2016年6月13日(月)



昨日と一昨日に書きました株式と債権との違いについて、一言だけ追記します。


過去の関連コメント

2016年5月28日(土)
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2016年5月29日(日)
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2016年5月30日(月)
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2016年6月11日(土)
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2016年6月12日(日)
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昨日は、理論上は「債権は現金と同じである。」という点について書きました。
現代税法においては、「債権は現金と同じである。」(貸し倒れは絶対に起きない)という理論的前提を置いているわけです。
しかし、実務上のことを考えますと、やはり債権に貸し倒れが発生することはあるわけです。
そして、その際、債権の回収可能額が問題になるわけです。
そういった点を考えますと、現実世界における税法の規定としては、理論上の定めに修正を加え、
貸し倒れが生じることも想定した定めが必要になってくるわけです。
では、貸し倒れを想定して定めを修正するとして、どのような考え方を行わなければならないかと言いますと、
私が思うに、答えは、「債権を一資産として取り扱う。」ということではないかと思います。
こう書きますと、債権ははじめから資産ではないのか、と思われるかもしれません。
確かに、債権は紛れもなく資産です。
しかし、昨日書きましたように、「債権は現金と同じである。」わけです。
私はこれまで何回か、主に元祖会計理論の観点から、

All that exists in this world is cash and the others. (この世には、現金と現金以外しかありません。)

と書いてきました。
しかし、現代税法の理論においては、この元祖会計理論の考え方に修正が加えられ、

All that exists in this world is "cash and receivables" and "the others."
(この世には、「現金及び債権」と「それら以外」しかありません。)

という考え方になっているのだと思います。
現代税法の理論においては、債権が現金と同じ取り扱いを受けるわけです。
債権が現金と同じ取り扱いを受けるからこそ、確定債権の発生により収益を認識するわけです。
債権が現金と同じ取り扱いを受けるからこそ、実現主義会計が成り立つわけです。
現代税法の理論においては、現金同様、債権が他の資産とは別格扱いとなっているわけです。
一般に、現金には、資産そのものという側面も確かにありますが、資産の価値を測る手段という側面もありますし、
また、等価交換により他の資産を取得するための手段という側面があるわけです。
他の言い方をすると、現金は、富の尺度でもありますし、富を蓄える手段でもあるわけです。
極端な言い方をすると、現金そのものには価値はないわけです。
現金と等価交換により手に入れることができる他の種類の財やサービスに価値があるわけです。
現金は、他の種類の財やサービスと等価交換できるからこそ価値があるわけです。
英語の「goods」(日本語で言う「財」)には、財は財でも特に「現金以外の財」という意味があるようです。
財(goods)やサービス(services)を手に入れることができるので、現金には価値があるわけです。
財(goods)やサービス(services)を手に入れることができないのならば、現金には価値はないわけです。
以上の意味において、極端に言えば、現金には資産という側面はないわけです。
この「現金は資産ではない。」という元祖会計理論の考え方に修正が加えられ、
確定債権の発生を収益の認識事由にするために、現代税法の理論では新たに「債権」が考え出されたわけです。
そして、現代税法の理論においては、「債権は現金と同じである。」という位置付けになりますので、
必然的に「債権は資産ではない。」という考え方になるわけです。

 



ところが、ここから話が少しややこしくなるのですが、現実世界のことを考慮に入れ、
債権には貸し倒れが発生するということを想定しますと、途端に「債権は現金と同じである。」とは見なせなくなるわけです。
「債権は現金と同じである。」と「債権には貸し倒れは発生しない。」は同じことを意味しているわけですが、
債権には貸し倒れが発生するとなりますと、途端に「債権は現金と同じである。」とは見なせなくなるわけです。
このことは、実は理論的には実現主義会計の根本部分が既に崩れてしまっていることを意味しているのですが、
今日のコメントでは議論の都合上そのことは度外視します(つまり、それでも実現主義会計は成り立っているとします)。
そうしますと、結局のところ、「債権は現金と同じではない」のだから「債権は資産である」、という論理展開になるわけです。
すると、理論上は本来は現代税法においては債権は資産ではなかったのに、
現実世界のことを考慮に入れますと、債権は一資産に過ぎない、という位置付けになってしまうわけです。
結局、現代税法においては(修正後の現代税法理論においては)、債権の取り扱いが、

All that exists in this world is cash and the others. (この世には、現金と現金以外しかありません。)

ということになってしまうわけです。
貸し倒れを想定する結果、債権が「現金と同等」から「その他」扱いになってしまうわけです。
昨日のコメントで、

>また、債権と一言で言っても、貸付債権や売上債権など、債権の発生原因毎に複数の種類の債権が定義されていようかと思います。
>しかし、「額面金額の現金を期日に受け取る」という権利内容(額面金額は現金と同じである)に違いはありませんので、
>債権の発生原因については債権そのものの取り扱い(債権個別の譲渡等)の上では度外視できるのだと思います。

