2017年8月28日(月)



昨日までの一連のコメントに一言だけ追記をします。
今日のコメントも、どちらかと言うと最近の一連のコメント全てに関連のあるコメントになりますが、
昨日のコメントの続きとして読んでいただければと思います。
今日は、昨日までの一連のコメントと関連する形で「のれん」と「減損」について書きたいと思います。

 


過去の関連コメント

2017年7月25日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170725.html

2017年7月27日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170727.html

から

2017年8月27日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201708/20170827.html

までの一連のコメント。

 

諸外国における不動産登記(不動産取引)について、そして、土地と建物との関係についてのコメント

2017年6月15日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201706/20170615.html


 


昨日のコメントで書きました要点をいくつか書きますと、次のようになります。

○「神から見ると、人の命は有限なので所有権も有限だ。」
○「人は最後は失うために所有権を取得する。」、
○「人が土地の所有権を失うとするならば、その命が尽きる時くらいだ。」、
○「家族制度との関連性を鑑みれば(戦前の家の制度を鑑みれば)、
  人は土地を1区分しか所有できなかった(土地を2区分買おうとしても認められなかった)。」

昨日は主に家族制度の観点から土地の所有権について考えたのですが、改めて土地の上に建てる建物についての結論を書きますと、
「建物に関して言えば、土地の購入者は購入した土地の上に自分の利用目的・用途に最も合致した家を建てるものだ。」
という結論になります。
この結論から、「建物の用途は様々(どのような建物を望んでいるかは人それぞれ)だからこそ、
建物の価値・価格は国には決められない。」、という結論が導き出せるわけです。
また、2017年8月24日(木)のコメントでは、「土地と比較した場合の建物の特徴」として、次のように書きました。

>土地にはその上に建物を建てるという用途しかありませんが、建物には人それぞれの用途がある

何回も書いていることですが、「建物の用途は様々(どのような建物を望んでいるかは人それぞれ)、
「建物の価値は人それぞれ。」という点がここでは重要であるわけです。
しかし、このように「建物の価値は人それぞれなのである。」と書きますと、
土地の上に何を建てるのかも人それぞれなのではないか(つまり、土地の価値も人それぞれではないか)、
と思われるかもしれません。
つまり、「土地の価値・価額についても国が決めることはできないのではないか。」という疑問が当然生じるかと思います。
要するに、土地にはその上に建物を建てるという用途しかないのは確かだとしても、
同一の土地でもその用途そのもの(何に使うか)次第で土地の価値が変動する、ということは実際にあるわけです。
ある土地を、商業活動を行う目的で利用するとすれば、極めて高い価値があると言える(近隣に商業施設が集積している等)一方、
住宅地として利用するとすれば、極めて低い価値しかないと言える(家の近隣が繁華街となっており全く落ち着いて暮らせない等)、
ということは実際にあるわけです。
ここで商売をしろと言われれば確かに十分に繁盛するだろうが、ここに住めと言われれば住むならもっと閑静な場所がいい、
ということは実際にあるわけです。
建物とは異なり、土地そのものには(物理的には・物体としては)カスタマイズ・最適化できる部分というのは全くないわけですが、
土地には「立地条件」と呼ばれる固有の条件・固有の価値があると言えるわけです。
土地そのものはどの土地でもただの「地面」です。
しかし、土地には、その土地がある「場所」に大きな価値や価値を変動し得る種々の関連要素があるわけです。
土地がある「場所」(立地条件)だけでも土地の価値が決まる部分がありますし、
さらには、同一の土地でも「その土地の上に何を建てるのか」次第で土地の価値が変動するとも言えます。
一言で言えば、同一の土地でも、土地の価値は利用希望者全員にとって全く同一ではないのです。
結局のところ、「土地そのものについてでさえ、国がその価値・価額を決めることはできない。」という結論になるわけです。

 



