2016年3月11日(金)
昨日2016年3月10日(木)までのコメントに追記をしたいと思います。
主に以下の8日間のコメントに追記をする形になります。
2016年3月2日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160302.html
2016年3月3日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160303.html
2016年3月4日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160304.html
2016年3月5日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160305.html
2016年3月6日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160306.html
2016年3月7日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160307.html
2016年3月9日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160309.html
2016年3月10日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201603/20160310.html
昨日までに書きました「仕訳@」から「仕訳L」を改めて見ていただきたいのですが、
国債であれ土地であれ建物であれ、時価がある資産の譲渡に関する取り扱いは、
その資産の譲渡の場合も共通(仕訳や取り扱いの本質部分は同じ)である、ということが分かると思います。
また、昨日までは、「資産を取得する側(譲り受ける側)の仕訳」を書いたわけですが、取引では「取引の相手方」も重要です。
ですので今日は、「取引の相手方」の仕訳ということで、「資産を売却する側(譲渡する側)の仕訳」も併せて書きたいと思います。
時価がある資産(国債や土地や建物)の譲渡に関する会社法上の仕訳そして法人税法上の取り扱いを仕訳に翻訳した仕訳は、
全てそれぞれ以下のようになります(以下の仕訳は、資産が国債、土地、建物いずれの場合でも共通の仕訳になります)。
資産の時価を100円、所有者の資産の帳簿価額を100円、
時価よりも高い譲渡価額を200円、時価よりも低い譲渡価額を0円(無償譲渡)、とします。
○時価よりも高い価額で資産を譲渡した場合
資産を取得する側(譲り受ける側)の仕訳
会社法上の仕訳
(資産) 200円 / (現金) 200円
法人税法上の仕訳
(資産) 100円 / (現金) 200円
(寄付金) 100円
資産を売却する側(譲渡する側)の仕訳
会社法上の仕訳
(現金) 200円 / (資産) 100円
(売却益) 100円
法人税法上の仕訳
(現金) 200円 / (資産) 100円
(譲渡益) 100円
○時価よりも低い価額で資産を譲渡した場合
資産を取得する側(譲り受ける側)の仕訳
会社法上の仕訳
(資産) 0円 / (現金) 0円
法人税法上の仕訳
(資産) 100円 / (受贈益) 100円
資産を売却する側(譲渡する側)の仕訳
会社法上の仕訳
(現金) 0円 / (資産) 100円
(売却損) 100円
法人税法上の仕訳
(現金) 0円 / (資産) 100円
(譲渡損) 100円
上記仕訳を見ていただくと分かる通り、
「時価よりも高い価額で資産を譲渡した場合」も「時価よりも低い価額で資産を譲渡した場合」も、
「資産を取得する側(譲り受ける側)の仕訳」は会社法上と法人税法とで完全に異なるのに対し、
「資産を売却する側(譲渡する側)の仕訳」は会社法上と法人税法とで、若干の勘定科目名の差異こそあれ、事実上同じ仕訳である、
と言っていいわけです。
その理由は、法人税法上の取り扱い・解釈として、時価がある資産に関しては、受贈益(益金)の認識の関係上、
”資産を譲り受ける側の取得価額は資産の時価でなければならない。”
ということに重点を置いているからであるわけです。
極めて簡単に言えば、法人税法上は、「取得価額は時価でなければならない。」ということになるわけです。
では、取引の相手方の法人税法上の取り扱いはどうなるでしょうか。
上記の仕訳が参考になるかとは思いますが、資産を売却する側(譲渡する側)の譲渡価額には法人税法上の制限はないわけです。
法人税法上、資産を取得する側は資産を時価で取得しなければなりませんが、
資産を売却する側(譲渡する側)は、資産をいくらで譲渡しても構わないわけです。
法人税法上、取得価額には制限がありますが、譲渡価額には制限はないわけです。
・・・と考えていくと、何かおかしくないか、と気付くわけです。
例えば、上記の、「時価よりも低い価額で資産を譲渡した場合」の「資産を売却する側(譲渡する側)の仕訳」の
