2017年12月19日(火)
2017年12月5日(火)日本経済新聞 私見卓見
大阪産業創造館経営相談室 スタッフコンサルタント 田口光春
中小企業は「情報の非対称性」に備えを
(記事)
2017年5月26日、民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)が成立(いわゆる債権法の改正)し、同年6月2日に公布、
その後、2017年12月15日(金)に改正民法の施行日が「2020年4月1日」に決まった、という点に関するコメント↓
2017年12月15日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201712/20171215.html
「理論的には、法令に『公布』という考え方はないはずだ。」、という点について書いた一昨日のコメント↓
2017年12月17日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201712/20171217.html
「理論的には、法というものは施行された時点で一般に周知徹底されているものだ」、という点について書いた昨日のコメント↓
2017年12月18日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201712/20171218.html
【コメント】
今日は、記事を1つ紹介して、
2017年12月15日(金)と一昨日2017年12月17日(日)と昨日2017年12月18日(月)のコメントの補足を少しだけしたいと思います。
理論的には、法に「公布」という考え方はない(ならなら、人は法の公布をされなくても現在施行されている法を知っているから)
わけなのですが、現在では、現実的な観点や実務上の観点から、施行に先立ち前もって法の「公布」が行われているわけです。
この「公布」(将来の施行日の決定も含む)が行われている場面を想定しますと、
2017年12月15日(金)に書きました【設例】に即して言いますと、
「公布」により、賃貸借を開始する日には改正民法が施行されていることを太郎さんも大家さんも知っているわけなのだから、
契約締結時には、太郎さんと大家さんは改正後の民法に従って賃貸借を行うという約束をする、という法解釈もあるわけです。
「公布」があった場合は、改正民法の施行日以降に賃貸借を開始する時には、たとえ契約の締結日は施行日より前であろうとも、
太郎さんと大家さんは改正後の民法に従って賃貸借を行わなければならない、という法解釈もあるわけです。
この場合、「公布」には、「2020年4月1日以降に開始される賃貸借には改正民法が適用されることになります。」、
というふうに、取引を行う人々に社会的に事前予告をする、という役割・意味合いがあるわけです。
その意味では、2017年12月15日(金)に書きました【設例】の答えは、
「改正後の民法が適用される。」、という解釈も現実にはあるとは思います。
法の「公布」を行う場合は、現実には「改正後の民法が適用される。」が正しいという考え方もあるとは思います。
ただ、私個人の解釈としましては、
「現在施行されている民法に従い賃貸借に関する債権債務関係が当事者間で合意されたのだから、
履行(開始)日は施行日以降ではあるものの、太郎さんと大家さんとの間の賃貸借には改正前の民法が適用される。」
というふうに考えるべきだと思っています。
それで、法の「公布」ということに関連して、
昨日は情報開示のあり方(いわゆる「フェア・ディスクロージャー」)についてコメントを書いたわけです。
理論的には、法の「公布」の伝達媒体は「官報」のみであるわけです。
逆から言えば、理論的には、「官報」以外による法の伝達、例えば法の成立や公布に先立つ改正内容の報道というのは、
その情報の正確性というのは何ら保証されてはいないわけです。
このことは、証券制度における開示情報の正確性に関する問題と同じものがあると思います。
簡単に言えば、「その情報が正しいということは誰が保証しているのか?」という問題点が、
「情報の伝達」には常に内在しているわけです。
「官報」の記載内容が正しいことについては、常に政府が保証していると言いますか、
理論的には、公務員が記載する内容(公務員が伝達する情報)は必ず正しい(公文書だから)、という理論的前提があります。
