2016年5月3日(火)


公開買付や適時情報開示、そしてインサイダー取引規制についてコメントを追記したいと思います。
2016年5月1日(日) に紹介しています教科書のスキャンも適宜参考にしていただければと思います。


過去のコメント

2016年4月28日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201604/20160428.html

2016年4月30日(土)
http://citizen.nobody.jp/html/201604/20160428.html

2016年5月1日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160501.html

2016年5月2日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201605/20160502.html


昨日のコメントの最後に、

>何が「未公表の重要な事実」なのかは、現実には判然とはしない部分があると思います。
>「インサイダー取引規制の対象となる重要事実」がどのようなものであるかは、
>金融商品取引法および内閣府令に詳細に定められていますが、
>ではそれら以外は「未公表の重要な事実」に該当しないのかと言えば、現実にはそうではないと思います。

と書きました。
まずこの点について書きますと、2016年5月1日(日) では、第157条が包括規定になると思われる、と書きました。
「公開買付者が未公表の情報を基に買付価格を設定し公開買付を実施すること」は、
第166条にも第167条にも違反はしていないと書きました。
「公開買付者が未公表の情報を基に買付価格を設定し公開買付を実施すること」は、
金融商品取引法にいう”有償の譲受け”には公開買付が含まれないならば、
第166条にも第167条違反しないのだが、結局、第157条に違反していることになる、と私は書きました。
また、昨日2016年5月2日(月) は、
「公開買付者が未公表の情報を基に買付価格を設定し公開買付を実施すること」は、
金融商品取引法にいう”有償の譲受け”には公開買付が含まれるならば、
第166条に違反していることになる、と私は書きました。

 


私は、第157条のことを包括規定(不公正な取引全般を広く網羅的に禁止している)と書いたわけですが、
「インサイダー取引のみに限った包括規定」も別途定められているようです。
それが第166条第2項第4号です。
「インサイダー取引規制の対象となる重要事実」がどのようなものであるかは、
金融商品取引法および内閣府令に詳細に定められているものの、
それら詳細な定義によって投資家の投資判断に重要な影響を与える情報が全て網羅されているわけではないわけです。
それで、第166条第2項第4号には、
「上場企業の運営、業務または財産に関する重要な事実であって投資家の投資判断に著しい影響を及ぼすもの」を
重要事実とするという包括条項が規定されています。
金融商品取引法および内閣府令に詳細に定められている定義に比べると、
この包括条項は重要事実の定義が極めて漠然としていると言わざるを得ないと思います。
この包括条項を持ち出せば、デュー・ディリジェンスも株主総会後の懇親会も投資家との交流会も工場見学会も、
悪意を持って解釈すれば全て、投資家はそこで重要事実を知ったもの、という論理立ては可能になってくるわけです。
かと言って、金融商品取引法および内閣府令に詳細に定められている定義だけがここでいう重要事実だと定めますと、
今度は、その定義には該当しない事実であればどんなに重要な事実であろうともここでいう重要事実には該当しない、
ということになってしまうわけです。
インサイダー取引を未然に防止するという観点から言えば、第166条第2項第4号のような包括規定が
行政上の理由からどうしても必要になってくるのかもしれません、
昨日は、”ではそれら以外は「未公表の重要な事実」に該当しないのかと言えば、現実にはそうではないと思います。”
と書いたわけですが、ここでいう重要事実は、事前に文言として書き切れないわけです。
ですので、事前に文言として書き切れない部分に関しては、包括規定で対応していく、
という規制の仕方に現実にはならざるを得ないのだと思います。

 