法人税法上の仕訳(つまり、一番最後の仕訳)を見て下さい。
再度仕訳を書きますと、以下のようになるわけです。
法人税法上の仕訳
(現金) 0円 / (資産) 100円
(譲渡損) 100円
上記の議論を踏まえると、税務に詳しい方ならば、
借方勘定科目は「譲渡損」(損金)ではなく、「寄付金」(損金不算入)ではないか、と思われると思います。
つまり、法人税法上は次の仕訳になる、と思われると思います。
法人税法上の仕訳
(現金) 0円 / (資産) 100円
(寄付金) 100円
確かに、時価がある資産を時価未満の価額で譲渡したわけですから、差額は寄付金(損金不算入)という考え方は正しいわけです。
そのとおり。
その考えは間違いではありません。
しかし、考えてみますと、そもそも、
資産を売却した(譲渡した)人は、相手方にいくらの寄付(もしくは贈与)を行ったのでしょうか。
資産を売却した(譲渡した)人は、「金額にして時価の寄付・贈与」を行ったのではないでしょうか。
逆から言えば、相手方は「金額にして時価の寄付・贈与」を受けたのではないでしょうか。
すなわち、ここでの寄付・贈与の金額は、所有者の資産の帳簿価額とは無関係であるわけです。
例えば、所有者の資産の帳簿価額を50円、資産の時価を先ほど同様100円だとしましょう。
この時、法人税法上の仕訳は次の仕訳になる、と思われると思います。
法人税法上の仕訳
(現金) 0円 / (資産) 50円
(寄付金) 50円
ではこの時の、「資産を取得する側(譲り受ける側)の仕訳」はどのようになるでしょうか。
「資産を取得する側(譲り受ける側)の仕訳」の法人税法上の仕訳は次の仕訳になるわけです。
法人税法上の仕訳
(資産) 100円 / (受贈益) 100円
しかし、これはおかしいのではないでしょうか。
資産を売却した(譲渡した)人は、相手方に「50円」の寄付・贈与を行ったのに、
資産を取得した(譲り受けた)人は、相手方から「100円」の寄付・贈与を受けたわけです。
支払った・受け取った寄付・贈与の金額が食い違っているわけです。
「Grandfather
Paradox」なら聞いたことがありますが、このパラドックは何と呼べばいいのでしょうか。
「Granted giver
Paradox」とでも呼びましょうか。
giver は「贈与を行う者」という意味です。
grant
は「認める」という意味です。
また、grant には、「権利や金銭などを与える」という意味もあります。
”granted
giver”は、専門用語や慣用句などではなく、私の造語なのですが、
ここでの文脈に即して、「時価での贈与が認められた贈与者、資産の贈与が時価となる者」といったニュアンスで造りました。
上記のように、支払った寄付・贈与の金額と受け取った寄付・贈与の金額とが食い違っているわけですが、
その原因は、資産を取得する側は時価での取得となる(資産の取得価額は時価となる)のに対し、
資産を譲渡する側の資産の帳簿価額は時価とは異なっている、ということにあるわけです。
「資産を譲渡した人は金額にしていくらの寄付・贈与を相手方に対し行ったのか?」という観点から見ると、
行った寄付・贈与の金額と相手方が受け取った寄付・贈与の金額とが食い違ってくるわけです。
ただ、大まかに言いますと、寄付・贈与に伴いこのような食い違いが生じる資産というのは、
国債、土地、建物の中では、基本的には土地だけだということになると思います。
国債の時価は額面金額のまま変動することはありません(所有者の帳簿価額=時価が常に成り立っている)し、
建物の時価は法人税法上の減価償却手続き後の帳簿価額という取り扱いになる(所有者の帳簿価額=時価が常に成り立っている)
かと思います。
土地だけは、所有者の帳簿価額とは無関係に、一般論として時間が経つにつれ時価(土地の価格)は上昇する、
ということになります(「所有者の帳簿価額=時価」は全く成り立っていない)。
ただ、ここでは、食い違いが生じるのは土地の譲渡の時だけなのだから実務上は相対的に問題は小さいのではないか、
などと考えるのではなく、税務理論として、
「資産の価額に予め決められた時価という考え方・概念を用いると矛盾が生じるのだ。」
ということを理解しなければなりません。
支払った寄付・贈与の金額と受け取った寄付・贈与の金額とに食い違いが生じる根本原因というのは、
煎じ詰めれば、まさに「資産の取引価額について、いわゆる”時価”という考え方・概念を用いていること」にあるのです。
資産の取引価額について、いわゆる”時価”という考え方・概念を用いない場合は、このような矛盾は決して起きないのです。
資産の取引価額について、いわゆる”時価”という考え方・概念を用いない場合は、このような矛盾は決して起きないということは、
今日私が最初に書きました各仕訳を見比べてみるとはっきりと分かるかと思います。
各「会社法上の仕訳」が、「資産の取引価額について、いわゆる”時価”という考え方・概念を用いない場合の仕訳」になります。