「官報」の記載内容が正しいか否かについては、全く議論になりません(「官報」の記載内容は絶対的に正しいのです)。
しかし、「官報」以外の情報伝達媒体の場合は、伝達された情報が正しいか否かについては、基本的には保証はないわけです。
乱暴に言えば、私文書の記載内容・伝達情報が正しいか否かについては、情報利用者の自己責任の部分もあるわけです。
>中小企業の決算書は3通存在し1つ目が正本、2つ目は税務署向け、3つ目は銀行用だとまことしやかに語られてきた。
この例はやや極端な例だとは思いますが、「伝達された情報は正しいか否か?」という保証は
誰にとっても生きていく上で非常に重要な点であるわけです。
極端な話ですが、「官報」以外の媒体が法について情報伝達をするのは理論的には間違いだ、と言えるわけです。
理論的には、法を遵守する側は、「官報」(のみ)を読んで法の内容(条文など)を知らなければならないわけです。
私は以前、会社法の条文解釈などについて、
「逐条解説書を大学教授や弁護士などの法律の専門家が書くのはおかしい。
逐条解説書などは条文を策定した法務省(の公務員)が執筆するべきだ。」、
といったようなことを書きましたが、その理由は、条文を策定した本人が条文の意味・趣旨を一番良く分かっているはずだからだ、
ということの他に、逐条解説書は条文そのもの同様に公文書でなければならないはずだからだ、というのがあります。
様々な事例を取り上げ、その事例に関してどのように法を適用していくかや、
その事例に即した法の解釈について議論をしていくのも、1つの法学であるとは思いますが、
条文そのものの意味や基本的な条文解釈に関しては、条文を策定した本人が逐条解説を行うことが理論的には求められるわけです。
その上で、法に関する様々な議論が成り立っていくのではないかと思うわけです。
そして、条文そのものの意味や基本的な条文解釈に関しては、社会的に絶対に間違いがあってはなりませんので、
それらについて記述された文書というのは、公文書でなければならない、という結論に理論的にはなると思うわけです。
一言で言えば、条文そのものの解釈(条文の基本的意味)が論者によって分かれるというのは理論的におかしいわけです。
ある条文Xについて、甲さんは「条文Xはこういう意味であろう。」と論じ、
乙さんは「いや、そうではなくて、その条文Xはこういう意味だと私は思いますが。」と論じる、
というのは、法のあり方として根本的におかしいわけです。
条文(文言)が当然に一意に定められているように、条文の基本的意味(解釈)も一意に決まっていないといけないわけです。
「この条文の基本的意味(解釈)はこれです。」、と定めることができるのは、条文を策定した本人だけだと私は思うわけです。
そうでなければ、「いや、私はそういう意味でその条文を定めたのではないのですが。」、
という意見や異議が条文を策定した本人から出てくる恐れがあるわけです。
法学として、法に関して様々な議論が出てくるのはもちろんよいことなのですが、
「逐条解説」までは条文を策定した本人が作成するべきだ、と私は思うわけです。
そうでなけば、条文を策定した本人が想定したような条文(法)の運用ができないからです。
条文を策定した人は、ある法目的があって、条文を定めるわけです。
それなのに、想定したこととは異なる条文解釈が論者毎になされてしまいますと、その法目的が達成できなくなるわけです。
文言だけを定め、基本的意味を明確にしないまま法(条文)として施行・運用しても、法律・法制度としては意味がないわけです。
したがって、逐条解説書は、間違った条文解釈が記述されるということが絶対にない公文書でなければならない
(そうでなければ、人は法を遵守できない)、と私は思うわけです。
「この条文はこういう意味であると解釈できる。」という議論は、不毛であるばかりか、法の存在意義にすら反するわけです。
昨日のコメントの中で、私は、法はまさに「大衆の手に入るもの」でなければならない、と書きましたが、
法の遵守のためには、法の条文(文言)だけではなく、法の解釈も「大衆の手に入るもの」でなければならないわけです。
国は、条文(文言)だけではなく、条文の意味・解釈も公文書(「官報」に準ずるもの)により国民に伝達しなければならないのです。
ですので、理論的には、条文同様、公文書により「この条文はこういう意味です。」と逐条解説がなされなければならないのです。