ただこの包括規定というのは、規制当局の良心と背中合わせであるのを忘れてはならないでしょう。
金融商品取引法は違法な行為に対して刑事罰を科そうとするものであるわけですが、
そのためには、刑事罰の対象である違法な行為の構成要件が明確でなければならない、という考えがあるわけです。
刑事法では、「この罪を犯した、だから、この罰を科する。」、という流れが重要であるわけです。
その時、”この罪を犯した”の部分が不明確ですと、科する罪まで不明確になってしまうわけです。
極端な話をしますと、罪を犯してもいないのに罰が科される(いわゆる冤罪)、という場合も出てくるわけです。
ですので、”この罪を犯した”、すなわち、「このような行為が違法な行為(罪)ですよ。」ということを
事前に明確に定めておくことが、刑事法では求められるわけです。
そういった観点から言えば、包括規定というのは法理論から言えば、決して正しくはないのだと思います。
かと言って、現実には重要事実を事前に網羅して文字で定めることができるわけもありません。
ですので、「法律には書かれていないではないか」と違法者から言われてしまうと最後はザル法になってしまいますので、
現実には包括規定を置かざるを得ない、ということだと思います。
刑事罰の対象である違法な行為の構成要件が明確でなければならない理由は、別の言い方をすれば、
当局による裁量の余地を認めないためであるわけです。
このことは特に刑事法において顕著なのでしょうが、法律が当局による裁量を認めない、という基本概念があるわけです。
包括規定というのは、その基本概念とは正反対に、むしろ当局による裁量を前提にしているのです。
また、包括規定というのは、法律が適用される側(上場企業や投資家等)にとっても、法律の守りようがなくなるわけです。
包括規定というのは、他の言い方をすれば、「何をすれば適法なのかが分からない」ということなのです。
最後は、証券取引を一切しなければ違法にはならないのではないか、という話になってしまうわけです。
それは証券市場の萎縮を招くのではないでしょうか。

 


結局のところ、法による統治というのは、「人の良心に依存しないこと」なのだと思います。
ここでいう「人」には、法律を適用を受ける側だけではなく、取り締まる側も含みます。
法を運用し秩序維持を行うのも人であるわけです。
法を用いるのは人であるわけです。
当局も最後は人であるわけです。
「性悪説」という言葉は、国民や企業だけに当てはめるべきものではなく、当局の人々にも当てはめるべきものなのでしょう。
その点において、国民と当局とは平等なのでしょう。
国民は法律に従わなければなりません。
そして、当局も法律に従わなければならないのです。
法律を作った神様は、きっと始めから分かっていたのでしょう。
全ての人間は当てにならない、と。
ですので、国民の側も当局の側も、法律で縛ることにしたのでしょう。
法律を作った神様は、国民にも良心はないし当局内部の人々に良心はない、ということを前提にしているのだと思います。
悪く言えば、「お前らは法律さえ守っていればいいのだ。」と法律を作った神様は言いたいのかもしれません。
法律なしにまっとうな行動を取れるほど、人間というのは立派じゃない、と。
何が正しい行動か、どのような行動を人として取るべきか、自分で考えるだけの知能は人間にはない、と。
法律というのは、考える知能がないバカを前提にしているのでしょう。
我々人間は、法律をマニュアルみたいなものだと思えばいいのだと思います。
人は何の指針もなしに、自分は正しいと言えるほど、強い存在ではないのです。
誰もがそうでしょうが、社会で生きている以上、社会制度に沿っているということが人としての自信の根拠になるような気がします。
社会制度にありもしないものを根拠に、人は自分に自信を持てるでしょうか。
我が身を振り返っても、社会制度から高く評価されていると感じている時というのは、自分に自信を持っていたように思います。
学生時代も、そして今も。
ところが、社会制度から低く評価されたり否定されたかのように感じた時というのは、やはり自分に自信が持てないものです。
人間というのは、社会で生きているわけです。
人は、社会以外では生きていけないのです。
人が社会に依存することは、人として何ら恥ずかしいことではないのです。
人は、自分の評価は自分でしなければなりませんが、それはあくまで社会制度に照らして、であるべきでしょう。
社会制度とは無関係に自分に自身を持てる人間など、1人もいないのではないでしょうか。
そして、その社会制度を形作っているのが、法律であるわけです。
人は社会で生きている以上、法律を否定しても何もはじまらないわけです。
自分のこれまでの人生を振り返ってみますと、周りから孤立化していたことが非常に多かったように思います。
しかし、そんな時に自分を支えていたのは、「自分は社会制度に沿っている」という自信だったように思います。
何を根拠に「俺は正しい。」と言えたのかと言えば、社会制度に沿って生きているということそのことだったように思います。
社会制度そのものが自分を指させていましたから、自分が持っている自信が揺らぐことは絶対になかったように思います。
私は子供の時から、知らず知らずのうちに、社会制度(法律)を生きる指針にしていたと思います。
そして、社会制度に反した行動を取っている人間をバカだと思って生きてきたように思います。
私が今まで社会のルールを守って生きてきたのは、臆病の結果ではありません。
物事を正しく判断した結果だと思っています。