2017年9月4日(月)



昨日までの一連のコメントに一言だけ追記をします。
今日のコメントも、どちらかと言うと最近の一連のコメント全てに関連のあるコメントになります。
今日は、昨日までの一連のコメントと関連する形で「のれん」と「減損」について書きたいと思います。

 


過去の関連コメント

2017年7月25日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170725.html

2017年7月27日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170727.html

から

2017年9月3日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201709/20170903.html

までの一連のコメント。

 


「のれん」と「減損」についての記事を紹介しているコメント

2017年8月22日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201708/20170822.html

 



今日も、2017年8月22日(火)に紹介している「のれん」と「減損」についての記事について、
いくつかコメントを書きたいと思います。
まず、昨日のコメントの最初に、2017年9月2日(土)付けの日本経済新聞の記事を紹介しました。
財務省は9月中にも保有する日本郵政株式を追加売却(売出し)する方針を固めた、という内容です。
財務省は当初は7月に保有する日本郵政株式の追加売却(売出し)を予定していたのですが、
2017年8月22日(火)に記事を紹介していますように、4月下旬に日本郵政が豪子会社に関する巨額の減損損失計上を発表したの受けて、
追加売却はその後の株価の推移を見極めてからにしようと判断し、追加売却の実施を数ヶ月延期をしていた、という経緯があります。
私は昨日、この2017年9月2日(土)付けの日本経済新聞の記事について、次のように書きました。

>大株主が近い将来に売出しを行うことを勘案して、会社が減損処理の公表を意図的に遅らせることは実務上全く可能である、
>なぜならば、減損処理自体は「意思決定」に過ぎないからである(相手方が必要な「取引」とは異なる類のものだからである)、
>という点について気付かされ考えさせられる

もちろん、日本郵政は財務省が株式の売出しを実施する前に巨額の減損損失について発表を行ったわけなのですから、
財務省と日本郵政の事例に関しては、大株主に便宜を図り会社が減損処理の公表を意図的に遅らせた、ということはありません。
ただ、一般的なことを言えば、現実にそういったことができる余地はある、と言えるのではないかと思いましたので書きました。
また、以前、理論的には「有価証券報告書(そして報告書に記載される財務諸表)は公務員が作成するものだ。」と書きましたが、
財務省と日本郵政の事例に関しては、株主は公務員という位置付けになります。
公務員は身内に弱い(公務員同士かばい合う)、などと言われたりしますが、法理的な考え方を言えば、
公務員は、絶対に間違いを犯さない、「私利私欲の全くない厳正中立な理想的な人物」という前提を置いているのです。
法理上の話をすれば、公務員が公務員に便宜を図る、ということは全く心配しなくてよい、ということになります。
ただ、理論上の話をすれば、公務員は利益を追求する存在であってはならない(社会全体に普遍の公共の利益のみを追求する)、
という基本的な考え方はあると思いますので、公務員は商行為(この場合は株式の所有)を一切行うべきではないとは思います。
公務員が商行為を行うのはそもそもの「公務員の概念」(公務とは何か、公務により保護したいのは何か)としておかしいわけです。
スキャンして紹介はしませんが、本日2017年9月4日(月)の日本経済新聞には、国税庁からの税務調査に問題なく対応するために、
大企業が社内で税務に関する情報共有を図り、税法遵守を徹底し租税回避を当局から疑われることが決してないよう努めている、
という内容の記事が載っていました(近年は多くの大企業が「税務上のコンプライアンス」に力を入れている、という趣旨でした)。
法人税の納付を手続きは会社に常駐している公務員が行うわけではないという制度であれば(「賦課課税制度」ではないのであれば)、
法人税の申告内容に決して間違いが生じないよう、会社の経理部員は常日頃から法人税法に十分注意を払う必要があるわけです。
50年前と比較すると、現在では、各会社(各法人)の事業規模も大きくなり、また、会社(法人)の数も増加していますので、
現実には、法人税の納付は「申告納税制度」に依らざるを得ません。
しかし、「申告納税制度」では、まず第一に「納税者の法の理解」が最も重要と言いますか、納税を左右すると言っていいわけです。
他の言い方をすると、「申告納税制度」では、納税額(税の納付)が実は納税者に依存している、という側面が出てくるわけです。
逆に、「賦課課税制度」では、税の納付は全く納税者に依存していないわけです。
もちろん、「申告納税制度」では、税の納付が納税者に依存してしまうという状態・構造的問題点を最大限回避・解消するために、
税務調査といった手段を別途用意しているわけなのですが、それはあくまで現実的対応策・対症療法に過ぎない話なのです。
私が今言っているのは、どちらかと言うと、納税者が確信犯的に金銭を家の庭に埋めて隠す、といった所得隠しではなく、
税法の理解を間違えたり(これが益金になるとは知らなかった等)、金額の計算を間違えたりする場合についてなのです。

 