今日私が最初に書きました会社法上の仕訳では、資産の価額はお互いが合意した価額になっており、
また、資産には支払った・受け取った対価の金額が付されているわけです。
簡単に言えば、まさに「資産の価額=対価の金額」である、というだけなのです。
100円のものを、100円で買った、売った方は代金を100円受け取った、
売買とは言ってみればこれだけのことであるわけです。
例えば、”100円のものを、200円で買った、売った方は代金を50円受け取った”、
などという意味不明な話はないわけです。
しかし、買い手はある土地について100円の価値があると判断をし、お互いに土地の価値は100円ということで合意をしたのだが、
土地の時価は200円であり、そして、土地所有者の土地の帳簿価額は50円であった、
となりますと、途端に、”100円のものを、200円で買った、売った方は代金を50円受け取った”、
などというような意味不明な話が現実に起こってしまうわけです。
語弊を恐れずに言えば、時価という考え方は、取引を著しく歪めてしまうものだと思います。
これも語弊を恐れずに言えば、資産に時価と呼ばれる予め決められた公正な価格があると考えることが自体が実は間違いなのです。
資産には時価があると考える背景には、資産を保有・使用することによる目には見えない便益を数値化しよう、
という考えがあるのだと思います。
例えば、片田舎にある築50年の小さな家を無償で贈与を受けた場合と、都会にある新築の大きな家を無償で贈与を受けた場合とでは、
人が享受する便益の大きさというのはやはり違ってくるわけです。
片田舎にある築50年の小さな家も都会にある新築の大きな家も同じだ、という人はいないわけです。
そこで、この「人が享受する便益の大きさ・違い」というものを、数値化しようとする試みが時価という考え方なのだと思います。
すなわち、「家の価値」を金額で表現することにより、片田舎にある築50年の小さな家は相対的に金額としては小さく、
都会にある新築の大きな家は相対的に金額としては大きい、というふうに。
そして、両方の家に付けられたその金額のことを、俗に「時価」と呼ぶわけです。
同じ新築の同じ広さ・間取りの家でも、都会の方は高く、田舎の方は安い、ということはあると思いますが、
それもまた1つの時価というものでしょう。
もちろん、これはこれで時価という考え方が合理的な場合もあるとは思います。
ただ、例えば、ずっと田舎で暮らしてきた高齢者には都会の家よりも田舎の家の方が価値が高い、ということは現にあるわけです。
その高齢者に、「どちらの家を無償で贈与を受けたいですか?」と尋ねると、田舎の家の方を選ぶ、ということは現にあるわけです。
この年になって都会に出て行っても馴染めないかもしれない、住み慣れたところがいいや、と高齢者が考えることは、
何ら不合理ではないわけです。
そういった高齢者が享受する便益というのは、決して数値化できないものであるわけです。
逆から言えば、資産に時価という金額をつけることは、非常に多くのことを実は暗に度外視している・度外視した結果だ、
という言い方ができる(時価という共通尺度は、人の価値観や置かれた境遇等を全て捨象して考えている)わけです。
簡単に言えば、人が享受する便益というのは、決して金額で表現できるものではないわけです。
もちろん、通常の売買の場合も、資産の価値というものを金額でしか表現していないという言い方はできるわけですが、
そこは「現金と呼ばれる尺度が提供できるのは資産の価値を金額で表現することだけなのだ。」、というふうに理解するに留め、
逆に、当事者がお互いの意思を表現する手段が現金と呼ばれる尺度なのだ、というふうに物事を捉え、
資産の取引価額については、当事者の意思に委ね、いわゆる”時価”という考え方・概念は用いるべきではない、
というふうに思います。
資産の取引価額について、いわゆる”時価”という考え方・概念は用いることは、
現金と呼ばれる尺度が取引に対して提供できる範囲を逸脱するものである、
というふうに理解するべきでしょう。
現金と呼ばれる尺度は、そこまで表現し切れません。
文章やイラストであれば、図柄や色や台詞や文字など、様々な表現方法が利用可能かとは思いますが、
現金にあるのは数値・金額だけなのです。
現金と呼ばれる尺度に、金額による表現以上のものを求めるというのは、
それは人生論や哲学やイデオロギーと呼ばれる類の問題になるわけです。
いわゆる”時価”という考え方・概念は、その人生論や哲学やイデオロギーと呼ばれる類の問題に足を踏み入れているわけです。
資産の価値に時価という考え方・概念を取り入れた途端に、「私の考えはあなたとは違う。」という話が始めるわけです。
ちょうど、ずっと田舎で暮らしてきた高齢者が「わしは都会の家ではなく田舎の家の方が欲しい。」と言うように。
ずっと田舎で暮らしてきたその高齢者は、売り手に対し「わしは田舎に家が欲しい。いくらだ?」と尋ねるでしょう。
それが本来の取引、本来の資産の価額ではないでしょうか。