2017年10月13日(金)



記事を1つ紹介し、ここ10日間の論点に関して一言だけ追記をします。


2017年9月20日(水)日本経済新聞
戸籍事務にマイナンバー 法相、法制審に諮問 婚姻届など手続き簡潔に
(記事)


ここ10日間のコメント

2017年10月3日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171003.html

2017年10月4日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171004.html

2017年10月5日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171005.html

2017年10月6日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171006.html

2017年10月7日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171007.html

2017年10月8日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171008.html

2017年10月9日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171009.html

2017年10月10日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171010.html

2017年10月11日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171011.html

2017年10月12日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171012.html

 



今日は、ここ10日間書きましたことのまとめのようなことを書きたいと思います。
ここ10日間の一連のコメントは、「戸籍情報というのは公示をするべきものなのだろうか?」という点について、
法理的な観点から考察を行ったものであるわけです。
そして、公示をするべき情報をさらに広く捉え、「公文書というのは全て公示をするべきものなのだろうか?」、
という点について法理的な観点から考察を行いました。
一言で公文書と言いましても、様々な種類がありますし、公文書作成の目的も種類毎に異なりますので、
その答えを一言で言うのは不可能なことなのだろうと思います。
戸籍情報に関して言えば、「家」をどのような位置付けの事柄と定義するかで、公示の必要性が変わってくるわけです。
戦前であれば、「家」は公の一部であったわけなのですから、戸籍情報は当然に公示をする、という考え方であったわけです。
現代では、その考え方は馴染まないのかもしれません。
「公文書や戸籍情報や所有財産等の公示」に関しては、今後も考えていきたいとは思っているのですが、
一連のコメントとしては、一旦今日で終わりたいと思います。
明日からは、以前のように、記事を紹介してコメントを書く書き方に戻したいと思います。
それで、紹介している2017年9月20日(水)付けの日本経済新聞の記事についてなのですが、
全国の市区町村が扱う戸籍事務(婚姻届の提出やパスポートの発給申請や児童扶養手当の請求手続き等)に、
マイナンバー制度を導入することが法務省で検討されている、という内容になります。
記事本文を読むだけでは分かりづらいのですが、現在法制審議会で審議されている戸籍法の改正の内容・主眼というのは、
一言で言えば、「改正後は、戸籍情報を法務省で一元管理するようになる。」ということなのではないかと思います。
現在、戸籍というのは、本籍地がある市区町村が管理をしている
(現行制度上は、本籍地がある自治体以外は戸籍を参照することができない)わけなのですが、
今後は、戸籍は事実上国が管理をすることになる(全国どの自治体からも戸籍情報を参照できるようになる)、
ということなのだと思います(記事中の図「手続き簡素化イメージ」を見ると、そのような改正が審議されていると思います)。
交通手段が発達している(本籍地と居住地が異なることが人生を送る上で当然に生じる)現代であれば、
はじめから戸籍は国が管理をするべきだ、という考え方になると思います。
市区町村が戸籍を管理するというのは、人の移動がなかった時代(戦前など)の名残だとすら言っていいと思います。
記事を読む限り、マイナンバーカード自体は現在審議中の改正とはあまり関係はないように思います。
マイナンバーカードは身分証明の1手段というだけなのではないかと思います。
例えば、改正後は、運転免許証を提示しても、本籍地ではない自治体でも戸籍情報を照会できるようになるのだと思います。
記事の見出しや本文を読むと勘違いをしてしまいそうになりますが、
現在審議されている改正というのは、戸籍事務とマイナンバー制度を紐付けようとしているわけではないと思います。

 


次に、以上のことと関連する論点になりますが、「身分証明の手段」について、
2017年3月30日(木)にコメントを書いたことがあります。

2017年3月30日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201703/20170330.html

2017年3月30日(木)にコメントに少しだけ追記をしたいのですが、「身分証明の手段」として次のような表を作成してみました。

「居住地域の『人口規模』と『人の出入り』から分類した身分証明の手段」


人の移動が一切ない場合は、500人くらいまでであれば人の顔と名前を正確に覚えきれるのではないかと思うのですが、
500人を超えてくると、人の顔と名前を正確に覚えることが不可能になります。
人が社会全員の顔と名前を正確に覚えきれる場合は、どのような場面であれ、人に身分証は必要ありません。
なぜなら、まさに顔(その人の顔と名前を他人が知っていること)がそのまま身分証明の手段になるからです。
逆から言えば、人が社会全員の顔と名前を正確に覚えきれないからこそ、別途「本人確認の手段」が社会に必要になるわけです。
この場合の「本人確認の手段」とは、写真付きではない身分証や印鑑証明書になります。
人が社会全員の顔と名前を正確に知っている社会というのは、たとえて言うならば「小学校」であると思います。
小学生には身分証自体がいらないわけです(皆が始めから皆の顔と名前を知っているから)。
また、人の移動はないものの、人が社会全員の顔と名前を必ずしも正確に知っているわけではない社会というのは、
たとえて言うならば「中学校」であると思います。
中学生には、顔写真付きではない身分証(生徒手帳)が必要であるわけです(生徒手帳を持っている生徒が本人であるから)。
さらに、人の移動が生じ、社会に人が入ってくるようになりますと、
もはや人が他人の顔や名前を知っているということはあり得なくなります。
そうしますと、社会には、顔写真付きの身分証が必要になります。
そのような社会というのは、たとえて言うならば広い地域から人が集まってくる「高校」や「大学」であると思います。
入学時には自分の周りには知っている人が少数しかもしくは誰もいない、という状態を考えてみれば分かると思います。
そのような社会では、誰が誰か分からないわけなのですから、顔写真付きの身分証が必要になるわけです。
また、そのような社会では、性悪説に立つ必要(身分証の盗難・悪用の可能性)も出てくる、と言ってもいいわけです。
その意味では、現代社会では、顔写真が貼られていない健康保険証は身分証明書にはならない、と言ってもいいと思います。
マイナンバーカードが発行されるようになってからまだ2〜3年しか経っていないわけなのですが、
交通手段が発達して人の移動が当たり前となっている現代社会では、顔写真付きの身分証は社会の全員に必要なのだと思います。
社会的に信頼できる人物であれば顔写真付きの身分証を保有・携帯する必要はない、などということはありません。
身分証を悪用するのは、その人と同じ社会にいる信頼のできない人達なのですから(本人が信頼できればよいというわけではない)。
マイナンバーカードは、交通手段が発達し(人が移動し)始めた時点で、国が社会の全員に交付をするべきだったのだと思います。
たとえ社会的に信頼できる人であっても、その社会では性悪説に立って行動を取ることを必然的に強いられてしまうのですから。


How does a person identify himself?

人はどうやって身元を明らかにするのか?