近年、多くの大企業が「税務上のコンプライアンス」に力を入れているのは決して間違ってはいませんし、
むしろそれどころか、「申告納税制度」では納税者にそのような態度が常に求められるものだとすら言っていいわけなのですが、
「賦課課税制度」では、納税者にそのような態度は一切求められないわけです。
法のあるべき姿として、遵守が法の対象者(税法で言えば納税者)に依存する、というのは避けるべきなのだと思います。
「賦課課税制度」では、「税務上のコンプライアンス」は全く必要ないわけです。
税法は概念的に刑法に類似性があるように私は思うわけですが、
極端な話になりますが、「申告納税制度」では、法の対象者が法を遵守しないということができてしまう(余地がある)わけです。
「賦課課税制度」では、法の対象者が法を遵守しないということが本質的にできない(遵守しない状態を観念できない)わけです。
刑法に関しても同じようなことが言えると思っていまして、
刑法分野でいう「賦課課税制度」と「申告納税制度」は、それぞれどのような概念・文言になるのだろうかと思います。
「賦課課税制度」の刑法版は、警察官が人が犯した犯罪を全て知っている、ということが前提になりますので、
「賦課課税制度」とは異なり、現実にはそのような刑法制度は実現や運用は不可能だと思います。
「昔は110番をしなくてよかった。」(昔は自動的に警察官が現場に飛んできた)、などということはさすがにないわけです。
警察官が人が犯した犯罪を知るためには、加害者本人か被害者か周りにいる第三者が警察官に知らせなければならないわけです。
それは自首だったり被害届であったり110番通報であったりするわけですが、
いずれにせよ誰かから何らかの形で犯罪の事実について告げてもらわなければ、警察官は犯罪を知ることができないわけです。
そのような状態というのは、「申告納税制度」に似ている部分があると思いました。
刑法を対照材料に挙げたのはかえって議論の焦点がぼやけてしまったかもしれません(刑法の記述は無視しても構いません)が、
私が言いたかったのは、「賦課課税制度」では納税者が税法を間違うということが絶対にできない、ということであるわけです。
このことを踏まえますと、「賦課課税制度」の税法は純粋なる公法(純粋に当局に縛りをかけているとも言える)であり、
「申告納税制度」の税法は私法の側面が出てくる(納税者に依存しているから)、という言い方ができると思います。
税法が私法ですと、納税者が間違うということが起こり得るわけです。
公法というのは、法の対象者(国民、私人)に依存しない(当局のみで全てが決まる)、ということではないでしょうか。

 



それで、税法や公法の議論に話が脱線してしまったのですが、話を元に戻しますと、
先ほど、そもそもの「公務員の概念」に照らせば公務員が商行為を行うのはおかしい、と書きましたが、
元来的・理論的なことを言えば、「公務員が税収額を追求するのもおかしい」という結論になる気がします。
ケネディ・スクールで税収についてどう教えているかは知りませんが、確かに税収は国家運営の財政的根幹ではあるものの、
所得税法や法人税法の目的は税収額の最大化では決してないわけです。
端的に言えば、それらの目的は公平な課税であり、個人そして法人の商行為・所得に応じた課税を行うことのみが目的なのです。
財政政策上、歳入が不足するという事象というのは、所得税法や法人税法の範疇外のことであるわけです。
そして、税収額を増やすことを目的にしてしまうと、金科玉条の「公平な課税」が達成できなくなる恐れが生じるわけです。
そういったことを考えますと、そもそもの「公務員の概念」に照らせば、
税収を国家運営の財政的根幹と位置づけるのは税法の観点から言えば間違いである、という言い方ができるように思います。
そして、税収の不足を株式の売却で賄うという考え方も、結局のところは間違いであると思います。
株式投資という形を通じ、公務員が出資先企業に資金を供給していることになるからです。
公務員が公金を使用してよいのは、社会全体に普遍的な事柄(全国民が対象となっている事柄)についてのみであって、
特定の個人・企業に公金を用いるのは(たとえ売却益が生じ国家的負担はないとしても)概念的に間違っていると思います。
国家運営に必要な財源について、「賄う」とか「補う」という考え方をするのは、元来的には間違いなのだと思います。
国家運営に必要な財源については、「ある。」という考え方に立たないと、
他の公務(例えば「公平な課税」)が達成できない、ということになってしまうと思います。
国家運営に必要な財源を、税収や国有資産の売却に求めるのは、元来的には間違いなのだと思います。
では、国家運営に必要な財源はどうするのか・どこにあるのか、と言いますと、
それについては私のこれまでの学習範囲や理解を超えるものでありますので、言及は致しませんが。
いずれにせよ、税法や他の各種法律に関して、
国家運営に必要な財源を「賄う」(税収等)とか「補う」(国有資産の売却等)ということを目的にしてしまいますと、
他の公務(例えば「公平な課税」や現場レベルで公金を全国民に対し公平に使用すること等)が達成できなくなる、
という考え方(「公務目的の相反」が生じる、とでも言いましょうか)をしなければならないと思います。
最後に、2017年9月1日(金)と2017年9月2日(土)に書きましたコメントに補足をしたいのですが、
「連結調整勘定はそもそも償却しないものである。」という考え方に立ちますと、全く同じ考え方・論理展開により、
「持分法上の投資差額はそもそも償却しないものである。」という結論になると思います。
連結調整勘定を全額償却すると、親会社の言わば連結上の出資勘定と子会社の資本勘定が一致し、
持分法上の投資差額を全額償却すると、持分法上の親会社の関連会社株式勘定と関連会社の資本勘定が一致するわけです。
しかし、それに何の意味があると言うのでしょうか。
一般論として、株主の出資勘定と会社の資本勘定は一致しないものです。
「連結上は株主の出資勘定と会社の資本勘定を一致させる必要がある。」と考えることに何か理由や根拠は
あるだろうか(連結財務諸表上、投資差額があること自体がおかしい、という考え方はあるだろうか)、と思います。
親会社は120円出資したが子会社は100円しか出資を受けていない、という状態がおかしいという見方はあるだろうか、と思います。
連結財務諸表上は親会社は子会社に100円出資していることにしなければならない、という考え方はあるだろうか、と思います。
ただ、私としましては、その差額は連結調整勘定で表示すれば十分であり(親会社の出資金額自体は変えようがないから)、
したがって、「持分法上の投資差額も償却する必要はない。」(投資差額はあるままでよい)という結論になると思います。
現行の規定では、持分法上の投資差額は償却することになっていますが、個人的にはその考え方は間違いだと思います。