2017年10月6日(金)



記事を1つ紹介し、ここ3日間の論点に関して一言だけ追記をします。


2017年10月6日(金)日本経済新聞
子のいる部屋 禁煙 受動喫煙対策の都条例成立 全国初、来年4月施行 「努力義務」罰則はなし
(記事)


ここ3日間のコメント

2017年10月3日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171003.html

2017年10月4日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171004.html

2017年10月5日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171005.html

 

「どの公文書は公示すべきでありどの公文書は公示には馴染まないのか」
という問いに法理的には答えが出せない理由について言及したコメント↓

2017年8月18日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201708/20170818.html

 



日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
>公文書
>こうぶんしょ
>日本の公務所(役所)または公務員が、その名義(肩書)をもって職務権限に基づき作成する文書。
>文書の名義が公務所または公務員である点でこれら以外を名義とする私文書とは区別される。
>また、公務所または公務員の名義で作成された文書であっても、その職務権限内において作成されることを要するから、
>たとえば公務員の肩書による挨拶(あいさつ)状や辞職願などの私的な文書は公文書に含まれない。
>刑法上、文書偽造罪は公文書と私文書とに区別され、公文書に対する社会の信用力が大きく、
>したがってその偽造は大きな被害をもたらすため、公文書偽造は私文書偽造より重く処罰されている(刑法第2編第17章)。
>なお、「公用文書」という概念があるが、これは公務所の用に供する文書、すなわち公務所が使用・保管する文書であり、
>公文書、私文書のいずれでもよい(同法258条参照)。

世界大百科事典内の公文書の言及
【古文書学】より
>[日本]
> 研究はまず(1)文書の書式・作成方法に関する研究があり,古く律令時代にさかのぼる。
>すなわち大宝令をほぼ踏襲したと考えられる養老令の公式令(くしきりよう)では,
>公文書として詔書・勅旨以下21種類の文書を掲げ,これらの公文書の書式と文書作成に関する諸規定,
>およびその施行について述べており,日本の古文書研究の源流をここに求めることができる。
>平安時代になって朝廷の儀式典礼が盛大に行われるようになると,
>それに関する正確な知識が要求され,有職故実の学が発達し,有職書が編纂される。
【文書館】より
>文書館として十分機能しはじめたのは1840年代以降で,国立古文書学校(1821設立)による文書館員の養成が寄与している。
>イギリスでは,1838年の公文書法の公布によって,ロンドンに公文書館Public Record Officeが設立され,
>文書長官Master of Rollsの下に統合的に保管されることになった。
>第1次大戦中には,戦時文書・記録の保存問題を契機として,文書館学,保管文書についての原則が確立した。
(コトバンク)
ttps://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%96%87%E6%9B%B8-497352

 

対象となる文書 公文書管理制度
(内閣府)
ttp://www8.cao.go.jp/chosei/koubun/about/bunsho/bunsho.html

 



昨日のコメントの最後に、次のように書きました。

>まだ十分に頭を整理し切れていませんが、今日行き着きました結論から言えば、
>不動産登記簿も公正証書も当然に公示をするものである、という結論を導き出せるように思いました。

昨日も、どのように考えればこの論点についてきれいに整理が付くだろうか、と考えながら書いたわけなのですが、
今日も昨日と同じようなことを考えていまして、「どの公文書は公示すべきでありどの公文書は公示には馴染まないのか?」、
という問いに法理的な観点から答えを出そうと様々に思案をしているところです。
しかし、答えがなかなか出ませんので、まずは「公文書」の定義を整理してみようと思いました。
辞書的な意味としては、「公文書」とは「国や地方公共団体の機関または公務員がその職務上作成する文書」となります。
「公文書」の対義語が「私文書」であり、
辞書的な意味としては、「私文書」とは「私人の作成した文書。公文書以外の文書」となります。
このままでは概念の整理が進みませんので、もう少し「公文書」を細かく分類しなければならないな、と思いました。
そこで、インターネットで「公文書」について検索してみますと、様々な記事がヒットしたわけなのですが、
読んでいて「ふむふむ理解のヒントになるな。」と思いましたのが、紹介し引用しているコトバンクというサイトの解説です。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説には、昨日私が書きました内容に類似することが書かれていると思いました。
基本的には、「公文書」とは、公が人に対して(人に向けて)作成する文書なのだと思います。
また、先ほど、”もう少し「公文書」を細かく分類しなければならない”、と書きましたが、
世界大百科事典の解説が私には参考になったのですが、公文書にも多くの種類があって、公文書と一くくりにするのではなく、
公示が馴染む公文書もあれば公示には馴染まない公文書もある、と考えるしかないのかもしれないな、と思いました。
ただ、この点については現在も様々な観点から考えているところです。

