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2018年1月26日(金)



「ゼミナール 金融商品取引法」 大崎貞和 宍戸善一 著 (日本経済新聞出版社)

第5章 機関投資家と議決権行使
1. 機関投資家の意義と役割
(1) プロによる資産運用
(2) コーポレート・ガバナンスにおける役割
  株式所有構造の変化と機関化現象
  株主アクティビズムの手段
  【コラム】株主提案権制度の日米比較
「スキャン1」

「スキャン2」

「スキャン3」

「スキャン4」


 


証券制度上、大量保有者が会社法に規定のある『株主提案権』を行使するに際しては、
金融商品取引法上も一定の規制を課するべきだ(大量保有報告書への記載義務等)、という点について書いた5日前のコメント↓

2018年1月21日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180121.html

 

証券制度上、買収希望者が会社に対し「買収提案」を行うに際しては、買収希望者に一種の事前警告を義務付けるために、
金融商品取引法上も一定の規制を課するべきだ(大量保有報告書等への「買収意向」に関する記載義務・開示義務)、という点と、
「発行者の清算期日を定めないと投資家による業績予想に意味がなくなってしまう、という点について書いた4日前のコメント↓

2018年1月22日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180122.html

 

「株主から会社側への提案」には、「会社法の規定に基づく株主提案権の行使」と
株主提案権の行使以外の「任意の提案(要望やお願いなど)」の2つがある、という点について書いた3日前のコメント↓

2018年1月23日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180123.html

 

「会社法上の行為に対して規制を課するのが金融商品取引法である。」、という点について書いた一昨日のコメント↓

2018年1月24日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180124.html

 

「金融商品取引法上定義される『重要提案行為』が『株式の本源的価値』に影響を与えることはない。」、そして、
「証券制度の構築・改善に際しては、受託者責任の遂行の担保に最重点を置くべきである。」、
という点について書いた昨日のコメント↓

2018年1月25日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201801/20180125.html


 


【コメント】
昨日のコメントに一言だけ追記をしたいと思います。
昨日のコメントの最後に、機関投資家による株主提案権の行使について書いたわけですが、
証券市場における株主提案権の位置付けについて少しだけ考えてみたいと思います。
題材として、今日も金融商品取引法の教科書をスキャンして紹介しています。
最初は、145~146ページにある【コラム】株主提案権制度の日米比較のみをスキャンして紹介するつもりだったのですが、
前後のページにも興味深い内容がたくさん記述されていますので、前後も含めてスキャンをして紹介しています。
教科書を読み、証券制度における規制や規制の改正が、市場における投資家の行動に大きな影響を与えている、
と改めて思いました。
【コラム】株主提案権制度の日米比較についてですが、日米の法制度を比較して次のように書かれています。

>アメリカの株主提案権はSEC規制により、SECに対する書類の提出を求められているため、法的コストを伴いますが、
>日本の株主提案権には金商法の規制はかかっていません。

2018年1月24日(水)のコメントでは、2018年1月23日(火)のコメントの訂正を加える形で、この点について話の整理を行いました。
日本の金融商品取引法には、発行者に対し「重要提案行為」を行うに際しては、「重要提案行為」を行う旨、
「大量保有報告書」の「保有目的」に事前に記載をしておかなければならない、という規制があります。
しかし、日本の金融商品取引法には、発行者に対し「株主提案権の行使」を行うに際しては、
その旨「大量保有報告書」の「保有目的」に事前に記載をしておかなければならない、という規制はありません。
この点、アメリカでは、SEC規制により「株主提案権を行使する」旨の書類を事前にSECに対して提出しておかなければならない、
という規制がある、と教科書には書かれているわけです。
また、アメリカの証券規制(SEC規制等)に、日本の金融商品取引法にいう「重要提案行為」が定義されているかどうか
については教科書を読む限りは分かりません。
私は昨日、「受託者責任」を鑑みれば、金融商品取引法により「重要提案行為」を規制する必要は全くない、
と書いたわけですが、アメリカではどのような考え方をしているのかについては、別途勉強しなければならないな、
と思っているところです。
この辺り、どのようなことを前提としどのようなことを実務上の問題点として捉えるかで、
様々な法制度が構築され得るところなのだろうと思います。
例えば、私は昨日、次のように書きました。

>「金融商品取引法上定義される『重要提案行為』が『業務執行』に影響を与えることはない。」のです。

この点についても、株主提案権の行使により、「業務」に関連する事柄について提案をすることができ決議を取ることができる、
という会社制度になっている場合は、株主提案権の行使が直接的に業務執行や株式の本源的価値の影響を与えることになります。
会社制度(会社法)と証券制度(金融商品取引法)との整合性を図ることも常に念頭に置いておかなければならないわけです。
それから、【コラム】には、日本の株主総会の決議事項(会社法第295条第2項)はアメリカの決議事項と比較して広範である、
と書かれてあるのを読んで思ったのですが、「株主総会というのは創立総会の補助的な(secondary)位置付けけにあるものだ。」、
という捉え方をすると株主総会の意味・位置付け(ひいては、理論上の決議事項)が理解できるのではないかと思いました。
理論的には、「株主総会の決議事項」と「株主提案権の行使により提案できる事項」は、どちらも、「委任」関連のみ、すなわち、
「会社の創立や設立に関連する事柄に関してのみ」(創立時の決定事項のみ)、という考え方をしなければならないのです。

 


A general meeting of shareholders is, as it were, a secondary organizational meeting of shareholders.
Generally speaking, the organization fatigue of a company demands the at least once-a-year maintenance at the company.
The maintenance at the company is called a general meeting of shareholders.
The purpose of holding a general meeting of shareholders is maintain a company by a continual second look.
Shareholders want to keep their organization under review.

株主総会というのは、言わば補助的な創立総会のことなのです。
一般的に言って、会社は制度疲労を起こすので、会社では少なくとも年に1回は保全を行う必要があるわけです。
会社におけるその保全のことを、株主総会と呼ぶのです。
株主総会を開催する目的は、絶えず見直すことによって、会社をよい状態にしておくことなのです。
株主というのは、所有している制度を絶えず再吟味したいと思うものなのです。

 

It is true that some kind of discontinuation concerning shareholders occurs,
but, in theory, an institutional investor in a normal sense didn't incorporate an issuer.

株主に関して一種の断絶が起こっているのは確かですが、
理論的には、通常の意味の機関投資家が発行者を設立したわけではないのです。

 

In theory, there is no shareholder in the market who incorporated an issuer.

理論的には、発行者を設立した株主というのは市場にいないのです。

 

I understand that parents of my great-grandfather were not a human being.

曽祖父の両親は人間ではなかったと聞いています。

 

And, I once said, "If the Creator created this world, then who on earth had created the Creator?"
You will never reach the answer even if you continue to think the question till you die.

そして、私はかつてこう言いました。
「仮に、創造主がこの世を作ったとして、ではその創造主は一体誰が作ったというんだい?」と。
死ぬまで考え続けても答えは決して出ないでしょう。