2017年8月23日(水)
過去の関連コメント
2017年7月25日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170725.html
2017年7月27日(木)
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から
2017年8月22日(火)
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までの一連のコメント。
昨日は、所得税における「賦課課税制度」を参考にして、不動産登記における「自動登記制度」について書きました。
正確には調べていませんが、概ね1970年代以前のことになるのだと思いますが、
まさに「賦課課税制度」の不動産登記バージョンが実際に行われていた、という話を聞いたことを思い出した、と昨日書きました。
そして、登記官は不動産の取引について誰から知らされることもない、という現実的障壁について、昨日は次のように書きました。
>理論上ではなく実務上「賦課課税制度」と同じ仕組みの不動産登記が行われていた、
>という話を聞いたことを思い出して、「人間がやる以上、一定の仕組みが必要なはずだ。」と思いました。
>すなわち、「不動産の取引が行われたことを役場の人が必ず知っている。」ということを担保するための仕組みが
>「賦課課税制度」の不動産登記バージョン(以下、「自動登記制度」と呼ぶことにしましょう)を実践するためには必要だ、
>と思いました。
>では、どうすれば「不動産の取引が行われたことを役場の人が必ず知っている。」という状態になるでしょうか。
>答えは1つかないように思いました。
>すなわち、「不動産の取引は役場でのみ行う。」が結論(必要となる仕組み)だと思いました。
つまり、不動産登記における「自動登記制度」を実現するためには、常に国が不動産取引の相手方になることが必要となるわけです。
神ならぬ人間が「自動登記制度」を実現させるためには、現実には上記のような仕組み・前提が必要となるわけですが、
では、神ならぬ人間が「賦課課税制度」を実現させるとしたら、現実にどのような仕組み・前提が必要であろうか、と思いました。
この点について改めて考えてみますと、やはり答えは1つかないように思いました。
すなわち、「商取引は役場でのみ行う。」が結論(必要となる仕組み)だと思いました。
理論上(現実を踏まえた理論上)はそうなるように思いました。
「神の眼」を想定すれば、人は商取引をどこで行ってもよい(人はどこで所得を稼得してもよい)、という結論になるわけですが、
神ならぬ人間が「賦課課税制度」を実現させるとしたら、公務員が商取引や所得を補足できる仕組みが現実には必要となるわけです。
そのためには、「商取引は役場でのみ行う。」が結論になる気がしました。
不動産登記における「自動登記制度」とは異なり、神ならぬ人間が「賦課課税制度」を実現させるのは
極めて困難なのかもしれませんが、論理的に考えてみると、
公務員が自動的に人の所得を補足できるようにするためには、人に役場で所得を稼得してもらうしかないように思いました。
もしくは、以前私は、「理論的には、商取引は商業登記がなされた場所(登記された会社の所在地)でしか行えないのではないか?」
という趣旨のことを書きましたが、今日は仮に私のこの指摘を所与のこととしますと、
「会社に公務員が常駐する。」(人が所得を稼得する場所に公務員が常駐する。)という状況を想定してみますと、
より現実的な手段で、神ならぬ人間が「賦課課税制度」を実現させることができるように思いました。
最近の議論で、私は、「理論的には有価証券報告書は公務員が作成するものだ。」と書きましたが、
所得税もしくは法人税の納付に関して神ならぬ人間が「賦課課税制度」を実現させることを考えるならば、
商取引の場に公務員にいてもらうしかない(それなら人の所得を自動的に捕捉できるはず)、という結論になるわけです。
商業登記の数だけ税務を専門とする公務員が必要だ、ということにはなりますが(実際に数百万の人員が必要となるでしょう)、
即時に・確実に人の所得を捕捉するためには、より現実的にはそのような手段になると思います。
会社制度上、全会社に"Chief
Tax
Officer"(最高税務責任者)の設置を義務付け、そのポストには公務員が就く、
というような賦課課税と会社の所得との現実的調和を図った制度設計が考えられはしないだろうかと思いました。
会社の法人税の(申告書ではなく)納付書は各会社の「社内公務員」が作成する、であれば「賦課課税制度」になると思いました。
>仮に、国に対する土地の譲渡益には所得税はかからないとすると、さらに甲の立場から言っても、経済的効果は同じになります。
このコメントを書いた後に、1980年か1981年のころ近所に住む年配の人からあるいことを聞いたことを思い出しました。
それは、まさに「土地の譲渡益には所得税はかからない。」という税務上取り扱いについてです。
この税務上の取り扱いについては、以前はそうだった、という言い方ではなく、
今そのような定めとなっている、という言い方だったように記憶しています。
1980年か1981年のころのことでしたが、「土地の譲渡益には所得税はかからない。」という取り扱いに当時はなっていたようです。
その時のその人の説明では、国は土地を現金と同じものだと考えているからである、というふうに理由を説明していました。
土地の価格は国が決めており、率直に言って、土地の価格が下がることはない、と考えてよいわけですが、
そうしますと、取得後土地を譲渡するとなりますと必ず譲渡益が発生することになるわけです。
少なくとも1980年か1981年のころの定めでは、「土地の譲渡益には所得税はかからない。」という取り扱いになっていたようです。
私が当時聞いた説明に加え、このような取り扱いとなっている背景について私なりに考えてみたのですが、