土地の価値・価額について、理論上の結論を再度書きますと、結局のところは、建物の価値・価額だけではなく、
「土地そのものについてでさえ、国がその価値・価額を決めることはできない。」という結論に理論上はなるわけです。
理詰めで考えると、理論上の結論はやはりこの結論になると思います。
しかし、土地というのは、経済活動を行うにせよ毎日の生活を送るにせよ、極めて重要なインフラストラクチャーであるわけです。
土地の価格が安定しないと、商取引も安心して行えませんし人々の日々の生活も脅かされてしまうわけです。
そこで、土地を商取引の対象物として取り扱うことを国が禁止し、土地の価格は国が決め、その取引相手も国のみとしたわけです。
これが元来的な土地の位置付けであったわけです。
そうしますと、理論上の結論と現実の取り扱いとが大きく乖離している、ということになるわけですが、
私としましては、元来的な実務上の土地の取り扱い(元来的な土地の位置付け)について、
先ほど書きました理論上の結論と理論的に調和させた説明が何かできないだろうかと思っているところであるわけです。
2017年6月15日(木) のコメントで紹介しましたが、次のような(有名かどうかは知りませんが)不動産理論・経済理論があります。
”建物というのは、その土地の用途に一番適合した建物を建てた時に土地と建物の経済的価値は最大化される。”
この不動産理論・経済理論そのものは、理論・学問としては(教科書などでは)、
全くの自由取引(土地の取引相手や取引価格に制限は一切ない)を前提にして考えられたものであろうと思います。
しかし、この不動産理論・経済理論は、物事を推察する上で、なかなかに応用が利く考え方であるなと思います。
元来的な土地の位置付けでは(「自動登記制度」の時代では)、国が取引相手であり国が土地の価格を決めていたわけです。
そして、あまり理論的ではありませんが、土地の価格というのは下がらないものだ、という暗黙の前提もあったと思います。
これら様々な前提を鑑みますと、元来的な土地の位置付けにおいては(「自動登記制度」の時代においては)、
土地と建物の経済的価値の最大化を検討する上では(土地活用戦略を考える上では、キャッシュフローの最大化を考える上では)、
実は「土地の価格(土地取得のための現金支出)はサンクコスト(埋没費用)に過ぎない。」と考えてよい、と思いました。
なぜならば、元来的な土地の位置付けにおいては(「自動登記制度」の時代においては)、
土地の取得費用は国に返還すれば必ず返ってくるからです(プールや銭湯等にあるコインロッカーの利用料金(0円)と同じです)。
他の言い方をすれば、土地と建物の経済的価値の最大化を検討する上では(キャッシュフローの最大化を考える上では)、
「土地の価格は実は全く関係ない。」という結論に理論上はなるわけです。
さらに他の言い方をすれば、「土地の価格は稼得するキャッシュフローの総額に影響を与えない。」という結論になるわけです。
「稼得するキャッシュフローの総額は建物(の中で行う商取引)で決まる。」のです。
銀座の派出所前の土地1坪の価格は、1億円でもいいですしそれこそ1円でもいいのです。
なぜなら、土地で儲けることはできないからです。
そして、土地で儲けることはできないからこそ、社会で土地の安定した取引が行える、という見方もできると思います。
現実には、国が策定する都市計画や潜在的需給関係等を勘案して、国が土地の価格を決めている、ということだと思います。
現実には国は、高い土地は「今現在」多くのお金を持っていなければ買えない、という現実的障壁を設けているだけなのです。

 



後は、現実には、「誰が先にその土地を買うか。」、という購入順位(先着順)のみの話になると思います。
当然のことながら、早い者勝ちと言いますか、先に買った方に優先権があると言いますか、
先に買った方の土地の所有権が後で脅かされるということはないわけです。
後になってその土地を欲しいと思った人が、「その土地を俺に売ってくれ。」と言っても、
土地の既存の所有者(先に買った人)が土地を売る気にならなければどうしようもないわけです。
そこはやはり、土地の所有権(専属的・排他的利用権)なのです。
そして、理論的には、先に土地を買った人は既にその土地と建物の経済的価値を最大化させる建物を建ててしまっていますから、
後になってその土地を買うことを考えた人がその土地を購入することで利益を得ることはできないわけです。
すなわち、理論的には、「その土地を私が買いたいと思っていますので、その土地を国に返還してくれませんか。
その土地を国に返還してくれれば、これだけの謝礼(現金)を差し上げます。これで返還した方があなたは得をするはずです。」
と土地購入希望者が土地所有者にお願いをしても(機会利益との差額の分の寄附を申し出るとしても)、
その取引の結果、土地購入希望者は必ず損をします。
なぜなら、理論的には、土地の既存の所有者よりも多くの経済的利益を稼得することができる人は誰もいないからです。
理論的には、土地購入後、土地購入希望者がどのような建物をその上に建てようが、
今現在建っている(すなわち、土地の既存の所有者が建てた)建物よりも多くの経済的利益を稼得することはできないのです。
マーケティング理論には、「先行者利益」や「先発優位」という用語がありますが、
この議論でも同じようなことが言えると思います。
理論的には、土地の取得は早い者勝ち(誰が先に買うかという順位だけの話)、ということになるわけです。
理論的には、一番最初に土地を取得した人が、その土地と建物の経済的価値を最大化させるのです。
理論的には以上のようなことが言えると思うのですが、
ただ、私のこの理論に少しだけ現実的な視点を加えますと、土地の取得には、
「土地と建物の経済的価値を最大化させることができるのなら」、
という現実的条件が付くと考えることができるのではないかと思います。
私のこの現実を加味した理論に基づくと、
「その土地を購入して土地・建物の経済的価値を最大化させることができる人は既にその土地を購入しているはずだ。」
という考え方を導くことができるのではないかと思います。
やや逆から言えば、売りに出されている土地(国が所有者である土地)というのは、
まだ誰も経済的価値を最大化させきれない土地である、という言い方ができるように思うわけです。
現実的なことを考慮し出すときりがないわけですが、理論的には、現実的な何かが原因(障壁)となって、
まだ誰もその土地を購入していない(土地と建物の経済的価値をまだ誰も最大化させきれない)、
という状況が生じているだけだ、という考え方ができると思います。
現実的な原因(障壁)が取り除かれた時、(一番早く障壁を除去できた)人は即座にその土地を取得することでしょう。
そして、その人は、取得した土地の上に、土地と建物の経済的価値を最大化させる建物を建てることでしょう。
理論的には、その人(一番早く土地を取得した人)よりも多くの経済的利益をその土地から稼得することができる人は
もはやこの世にいないのです。
"The first takes all." (一番早く土地を取得した人がその土地からの全ての利益を得る。)、と言えると思います。
元来の土地の所有権と現代の不動産理論・経済理論を組み合わせて、エッセンスを応用して土地について考察を行ってみました。
「理論的には、土地の価格は実はサンクコストである。」、という考え方が今日の議論の要になっていると思います。