と書きました。
「現金を譲渡する」という考え方はないように(それはまさに寄付金を意味するでしょう)、
元来的には現代税法の理論においては、「債権を譲渡する」という考え方はないのではないかと思います。
しかし、元来的な現代税法の理論に修正を加え、「債権は一資産に過ぎない。」と考え方を行うことにしますと、
一般に資産は譲渡できるのですから、「債権を譲渡する」という考え方が出てくるような気がします。
貸し倒れを想定しなくても概念的には債権は譲渡できるのではないか、という考え方もあるとは思います。
確かに、元来的な現代税法の理論においても、債権とはあくまで有価証券であって、通貨そのものではないわけです。
概念的には、有価証券の譲渡は簡単にできそうではあります。
しかし、私には、貸し倒れが想定されていないからこそ、債権と現金との結び付きが極めて強いように感じるわけです。
貸し倒れは全く想定されていない証券だからこそ、債権と現金とは一体のものだ、というふうに感じるわけです。
ところが、貸し倒れを想定した場合の方が、債権と現金との結び付きが弱いように私には感じるわけです。
貸し倒れを想定した途端に、債権の額面金額が現金額を表していないかのように感じるわけです。
貸し倒れは全く想定されないなら、債権の額面金額=現金額でしょう。
しかし、貸し倒れを想定すると、債権の額面金額=現金額とは限らなくなるわけです。
貸し倒れを想定した途端に、債権の額面金額に意味がなくなってしまったわけです。
債権が、現金と同等のものから、一資産に成り下がった、ということの背景には、貸し倒れを想定した結果、
債権と現金との関連度合いが必然的に小さくなったことがあるわけです。
そうしますと、債権の公正な価額は額面金額というわけでは全くありませんので、一般的な資産の譲渡の場合と全く同じように、
その債権の譲渡価額は当事者間で決めるしかない、という考え方に行き着くわけです。

 


結局、結論だけを言いますと、現代税法においては、債権を他の一般的な資産と同じように取り扱っているかと思います。
債権を額面金額よりも低い金額で取得した場合、取得時には益金は認識せず、
決済時に取得原価と決済金額との差額が課税所得になる、という取り扱いになっているのではないかと思います。
この取り扱い方法は、一般に、ある資産を売り手の取得原価よりも低い金額で取得しても、取得時には益金は認識せず、
販売実現時に自分の取得原価と販売金額との差額が課税所得になる、という取り扱いと整合しているのではないかと思います。
つまり、どのような資産であれ、その資産から獲得できる収益額というのは事前には分からないわけであり、
取得時にはその資産に取得原価を付するだけであるわけです。
そして、その資産から獲得できる収益額が確定した時に、その収益額と取得原価との差額を課税所得とする、
という取り扱いになっているわけです。
この取り扱い方法に関し、債権と他の種類の資産との間に取り扱いに差異はないわけです。
このことは、現代税法においては、債権を他の一般的な資産と同じように取り扱っている、ということでしょう。
また、債権の種類によらず統一的な取り扱いがなされており、先ほど引用しました昨日のコメントを再度引用すれば、
現代税法においては、”債権の発生原因については債権そのものの取り扱い(債権個別の譲渡等)の上では度外視”している、
と言っていいわけです。
そして、この取り扱い方法は、資産に国が定めた時価がある場合であっても全く同じように適用できるわけです。
国債を無償で取得した場合、取得時に時価を益金として認識する必要はないわけです。
国債の償還時に(もしくは再譲渡時に)国債からの獲得した現金額と取得原価(この場合は0円)との差額を課税所得とすれば、
それで所得を捕捉し損ねている部分など全くないわけです。
むしろ、担税力の観点から言っても、国債の償還時に(もしくは再譲渡時に)課税をする方が課税理論上望ましいわけです。
国債だけではなく、土地や建物の場合でも全く同じです。
「獲得した収益額−取得原価」一本で課税所得額を計算し収益獲得時に課税するようにすれば、それで必要十分であるわけです。
時価という考え方は、やはりおかしいような気がします。
以上の議論をまとめますと、現代税法においては、貸し倒れが起こり得ることを鑑み、元来的な現代税法理論に修正を加えた結果、
「債権を一資産として取り扱う。」ということにしている、と言っていいと思います。
元来的な現代税法理論においては、債権は現金と同じなのです。
そこに譲渡という概念はないはずなのです。
つまり、元来的な現代税法理論においては、私見になりますが、債権は譲渡できないはずなのです。
例えば、元来的な現代税法理論において債権を額面金額未満で譲渡したとしたら、どうなるでしょうか。
「法人は額面金額と同じ現金を必ず獲得できる」という実現主義会計の理論的前提が崩れてしまうのではないでしょうか。
「法人は額面金額と同じ現金を必ず獲得できる」という理論的前提があるからこそ、
実現主義会計では確定債権の発生をもって収益を認識しているのではないでしょうか。
ですので、元来的な現代税法理論においては債権は譲渡できないはずなのです。
しかし、現代税法においては、貸し倒れが起こり得ることを鑑み、元来的な現代税法理論に修正を加えた結果、
債権は現金と同じものではなく、一資産という取り扱いになったわけです。
貸し倒れが発生することを想定した途端、債権の概念が根本的に変わってしまう(「現金」から「その他」へ)のだと思います。
こうなりますと、その譲渡価額についてはともかく、債権は譲渡できる、ということになるわけです。
債権は現金と同じである、という点から、実現主義会計は構築されているのだと思います。