2017年8月18日(金)



昨日までの一連のコメントに一言だけ追記をします。
今日のコメントも、どちらかと言うと最近の一連のコメント全てに関連のあるコメントになりますが、
昨日のコメントの続きとして読んでいただければと思います。
今日も記事を紹介して、一言だけコメントを書きたいと思います。
今日は、「空き家」に関する記事を4つ紹介してコメントを書きたいと思います。

 


過去の関連コメント

2017年7月25日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170725.html

2017年7月27日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170727.html

から

2017年8月17日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201708/20170817.html

までの一連のコメント。

 


2017年8月14日(月)日本経済新聞
「空き家増税」 自治体が優遇解禁 放置の抑止力に 特措法で解体・流通を促進
(記事)

2017年8月15日(火)日本経済新聞
空き家解消 市町村主導 税も優遇、転用促す 国交省検討
(記事)


2017年8月15日(火)日本経済新聞
きょうのことば
空き家問題 災害時に危険、犯罪に悪用も
(記事)


2017年8月18日(金)日本経済新聞
空き家対策 27市町村を支援 国交省
(記事)



本日紹介した記事と関連のあるコメント

2017年6月20日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201706/20170620.html

2017年6月28日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201706/20170628.html

2017年7月8日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170708.html

2017年7月9日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170709.html

 



まず、本日紹介している「空き家」に関する記事についてです。
ここ数ヶ月、「空き家」に関する記事を時々目にするようになりました。
時に、相続登記がなされていないことなどが原因で、所有者不明の土地と空き家が増加している、
という内容の記事を非常に多く目にします。
不動産登記簿上の所有者に連絡をしても連絡が取れない、という事例が近年になって非常に多く生じている、という内容です。
商業地区の再開発を行う際などは、開発業者が地権者に面会し土地を譲ってくれるよう交渉を行うわけなのですが、
そもそも地権者(不動産登記簿上の所有権者)と連絡が取れない事例が増えているとのことです。
土地の所有権者が不明、という状況は不動産登記制度上あり得ないと言っていいかと思います。
なぜなら、誰の土地でもない土地(不動産登記がなされていない土地)というのは国の土地である、という考え方になるからです。
最近の記事で問題となっているのは、地権者(不動産登記簿上の所有権者)そのものは明確だが、
その地権者と連絡が付かない(地権者は既に死亡していることが原因等)、という点なのではないかと思います。
このような場合の法理的な考え方としては、死亡した地権者の土地について相続人が相続登記を行わない場合は、
その土地は国の所有物になる、という考え方だと思います。
なぜならば、死亡している人物は所有権を有しないからです。
つまり、登記簿上の所有権者は死亡しているとなりますと、その土地の所有権自体が存在しないことになるからです。
土地について誰も所有権を有していない状態が生じているわけなのですから(登記簿に所有権者が登記されていないことと同じ)、
それはイコールその土地は国の所有物である、という考え方になるわけです。
動産で考えてみますと、人がある動産の占有を止めたとします。
それは法理的には、その人はその動産の所有権を放棄したことと同じであるわけです。
つまり、その動産は(誰も所有権を有しないわけですから)国の所有物になる、と考えるわけです。
同様に、不動産に関して言えば、不動産について相続登記を行わなかったということは、
相続人はその不動産の所有権を放棄したことと同じであるわけです。
なぜならば、不動産の場合は、登記が所有権を表象するからです。
不動産の場合は、物理的な占有よりも登記内容の方が法律的に強いのです。
不動産に関しては、「登記は占有を破る。」という格言があってもおかしくないと思います。
ですので、相続税の納付期限との関連を考えれば、登記簿上の所有権者が死亡して10ヶ月以上を経過している場合は、
自動的にその不動産は国の所有物になる、という考え方をしなければならないわけです。
「その土地は死んだ父の土地であり父の死亡に伴い長男の私が相続した。
また相続登記を行っていないだけであり、(登記簿上の所有権者は私の父なのだから)その土地の所有権は私にある。」
と長男がいくら主張しても、不動産の所有権者は登記のみで判断しますから、長男のその主張は通らないわけです。
不動産を父から相続したというのなら、相続登記を行うべきだったのです。
不動産の場合は、相続登記を行うことを「相続する」と呼ぶのです。
不動産に関しては、固定資産税の納付が義務付けられています。
ですので、仮に所有権者が行方不明となりますと、固定資産税の滞納が生じることになります。
その場合は、地方自治体がその不動産を差し押さえる、ということも可能なのではないかと思います。
不動産の所有権者が固定資産税を滞納した場合は、一定の手続きを経た後、その不動産は国の所有物になる、
という考え方をしていくことも間違っていないと思います。
今日の議論で重要なことは、「不動産に関しては登記で所有権者を明らかにするのだから、
所有権者が不明という状況は原理的に生じ得ない。」、ということだと思います。

 



