2016年5月7日(土)
過去のコメント
2016年4月28日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201604/20160428.html
2016年4月30日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201604/20160428.html
2016年5月1日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160501.html
2016年5月2日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160502.html
2016年5月3日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160503.html
2016年5月4日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160504.html
2016年5月5日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160505.html
2016年5月6日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160506.html
>甲さんが対象会社に対しデュー・ディリジェンスを行って未公表の重要事実を入手した後、その事実が未公表のままの状況下では、
>甲さんは、市場内取引では対象会社株式を売買できない(インサイダー取引規制違反になる)が、
>甲さんが、公開買付を実施すれば、公開買付者として対象会社株式を売買できる(インサイダー取引規制違反にならない)、
と私が思っている理由について書きました。
その理由とは、公開買付という手続きで株式を取得する場合は、
>株式を取得する者(つまり公開買付者)が公表される上に、株式を取得する者が実際に株式を取得するまでに一定の期間を要する、
からであると書きました。
市場内取引と対比させて、公開買付という株式取得制度の特殊性について昨日は書いたわけです。
昨日のコメントは、論理を組み立てて答えを出していったというより、犯罪者の心理状況や犯罪抑止といった観点から書きました。
それで、結論としては、
>法制度構築上は、犯罪心理学ではありませんが、
>「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」と定めることにも合理性は十分にあるように思います。
と書いたわけです。
私が昨日書いた内容は、好意的に解釈すると、私が何を言いたいか(犯罪抑止効果がある旨)は分かるのではないかと思いますが、
悪意を持って字面のみを捉えると論旨がはっきりしない部分もあると思います。
今日はその点について補いたいと思います。
まず、「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」と定めることの合理性についてなのですが、
ただ単に「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」とだけ定めますと、
犯罪抑止効果はあまりないと言えるわけです。
なぜなら、性悪説に立てば、どんなに重要な事実を隠して株式を取得しても、
「公開買付を行ったから法律には違反していない」と公開買付者が開き直る(確信犯的にインサイダー取引を行う)
ことが予想されるからです。
要するに、ただ単に「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」とだけ定めますと、
公開買付さえ行えばどのような株式取得も違法ではない、ということになりますので、
悪質な公開買付も犯罪ではないとなりますと、全く犯罪抑止効果はない(そもそもその株式取得は犯罪ではないのだから)、
ということになるわけです。
つまり、重要事実を未公表のまま行う公開買付は違法ではないと定めおきながら、
公開買付には違法行為を抑止する効果がある、という論理展開はどこか話が矛盾しているわけです。
ですので、重要事実を未公表のまま行う公開買付はどのような場合でも適法であると定めるのではなく、
そもそも重要事実を未公表のまま行う公開買付は適法性に関してはグレーなところがある、という法的土台がないと
株式を取得する者を公表したりしても、犯罪抑止につながらないように思うわけです。
そうしますと、結局のところ、不公正な取引全般に対して一定度の規制をかける包括規定が
犯罪抑止効果を発揮するためにはやはり必要だ、ということになると思います。
これは社会常識にも近い存在のものだと思います。
法律以前の位置付けのものと言ってもいいと思います。
「証券市場の健全性の確保のため、公正な取引を行うということが基本的考え方だ」という常識的コンセンサスが市場にないと、
犯罪抑止の効果はないように思うわけです。
簡単に言えば、どんな時も、罰があるから犯罪抑止になるわけです。
そもそも不公正な取引を行ってよいとなりますと、名前が公表されたから何だ、調査を受けたからなんだ、取材を受けたから何だ、
という話になってしまうでしょう(その株式取得ははじめから適法に決まっているわけです)。
ですので、私が昨日書きました犯罪抑止効果を生じさせるためには、その前提として、
そもそも不公正な取引は行ってならない、という常識的コンセンサスが市場にあることが必要なのだと思います。
その常識的コンセンサスを市場に生じさせるものが、他ならぬ法律なのだと思います。
社会生活や社会常識においても、常識や当たり前のこととされていることの前提には、
そうと意識する意識しないに関わらず、実はやはり法律があると思います。
その意味において、そもそも不公正な取引は行ってはならない、という旨の定めが法律に必要なのだと思います。
それは、厳密な定義付けから始める詳細な規定ではなく、漠然とした包括規定という形を取らざるを得ないのだと思います。
