2017年10月5日(木)
記事を1つ紹介し、一昨日2017年10月3日(火)と昨日2017年10月4日(水)のコメントに一言だけ追記をします。
2017年9月30日(土)日本経済新聞
自分の意思 明確に伝えたい 「遺言は公正証書で」定着 登録件数 200万件突破
(記事)
2017年10月3日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171003.html
2017年10月4日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171004.html
一昨日と昨日は、不動産登記簿や商業登記簿は公示するべきか否か(私人の行為、私法上の法律行為に過ぎないのではないか)
という論点について、法理的な観点そして実務上の観点から考察を行いました。
それで今日は、相続と関連のある論点になるのですが、紹介している「遺言公正証書」についての記事を題材にして、
一昨日と昨日と同じような観点から「遺言公正証書」について考えてみたいと思います。
記事によりますと、全国の公証役場で作成された「遺言公正証書」のデータベースが整備されている、とのことです。
これは、「遺言公正証書」の原本を電子データの形で公証役場で保管しているという意味ではなく、
過去作成された「遺言公正証書」について誰でも全国の公証役場で検索や閲覧ができるような形になっている、という意味です。
記事によりますと、例えば「相続人が親」という場合の遺言について、検索や照会が簡単にできるようになっているようです。
記事によりますと、このデータベースの利用実績として、次のように書かれています。
>遺言を残した人が遺言公正証書の存在や保管場所を知らせないまま死亡した場合に法定相続人が照会するケースが多い。
記事を読んでまず最初に思ったのは、「そもそも遺言公正証書は広く一般に閲覧できる状態にする必要があるのだろうか。」、
という点です(遺言というのは、純粋に私人間の財産の移転についての言及・覚書に過ぎないはずだ、と思ったわけです)。
データベース上では、プライバシー保護のため、具体的な人の氏名や住所や財産の種類や金額等は見ることが
できないようになっている(つまり、事実上「雛形」だけの状態を閲覧できる)のかもしれません(それならよいのですが)が、
仮に人の「遺言公正証書」を他人がそのまま検索や閲覧できるのだとすると、理論的にも心情的にもおかしいと思ったわけです。
相続や遺贈というのは、財産を譲渡する人は死亡してはいるものの、私人間における行為、私法上の法律行為に過ぎないはずだ、
と思いました(つまり、「遺言公正証書」が「公示」されている(誰でも閲覧できる)状態というのはおかしいと思いました)。
それこそ、プライバシーの侵害だ個人情報保護の観点に反する、というような考え方になるなと思ったわけです。
私はまず最初に以上のように思ったわけなのですが、落ち着いて再度考えてみますと、また別の見方もできるなと気付きました。
それは、「遺言公正証書」は「公文書」である、という事実です。
「公文書」は、それこそ誰でも全く自由に読むことができる文書であるわけです。
政府には機密文書などがあったりするのではないか、と思われるかもしれませんが、それは法理的には「公文書」ではありません。
「公文書」というのは、「公対私人」(国対国民、政府から人へ)の関係について記した文書をいうのです。
純粋に政府内にある文書というのは、たとえ公務員が作成した文書であっても「公文書」とは呼ばないのだと思います。
一言で言えば、「人に対して『公文書』が作成される。」、ということだと思います。
公務員が公務員に対して作成した文書(公務員に向けての文書、宛先等が公務員の場合の文書)は「公文書」ではないわけです。
「公文書」の捉え方は、公と人との関係を定義した公法に類する考え方になると思います。
「公文書」について改めて考えてみますと、「公文書」というのは公務員が作成したからこそ少なくとも誰が見ても問題はない、
という位置付けになる文書ではないかと思ったわけです。
例えば、裁判における判決文は、まさに誰もが全く自由に見ることができるわけです。
争い自体は純粋に私人間の争いではあるものの、そこに裁判所という公の存在が介在する(公務員が判断する)わけですから、
判決文は公文書であり、その公文書は誰もが自由に見ることができる、という位置付けであるわけです。
率直に言って、判決文はまさに公示されているわけです。
判決文が公示される理由については、公務員による公務の結果だからだ、というふうに説明付けができるのではないでしょうか。
「公務員が人に対してどのような公務を行ったか」がブラックボックスになっている方が「公務の概念」としては問題がある、
という考え方になるのではないでしょうか。
人(当事者)の立場からすると、プライバシーの侵害だったり個人情報を何か公開されているかのように感じるかもしれませんが、
公(公務員)の立場からすると、公務員による公務内容や公務の結果を公に明らかにしなければならない、
という考え方になるのではないでしょうか。
つまり、「私が行った公務は公正明大です。やましいところは一切ありません。」、
と公に示すことが公務員には求められるのではないでしょうか。
それがそもそもの「公務の概念」(「公務とは何か」)ということではないでしょうか。
先ほどは、”「公文書」は、それこそ誰でも全く自由に読むことができる文書であるわけです。”と書きましたが、
これはやや言い過ぎな部分があったかもしれないなとも感じていますが、理詰めで考えていきますと、
元来的には「公文書というのは全て公示をするもの。」という結論に行き着くようにも思いました。
「公務員が公文書を作成したがその公文書は人には見せられない。」、というのは公務の概念的におかしいのではないでしょうか。
まだ十分に頭を整理し切れていませんが、今日行き着きました結論から言えば、
不動産登記簿も公正証書も当然に公示をするものである、という結論を導き出せるように思いました。