2017年10月7日(土)


記事を1つ紹介し、ここ4日間の論点に関して一言だけ追記をします。


2017年9月30日(土)日本経済新聞
資産の終活 まず一覧表 口座を集約、家族に伝達
(記事)



ここ4日間のコメント

2017年10月3日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171003.html

2017年10月4日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171004.html

2017年10月5日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171005.html

2017年10月6日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171006.html

 


「何が公のことであり何が私のことなのかは、実はその社会的位置付け(その事柄の定義)次第である。」
という点について言及したコメント(再掲)↓。

2017年8月18日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201708/20170818.html

 



昨日のコメントでは、公示をするべき公文書の種類について、次のように書きました。

>公文書にも多くの種類があって、公文書と一くくりにするのではなく、
>公示が馴染む公文書もあれば公示には馴染まない公文書もある、と考えるしかないのかもしれないな、と思いました。
>ただ、この点については現在も様々な観点から考えているところです。

そして、今日も、昨日同様、「家の制度」と「戸籍謄本」を主な題材として、
どのような種類の公文書が公示に馴染むのかについて考えていたのですが、「戸籍謄本」について昨日は次のように書きました。

>例えば「戸籍謄本」自体は公文書ですが、戸籍の情報を公示する必要性というのはあるだろうか、と考えているところです。

この問いに答えるためには、「『家』というのは、私の事柄なのかそれとも公に関する事柄なのか?」、
という問いにまず答えなければならない(その答え次第で「戸籍情報の公示の必要性」が変わってくる)わけです。
仮に「家」が純粋に私であるならば、戸籍情報は公示に全く馴染まないものだと言わねばなりませんし、
仮に「家」が公の一部であるに過ぎないのであれば、戸籍情報は当然に公示をするものであるということになるでしょう。
一言で言えば、「家」をどう定義するか次第で戸籍の情報を公示する必要性や社会的要求度が変わってくる、
ということになるわけですが、「家」の位置付け(私なのか、それとも、公の一部なのか)については、
民法上は全く明らかではありませんし、また、実生活上も全く判然とはしない、というのが誰しもの率直な感想でしょう。
この点に関する私個人の意見を言わせてもらえば、昨日も書いたことですが、
「家」というのは、現実には私と公の「混合体」(英語で言えば、"mix")であると思います。
悪く言えば、制度設計者が、ある時は自分に都合よく「家」は私の事柄であると言い(私の事柄として取り扱い)、
またある時は自分に都合よく「家」は公の事柄であると言う(公の事柄として取り扱う)、といった具合に、
「家」の両面性を恣意的に(その時々で自分に都合よく="self-willedly")利用しているだけだ、
というふうに私には見えるのです。

 



もしくは、敢えて良く言えば、「家」というのはそのようにしか(「両面性」があるものとしてしか)設計や定義ができないもの、
という言い方もできるかもしれませんが(「家」=(この世で最も小さな)社会、という社会的な捉え方はできるとは思いますが)。
誰もが1人で生きているわけではない、という現実を鑑みると、なるほどその意味では、
「家」でどう生きるのかでその人が社会でどう生きるのかが分かる、という社会的効用は実際にあるとは思います。
すなわち、「家」というのは、社会的な試金石(英語で言えば"test")なのだ、という捉え方はできると思います。
端的に言えば、家の中でダメな人は社会に出てもダメな人なのです(家で上手くやれない人は社会でも上手くやれない)。
家の中で自分が与えられた社会的役割をきちんと果たせる人は、社会に出ても自分が与えられた社会的役割を果たせるのです。
端的に言えば、家族を大切にする人は、社会でも周囲の人々を大切にするでしょう。
端的に言えば、家族を大切にしない人は、社会でも周囲の人々を大切にしない(人間関係が分かっていない)でしょう。
「家」という制度は、以上のような社会的な試金石となり得ますし実際に各家庭で試金石となっているのではないかと思いますが、
それは大所高所から見た「人の選別」には役立つかもしれませんが、必ずしも選別された人の幸せにつながるものではない、
という一面も現実にはやはりあるのです。
すなわち、たとえ家族を大切にしても、必ずしも自分と同じように家族を大切にしてきた人と結婚ができるというわけではない、
という現実が人には立ちはだかるわけです。
これは私が結婚はしないと決めている理由の1つなのです。
「家の制度」は人の幸せに全くつながっていない、それが私の率直な感想なのです。
そういった点も、私に「『家の制度』は制度設計者が恣意的に利用するためだけにあるのではないか?」、
という疑念を抱かせる原因となっているのです。
子供の頃は純粋に社会や社会制度を信じていたのですが、やはり大学4年生の時に完全に梯子を外された形になりました。
一言で言えば、社会や自分の人生が全く意味不明になったわけです。
「この社会はSFか何かではないのか?」、本当にそう思いました。
これが本当に社会なのであれば、この社会は全く尊敬に値しない、そう思っています。
ただ、最近は、「ここまで意味不明であるのは、社会の人々の知能の低さに原因があるのかもしれない。」、とも思っていまして、
そうであるならば、もはや何を議論しても意味がないと思っているところです。
なぜ私だけが高い知能を持って生まれたのかは全く謎だ、と自分でも思っています(理由は神様に聞いてください)。
「中学校の学習内容は実はこの世の誰にも理解できない。」、そんなSFのようなことが本当にあり得るのかと思っています。
仮に私の最近のこの考えが正しいのなら、社会の人々からは、私は宇宙人に見えるのかもしれません。
いずれにせよ、私と同じ知能を持った人間はこの世にいない、というのがどうやら現実のようです。
それならそれでやはり結婚はしないというだけだ、と思っています。
「1人の人間としてこの社会でどう生きるのか?」、という問いかけを自分自身にしてみますと、
私はたとえ相手が処女であろうと結婚はしないと思います。
セックスをしない人間にとっては、それほどまでに一夫一妻制は意味がないものに見えるのです。
社会で充実した人生を送るのに、なぜ結婚が必要なのだ、というふうにしか私には思えないのです。
結局のところ、「家」で選別された人間は(すなわち、生まれ育った家の家族を大切にした人間は)、結婚をしない、
という結論になるのではないか、と思っています(この世にサンプル数は私1人なのかもしれませんが)。
これは、皮肉な結果と言えば皮肉な結果なのだと思います。
家や社会で上手くやれる人間は結婚をしないのですから。
「まあ、世が一夫一妻制で世の人々が結婚をするのならそれはそれでいいや。俺は1人で生きていくから。」、
そう思いながら私は生きているわけです。