 


今私が考察を深める中で理解のヒントになるなと思っているのが「家の制度」です。
例えば「戸籍謄本」自体は公文書ですが、戸籍の情報を公示する必要性というのはあるだろうか、と考えているところです。
この問いに答えるためには、「『家』というのは、私の事柄なのかそれとも公に関する事柄なのか?」、
という問いに答えることができなければならないわけです。
しかし、考えれば考えるほど、この問いにも答えることはできないように思いました。
なぜなら、それは定義や線引きの問題に過ぎないからです。
この「答えは定義や線引きの問題に過ぎない。」(理論上の絶対的な答えがあるわけではない)
という難問に関する考察については、2017年8月18日(金) のコメントで書いていますので、読んでいただければと思います。
「家は私の事柄なのかそれとも公に関する事柄なのか?」という問いに絶対的な答えが出せない理由について、
私は2017年8月18日(金) のコメントで(自分で言うのも何ですが)いみじくも次のように表現していました。

>「民事不介入とは何か?」、法律の入門書の一番最初に書かれてそうな問いですら、その答えは実は明らかではないのです。

「家」の定義自体が理論的には不明確である(理論的に定義が1通りには決まり得ない)、
だから答えが出ないのではないか(各定義毎にそれぞれ一定の答えがあるだけなのではないか)、というふうに思いました。
紹介している本日2017年10月6日(金)付けの日本経済新聞の記事についてですが、
これはまさに公が「家」に関与・介入しようとする規則(条例)であるわけです。
「家」が純粋に私であるならば、この条例は民事不介入を犯していると言わねばなりませんし、
「家」が公の一部であるに過ぎないのであれば、この条例は社会(公)の利益に合致するものであるということになるでしょう。
記事には、条例が家庭内まで踏み込むのは「法は家庭に入らず」の原則に反する、と書かれていますが、
その考え方は「家」を私と定義・解釈している場合の話だ、という言い方ができると思います。
「家」を公の一部と定義・解釈するならば、法は家庭内にまで当然に踏み込むべきである、という考え方になるわけです。
「『家』は私に関する事柄なのか、それとも、公の一部に関する事柄なのか?」、
この問いに対する答えは、民法を何百回読んでも答えは出ないでしょう。
一般的な社会通念としては、「家」は私に関する事柄であると解釈されているわけですが、
しかし現実には「家」は社会の最小構成単位としても機能しているわけです。
親や子や兄弟というのは、社会的な存在ではないでしょうか。
つまり、親や子や兄弟というのは、一個人としてではなく、社会的な位置付けとして定義・表現されているはずです。
「○○さんちの長男」という言い方をするのは、そういうことではないでしょうか。
それはイコール、「家」という存在は社会(公)の一部である、という側面が現実には極めて強いということなのだと思います。
「法は家庭に入るべきだ。なぜなら、家庭は社会(公)の一部だからだ。」、この解釈は間違っていると誰が言えるでしょうか。
これは全く私の個人的な意見になりますが、また、私が結婚をしないと決めている理由の1つでもあるのですが、
「家の制度」というのは、「家」は実際には公の一部であるに過ぎないにも関わらず、
「家」はさも私の事柄であるかのように人々に錯覚させるための隠れ蓑である、というふうに私は思っています。
「『家』というのは実際には私のふりをしているだけだ。」、悪い言い方になりますが、やはり私にはそう見えるのです。
「『家の制度』というのは本当に社会に必要なのか?」、子供の頃からそう思い悩みながら生きてきたように思います。
それから、内閣府が主導している「公文書管理制度」の解説ページには、「行政文書」という言葉が載っていました。
「行政文書」という言葉・概念も「公文書」を整理するのに役立つなと思いましたので、公文書の分類を図に描いてみました↓。