それで、以上書きました不動産登記(登記制度)と社会的位置付けとしては同じような位置付けのものと考えることができる
のではないかと思うのですが、昨日の「有価証券報告書」(ディスクロージャー)の作成者について一言だけ追記をします。
私は昨日のコメントで、「有価証券報告書」(ディスクロージャー)の作成者についてについて、次のように書きました。

>理解の助けのために、新旧の所得税法で例えて言えば、取締役が有価証券報告書を作成するのは「申告納税制度」であり、
>真の意味での独立者が有価証券報告書を作成するのは「賦課課税制度」である、とそれぞれなぞらえることができると思います。

>有価証券報告書は真の意味での独立者が作成するべきなのです。

そして、「真の意味で独立した人物」という意味合いで、
昨日はこの文脈における独立者を「an independent officer」と訳しました。
「賦課課税制度」における所得税の納付書の作成者は公務員(税務署の職員)であるわけですが、
同様に、究極的なことを言えば、
理論的には「有価証券報告書」(ディスクロージャー)の作成者は公務員(金融庁の職員等)である、
という結論に行き着くと思います。
これは証券市場や証券取引をどのような社会的位置付けのものと捉えるかで若干結論が変わる余地があることなのですが、
例えば、上場企業を社会の公器と位置付けるならば、
「有価証券報告書」(ディスクロージャー)の作成者は公務員であるべきだ、という結論になるわけです。
例えば、不動産の所有に関して言えば、不動産の所有や譲渡も、所詮は私的な取引(つまり「私事」)に過ぎないわけです。
不動産登記について悪く言えば、「なぜ私物の所有に関して、わざわざ国が公金を使って公に管理を行っているのか。
不動産の所有や譲渡というのは純粋に私人間の取引や私人の所有権に関する事柄ではないのか。
不動産に関してははただ単に所有権者が自分で管理をするもの、という考えるべきではないのか。」
という言い方はできるわけです。
私人の事柄(「私事」)に国が公金を使うのはそもそもおかしい、という基本的考え方(私法と公法の違い等)はあるわけです。
しかし、実生活上そして経済活動上、不動産の所有権に関しては、別途不動産登記簿を用意するという形で、
国が公金を用いて公に管理をするべきだ、との考え方から、法務局を設置したり法務局に職員を配置したりしているわけです。
法務局の運営(不動産登記簿の変更・保管等も含む)のための費用も職員(公務員)への給与の支払いも、
当然のことながら国のお金(公金)であるわけです。
しかし、確かに不動産の所有や譲渡というのは私人の事柄(「私事」)に過ぎないのだが、
実生活上そして経済活動上(取引の安定や秩序維持のため)のことを鑑みれば、その管理には国が関与するべき、
との考え方から、不動産は国の管理下で所有権が明らかにされる(不動産登記簿の作成・管理のこと)ことになっているのです。

 


同様に、上場企業や証券取引と言いますと、まさに私人間の取引そのものであるとも言えるわけですが、
安定して秩序ある経済活動を行う上で、透明性のある証券市場の構築のためだ、と考えるならば、
有価証券報告書の作成を公務員が行うことは何ら間違ってはいないことであるわけです。
不動産登記は不動産の所有権者の利益保護が目的ですが、同様に、
投資家の利益保護を目的として公金を使用する(すなわち、それも公務員の職務であると考える)、
という考え方はあるわけです。
例えば、上場企業のことを社会の公器という呼び方をしたりしますが、
その社会的影響力の大きさを鑑みれば(特に国が関与すべきことと社会的に判断できれば)、
透明性のある証券市場の構築のために公金を用いることは(すなわち、それを社会的に公務員の職務であると考えるならば)、
不動産登記制度同様、全く正しいことという結論になるのです。
例えば、社会の安定秩序・治安維持のために警察(国の関与)はいますが、
では「警察は社会にどこまでの秩序を図らなければならないのか?」、
という問いに絶対的な答えはあるでしょうか。
結局、それは線引きの問題に過ぎないのではないでしょうか。
他の言い方をすれば、社会の安定秩序や治安維持とはそもそもどの範囲のことでしょうか。
日本の法制度はそうなっていませんが、例えば家庭内暴力にも国が関与するべき、との考え方は法理理論的にはあるわけです。
なぜ家庭内では暴力が振るわれてよいのでしょうか。
その問いには、警察も法律も誰も答えてはくれないでしょう。
なぜなら、それは社会的な位置付けの問題に過ぎないからです。
「民事不介入とは何か?」、法律の入門書の一番最初に書かれてそうな問いですら、その答えは実は明らかではないのです。
つまり、「何が公のことであり何が私のことなのかは、実はその社会的位置付け(その事柄の定義)次第である。」
という結論になると思います。
今日のまとめとしては、その社会的影響力の大きさを鑑みれば、証券市場の安定・秩序維持のためには、
証券市場は国の管理下でその目的が果たされるべきだ(すなわち、公務員により有価証券報告書は作成されるべきだ)、
という考え方に理論的にはなるのです。
私的な取引(私人間の事柄、私事)に国が関与するのは間違いだ、という考え方は実は必ずしも自明ではないのです。