 


私個人の人生観や結婚観に話が脱線してしまったのですが、
今日紹介している2017年9月30日(土)付けの日本経済新聞の記事について一言だけ書きます。
この記事は、意外に思うかもしれませんが、戸籍の情報を公示することと実は関係があることなのです。
1981年ころに近所に住んでいる年配の人から聞いた話なのですが、おそらく戦前の公務員に関しての話だったと思うのですが、
「昔は公務員の家や住所や家族構成はみんなが知っていた。」、という話を聞きました。
そして、「昔は公務員の全財産もみんなが知っていた。」、という話を聞きました。
昔は公務員は全員が役場(職場)の近くに住んでおり、また、戸籍があったのも公務員だけであったそうで、
戸籍の情報を役場で全く自由に見ることができた、という話を聞いた記憶があります。
つまり、昔は戸籍が公示されていた、というわけです。
一言で言えば、昔は誰がどこに住んでいるか町の誰もが知っていた(知ることができた)、ということになるわけです。
公務員の所有財産についても、結局のところ、公務員の給料の金額が公示されていた、という意味だったのだと思いますが、
公務員がいくら持っているか町の皆が知っていた、という話を聞きました。
「戸籍があり住所等が公にされておりいくら所得があるのかも誰もが知っている」という人が、立派な社会の一員である、
と昔は考えられていたわけです。
そこに個人情報やプライバシーなどという概念は微塵もないわけです。
あくまで、社会の一員なんだ、と。
社会の一員ということは、個ではない、という意味であるわけです。
昔の「家の制度」は、明らかに「『家』は公の一部である」という位置付けであった、と言えるでしょう。
「『家』は公の一部である」からこそ、戸籍が公示されていたわけです。
また、「『家』は公の一部である」からこそ、昔は国は民事にも介入した(例えば家庭内暴力にも警察は動いた)ことでしょう。
戸主が警察に、「私の子供が私に暴力を振るうから逮捕してください。」と言えば、警察は戸主の子を逮捕したことでしょう。
昨日の言葉を引用すれば、昔の「家の制度」では、「法は家庭に入る」という考え方であったわけです。
昔の「家の制度」では、「家」は「くくり」として存在しただけなのだと思います。
人を「家」という単位でくくるために「家」は存在したのだと思います。
そして、その「くくり」は、公示されていた(誰もが知っていた)わけです。
現代では、「有名人」と聞きますと、語にあまりいい意味合いがなく、あまりいい印象を持たないわけなのですが、
昔は逆に、「有名人」である(誰もが住所や家族構成や財産を知っている)ことが、
社会的に高い評価を受けている(立派な社会の一員であると人々から思われている)、ということであったわけです。
昔は、人々に知られているというのは立派なことであったのだと思います。
社会的地位と呼ばれるものは、まさに社会の中で定義されるものであるわけです。
社会や社会の人々を無視した社会的地位というのはないわけです。
お金というのは一人歩きをしがちなものです。
お金というのは、社会的地位を表象するものでは決してないわけです。
お金を持っているから偉い、という考え方自体はやはり間違いであろうと個人的には思います。
「社会や社会の人々との関わり合い」という観点から言えば、社会の人々にその存在がよく知られている、
ということが偉い(社会的地位がある)ということだったのだと思います。
お金は結果として持っている、というだけだったのではないかと思います。