「(広義の)公文書=公用文書・行政文書+(狭義の)公文書」

 


それから、現代では、”有印公文書”という言葉が法律その他にあるようですので、気になりましたので一言だけ書きます。
結論を言いますと、”有印公文書”という言葉や文書は元来的にはありません。
印鑑というのは私人のためにあるわけです。
私人が自分自身のことを証するために印鑑があるわけです。
ですので、公務員が印鑑を押すということは概念的にないわけです。
その背景には公務員の完全性(公務員というのは間違いを犯さない完璧な存在であるという法理上の前提がある)がありますが。
私人というのは間違いを犯すものであり、そしてまた、「誰がこの文書を作成したのか」を証明するために印鑑があるわけです。
本来は、印鑑はこの世に1本しかありません(同じ印影を持つ印鑑はこの世に1つとしてない。1本しかないかどうかが重要)。
ですので、印鑑を持っていることが本人であることの証明になるのです。
その意味において、印鑑というのは必ず公務所に届けなければならないのです。
公務所に届けていない印鑑は印鑑ではない、とすら言っていいのです。
なぜなら、公務所に届けていない場合は、「その印鑑を持っているはこの人です。」と公務所が証明できないからです。
より実務的には、印鑑には今で言う「実印」(役所に届けている印鑑)しかありません(「実印」以外は実は印鑑ではない)。
認印などという印鑑は法理的にはないのです。
「印鑑」を考察の軸にして、法理上の「文書の真正度」について概念整理をし図を描きましたので、理解の助けにして下さい。


「文書の真偽(作成者及び記載内容)に関する法理上の考え方」


@公文書         → 100%真正。
A有印私文書     → 少なくとも押印した本人が作成したことだけは明確。記載内容の真正度については別途推定するしかない。
B押印なしの私文書 → 誰が作成したのかすら不明。記載内容の真正度については言わずもがな。

注1:押印(いわゆる実印を押したもの)は「本人確認」の手段。
    印鑑を持っている人が本人。
    より実務的には、「印鑑+印鑑証明書」により、
    本人の押印であることが確認・証明できる。
注2:”有印公文書”という言葉や文書はない。
    公務員は本人確認の必要はないからである。
    公務員の署名のみで、公務員本人が作成したことが当然に証される。
    文書偽造に関する刑法理論上の罪の重さは、重い順に、
    「公文書偽造>>有印私文書偽造>押印なしの私文書の偽造」、となる。


On the principle of law, a signature certifies nothing, whereas a seal certifies a preparer as true.

法理的には、署名は何の証明にもなりません。
印鑑が作成者は真正であることを証明するのです。

 


Is what you call a "family" purely private affairs or merely a part of public affairs?
In my personal opinion, a "family" itself can't be defined clearly as which on the principle of law.
That's why what kinds of documents should be made known to the public can't be defined either, I suppose.
If I were to venture an opinion, I would say that a "family" is at once private affairs and a part of public affairs.
Let me take a "copy of a person's family register" for example.
When you regard a "family" as purely private affairs, it is never made known to the public,
whereas, when you regard a "family" as merely a part of public affairs, it is naturally made known to the public.


いわゆる「家」と呼ばれるものは、純粋に私に関する事柄なのですか、それとも、公に関する事柄の一部に過ぎないのですか?
私個人の意見になりますが、「家」それ自体が法理的には明確にどちらであるとは定義できないものなのです。
ですので、どのような種類の文書は公示をするべきなのかについても定義ができない、ということではないかと私は思います。
敢えて言うならば、「家」というのは、私に関する事柄でもあり、同時に、公に関する事柄の一部でもあるのです。
「戸籍謄本」を例に挙げてみましょう。
「家」を純粋に私に関する事柄であると考えるならば、「戸籍謄本」は決して公示をするものではないわけです。
しかるに、「家」を公に関する事柄の一部に過ぎないと考えるならば、「戸籍謄本」は当然に公示をするものなのです。