考えられる理由としては、「土地の価格の上昇は全般的な物価の上昇を反映したものだからである。」
という説明付けが可能なのではないかと思いました。
理論的には、一般的な物品の価格は私人間の取引で決まる(一般的な物品の価格を国が決めることはしない)一方、
土地の価格は国が決めるもの(土地の価格は私人間の取引で決まるものではない)です。
すなわち、一般的な物品の価格は国家の統制外のことである一方、土地の価格は国家が統制しているわけですが、
では国家は何を基準に土地の価格を上昇させているのかと言えば、一般的な物品の物価水準を参考にしているのだと思います。
理論的には、国家が土地の価格を上昇させたので、結果、一般的な物品の物価水準も上昇することになった、
と考えるのではなく、話の流れ(論理のつながり)は実は正反対であり、
一般的な物品の物価水準が私人間の取引の結果上昇するに至ったので、その物価上昇(マクロ的なインフレーション)を受けて、
国家は土地の価格を上昇させた、という順序なのではないかと思います。
これはどことなく「卵が先か鶏が先か?」という議論に似ているわけですが、
土地の価格が上がったから商品の販売価格を上げた、というのは論理的ではないと私は思います。
商品の販売価格は、買主と売主との間の合意で決まるだけだからです(買主の意向とは無関係に価格を上げることはできない)。
売主は常により多くの所得を稼得しようとするわけですが、例えば需要が旺盛な状況下(人口増加局面、経済発展局面等)では、
商品の販売価格は上昇しやすい(買主が販売価格の切り上げに比較的容易に同意する傾向にある)と言えるわけです。
それで、需要が旺盛な状況下(人口増加局面、経済発展局面等)では、一般的な物品の価格は上昇し続けた、と言えるわけです。
その「一般的な物品の価格の上昇」を受けて、国が土地の価格を適宜上げてきた、という論理の流れがあると私は思うわけです。
国が土地の価格を上昇させたからと言って一般的な物価が上昇するというわけではないのです(そのような因果関係はない)。
一般的な物価が上昇したから、それに合わせ、国が土地の価格を上げたのです。
一言で言えば、「土地の価格の上昇は、物価水準の上昇を反映させたもの。」と言っていいわけです。
そして、「土地の価格の上昇は、物価水準の上昇を反映させたもの。」だからこそ、土地の譲渡益には所得税がかからない、
という取り扱いになっていたのだと思います。
しかし、この取り扱いは多分に政策的だと思います。
他の言い方をすると、この取り扱い全く論理的ではないと思います。
所得の金額を見る上では、「貨幣の価値」というものは考慮するべきではないのです。
所得の金額は「貨幣の価値」とは無関係に決まるものなのです。
むしろ、「貨幣」というのはものさし(尺度、定規、基準)そのものなのです。
所得の大きさというのは「金額」で表現するものであり、
所得の大きさを測るものさし(尺度、定規、基準)がまさに「貨幣」なのです。
つまり、所得の大きさを測る上で、「貨幣の価値」などという概念はない、と考えなければならないわけです。
そうでなければ、「所得の大きさ」を客観的に測れなくなるからです。
ものさし(尺度、定規、基準)の目盛りを変動させてしまうと、物の長さを正確に測れなくなりますが、それと全く同じです。
「貨幣の価値」を度外視した上で(そのような概念はそもそもないものと考えて)、
所得の大きさを測るようにしなければなりません。
他の言い方をすると、所得の大きさは、「貨幣の価値」は一定であるという絶対的前提を置いた上で、測らなければなりません。
この文脈においては、「貨幣」そのものには価値はないのです。
この文脈においては、「貨幣」には所得の大きさを「金額」で表現するための手段の役割しかないのです。
ですので、所得の大きさを測る際に、「貨幣の価値の膨張」(インフレーション、物価上昇)を考慮するのは間違いなのです。
ある人が昨年100円で買った土地が今年120円になったので売ったところ、20円の譲渡益が発生したのだが、
その価格の上昇20円分は物価上昇を反映させた結果なのだから、
所得を稼得したものとはみなさない(なぜなら昨年の現金100円は今年の現金120円と同じ価値だから)、
という考え方は間違いなのです。
マクロ経済学における「貨幣の価値」を考慮すると、昨年の現金100円と今年の現金120円は同じ価値になります。
しかし、所得の大きさを測る上では、そのような「貨幣の価値」を考慮するのは間違いなのです。
昨年の現金100円と同じ価値を持つ今年の現金は、現金120円ではなく、やはり現金100円なのです。
マクロ経済学における「貨幣の価値」を考慮すると、昨年100円の土地と今年120円の土地は同じ価値を持つわけですが、
特に会計や税法の分野では、「貨幣の価値」は一定(「現金の価値」は一定、現金は尺度に過ぎない)、と考えるわけです。
1980年か1981年のころは、「土地の譲渡益には所得税はかからない。」という取り扱いになっていたようですが、
税法理論としては、そのような考え方は間違いであると言わざるを得ません。
そもそも「土地の価格の上昇は、物価水準の上昇を反映させたもの。」であるわけです。
土地についてそのような取り扱い(「貨幣の価値」を考慮した取り扱い)を認めるならば、全物品に関して、
「一般的な物品の価格の上昇を鑑みれば(昨年と今年の物価水準の違いを考慮すると)、この譲渡益は譲渡益とは見なせない。」
という考え方につながっていくでしょう。
すなわち、全物品から譲渡益(に相当する差額)が消えることになるわけです。
したがって、土地だけは譲渡益を認識しない、という考え方は根本的に間違っているのです。
関連する重要な議論を書いているところであり、「のれん」と「減損」については今日も書けませんでしたが、
一昨日と今日の論点も含めた上で、今日の続きは明日書きたいと思います。