国債同様、建物も現金との交換は行えますが、
国債とは異なり、建物というのは、稼動や使用や収益を行うことが主目的と言っていいでしょう。
国債の購入ではなく、「保有している国債(有価証券)そのものについて他の人と賃貸借契約を締結する」
などということは通常は・実務上は行わない・概念的におかしいということからも分かるように、
国債は、稼動や使用や収益は行えず、専ら現金との交換そのものにしか使えないのです。
この点において、国債は土地や建物とは根源的に位置付けが異なるのです。

 



簡単に言えば、国債には立地条件はありませんが、土地や建物には立地条件と呼ばれるものがあるのです。
国債を額面金額(時価)以上の金額で買う人はいません。
もしいたら、それはまさに寄付行為です。
しかし、土地や建物を時価以上の金額で買うことは、商取引上十分にあり得ることなのです。
誰も山間部の人里離れた土地で暮らしたいとは思わないでしょう。
しかし、その土地に高速道路のインターチェンジがある場合は、
物流会社にとってはその土地は是非とも手に入れたい土地となるでしょう。

There is no accounting for tastes. (好みは説明できない。蓼食う虫も好き好き。)

という諺がありますが、国債とは異なり、土地や建物については、金額以外の要素(立地条件や各個人の境遇等)が含まれるため、

There is no accounting for universal benefits. (万人共通の利益というのは説明ができないものだ。)

ということになるわけです。
土地や建物については、「時価」の一言だけでは絶対に説明が付けられないわけです。
土地や建物をどのように活用するかで、
その土地や建物から生じる将来のキャッシュフローの金額というのは大きく変わってくるわけです。
額面金額100円の国債は誰にとっても100円の価値がある(その国債に100円の価値があることは万人共通のこと(universal))
わけですが、時価とやらが100円の土地や建物は、誰にとっても100円の価値があるどころか、
その土地や建物は、90円の価値しかないと判断する人もいれば110円の価値があると判断する人もいる、といった状態でありますし、
また、そこに住むとなりますと、土地や建物の価値はとても数値化はできないという話になってくるわけです。
ですので、以上のような社会的背景のようなことまで鑑みますと、
国債を額面金額(時価)以上の価格で買うとなりますと、それは差額は明らかに寄付だ、という解釈になると思います。
ところが、土地と建物に関しましては、土地や建物を時価以上の価格で買うという取引であっても、
その取引そのものや少なくとも差額部分についても、寄付や寄付的行為であるとは言えない、という解釈があると思います。
ここには、理論上の線引きはないと思います。
後は、時価というものをどれだけ強いものだと定めるかの話になると思います。
つまり、それでも土地や建物については時価が絶対的な基準だ(例えば「差額は必ず寄付だ」)、と定めるならば、
実務上は、差額は寄付となる、という会計処理を行うしかない、ということになるわけです。
法律である以上は、それこそ万人共通の基準を定めないといけないわけですから、
資産の活用方法次第では云々や人の幸福というのは云々というのは、法律の上では度外視するしかない、
ということになると思います。
その意味では、今日の【設例A】の仕訳は、上の方で書きました仕訳が結局一番自然な仕訳だ、ということになると思います。