社会生活や社会常識において、常識や当たり前のこととされていることは到底全てを文字で書き切れはしないように、
証券市場における不公正な取引というのもまた、到底全てを文字で書き切れはしないわけです。
ですので、金融商品取引法には、不公正な取引全般を禁止する旨の包括規定である「第157条」が必要なのだと思います。
法律に基づいた常識的コンセンサス、これが犯罪抑止につながるわけです。
同じ「捜査機関に逮捕・起訴された、有罪判決を受けた」でも、刑法違反だと日々の社会生活上、
有形無形のペナルティが現実にある(周囲の人々から白い目で見られる、村八分に遭うなど)のではないかと思いますが、
金融商品取引法違反だと犯罪自体が毎日の生活の肌感覚からするとどこかバーチャルな感じがするわけです。
証券取引自体が、日々の社会生活・社会常識の埒外にあるように感じてしまうわけです。
ですので、日々の社会生活・社会常識における常識・当たり前のこととは別に、
証券市場における常識・当たり前のことというのは別途法律で定めないといけないように思うわけです。
日々の社会生活・社会常識における常識・当たり前のことというのは、場合によっては法律で定めなくても分かると言いますか、
法律以前のこととしてそれこそ常識的に自然と人間として分かることというのももたくさんあるわけですが
証券市場における常識・当たり前のことというのは、証券取引は生まれた時から行う日々の日常生活の活動とは異なるものですから、
「何が常識か、何が当たり前のことか」は明文で定めないと分からないのではないかという気がするわけです。
日々の社会生活・社会常識では、自分にはたまたまお金持ちの友達がいて、その友達からおごってもらった場合、、
そのことを社会では犯罪や違法なこととは言わないわけです(人脈や役得といったりして高く評価されることすらあるでしょう)。
しかし、証券市場では、たまたま上場株式を高い価格で買ってくれる友達がいても、高く買い取ってもらうことは違法なのです。
緩やかな構成要件でよいので、「概ねこのような類の行為は禁止ですよ。」という、
日々の社会生活・社会常識における常識・当たり前のことに相当するものを、
明文で定めておかなければならないように思うわけです。
それが包括規定「第157条」なのではないかと思います。
もちろん、2016年5月3日(火)に書きましたように、法理的には包括規定という考え方はおかしいわけです。
「この行為は違法です」と定めなければならないのに、包括規定では、違法となる「その行為」を実は定めてはいないからです。
包括規定の定め方でよいのなら、常識的・概念的には全く違法ではないことまで違法という取り扱いにできるわけです。
法概念としては、包括規定は当局に極めて大きな裁量の余地を認めている、という言い方になるでしょう。
2016年5月3日(火)にはそのことを私は「包括規定(による運用)は規制当局の良心と背中合わせだ」と書いたわけです。
ただ、証券市場における常識・当たり前のことは、
日々の社会生活・社会常識における常識・当たり前のこととは異なる(別途言われないと分からない)部分もありますので、
ここでは残念ながら規制当局の良心を信じることにして、
証券市場に常識的コンセンサスを生じさせるために、現実には包括規定の存在を認めることにするしかないように思います。
法理的には、「規制当局の良心を信じない」ということが法律の存在意義なのだと思いますが。
そういったことを考えますと、現実には、証券市場ではまずは包括規定ありき、にならざるを得ないのだと思います。
日々の社会生活・社会常識においては、法律以外で物事をカバーできる面があるわけですが、
証券市場では、法律以外で物事をカバーすることが難しい面があると思います。
ですので、証券市場では、明文の包括規定は現実には致し方ないのだと思います。
もちろん、包括規定を適用すれば、包括規定だけでインサイダー取引全般を禁止できる(インサイダー取引規制の定め自体が不要)、
ということになりますので、その辺りのさじ加減が難しいといいますか、現実にはそこは最後は規制当局の良心頼みになります。
包括規定は、ないと証券市場における常識・当たり前のことが分かりづらくなる一方、
あるとどんな運用もできてしまう危険性がはらんでいるわけです。
悪く言えば、包括規定は「必要悪」でしょうか。
包括規定についての記述が長くなってしまいましたが、私が言いたいのは、
不公正な取引全般を禁止する旨の包括規定があれば、
「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」と定めても、犯罪抑止の効果はある、ということです。
包括規定があれば、問題を「程度の問題」に帰着させることができるわけです。
要するに、たとえ「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」と定めていても、
あまりに悪質な公開買付の場合は、包括規定で罰を科するようにし、
悪質ではない公開買付の場合は、「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」から適法だ、
という解釈・運用方法ができるわけです。
もちろん、悪質さの程度を判断するのは規制当局です。
良心頼みといえば良心頼みですし、裁量の余地が大きいといえば裁量の余地は大きいわけです。
しかし、現実には、法律というのはそのような運用方法にならざるを得ないのだと思います。
いずれにせよ、包括規定がないと犯罪抑止の効果そのものが生じない、ということを今日私は言いたいと思います。
そして逆に、包括規定があれば、「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」と定めても犯罪抑止効果は生じる、
と私は思います。
以上が、昨日私が、
>「公開買付(者)はインサイダー取引規制の対象外である」と定めることにも合理性は十分にあるように思います。
と書いた理由についての補足になります。