2017年8月19日(土)



昨日までの一連のコメントに一言だけ追記をします。
今日のコメントも、どちらかと言うと最近の一連のコメント全てに関連のあるコメントになりますが、
昨日のコメントの続きとして読んでいただければと思います。
今日も記事を紹介して、一言だけコメントを書きたいと思います。

 

2017年8月16日(水)日本経済新聞
東京衡機に対し「限定付き適正」 監査意見
(記事)



株式会社東京衡機
ttp://www.tksnet.co.jp/

 


過去の関連コメント

2017年7月25日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170725.html

2017年7月27日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170727.html

から

2017年8月18日(金)
http://citizen.nobody.jp/html/201708/20170818.html

までの一連のコメント。

 


記事によりますと、株式会社東京衡機の連結財務諸表の監査意見が「限定付き適正意見」になった、とのことです。
「限定付き適正意見」になった理由として、記事には、

>中国の子会社で発生した不適切な経費使用を受け、仕掛品残高の算出ができなくなり、推計で財務諸表を作成したため。

と書かれています。
株式会社東京衡機のウェブサイトを見ると、関連するプレスリリースが非常にたくさん発表されています。
関連するプレスリリースの中には、過去発表した決算の修正や財務報告に係る内部統制の重要な不備に関するものもあります。
会社の取締役が作成した財務諸表に間違いがあることが後になって判明すると、途端に話がおかしくなると言いますか、
「では間違った開示情報に基づいて投資判断を行った投資家はどうすればいいのか?
財務諸表自体は修正できても、過去の投資判断や過去の取引は修正のしようがないではないか。」、という話になるわけです。
たとえ商法上の営業報告書(現行の会社法上の事業報告)に間違いがあったとしても、
その影響を受けるのは会社の既存株主だけであるわけですが(その問題は、純粋に委任者と受託者との間だけの問題に限定される)、
証券取引法(現行の金融商品取引法)上の有価証券報告書に間違いがあった場合は、
その影響を受けるのは市場の全投資家であるわけです(その問題は、取締役と既存株主との間だけの問題に限定されはしない)。
社会の公器である上場企業の財務諸表に間違いがあった場合の社会的影響の大きさを鑑みれば、
有価証券報告書には絶対に間違いがあってはならない、という考え方に社会的・理論的にはなるわけです。
そして、この世に「絶対に間違いがない文書」を作成できるのは、理論的には公務員だけである、という考え方をしています。
他の言い方をすれば、「有価証券報告書は公文書でなければならない。」という考え方に理論的にはなるわけです。
世の「理論的前提」を鑑みれば、理論的には、有価証券報告書の作成者は公務員でなければならないのです。
会計監査を行う監査法人を上場企業が選択できないようにしたり、監査報酬は例えば証券取引所から監査法人に支払う、
といった方策で監査の公平性を担保する(上場企業と監査法人の癒着を未然に防止する)ことも実務上考えられはしますが、
法の原理的には、絶対に間違いがない文書を作成できるのは公務員だけであるわけです。
有価証券報告書(財務諸表)は経営者が作成し、監査法人が会計監査を施した上で財務諸表は正しいと保証する、
という方法ですと、有価証券報告書も監査報告書も私文書ということになってしまいます。
理論的には、私文書には絶対に正しいという保証はない、という考え方になるわけです。
究極的には、有価証券報告書(財務諸表)は公務員が作成する(したがって、追加的・補完的な会計監査は当然に必要ない)、
という理論的結論になります。
私は一昨日のコメントで、「有価証券報告書」(ディスクロージャー)の作成者についてについて、次のように書きました。

>理解の助けのために、新旧の所得税法で例えて言えば、取締役が有価証券報告書を作成するのは「申告納税制度」であり、
>真の意味での独立者が有価証券報告書を作成するのは「賦課課税制度」である、とそれぞれなぞらえることができると思います。

>有価証券報告書は真の意味での独立者が作成するべきなのです。

株式会社東京衡機が発表しているプレスリリースには、過去の決算の修正や財務報告に係る内部統制の不備といった文言がありますが、
「有価証券報告書(財務諸表)は公務員が作成する。」と考えると、理論的にはこれらがいかに不毛な議論か分かると思います。
「有価証券報告書(財務諸表)は公務員が作成する。」ならば、過去の決算の修正もあり得ませんし、
財務報告に係る内部統制の不備もあり得ませんし、さらには、
「監査法人から適正意見が得られない。」(だから決算発表が遅れる)などという市場の投資家が一番困る事態も生じ得ないのです。

 



それで、昨日のコメントでは、
「なぜ有価証券報告書の作成に公金を用いてよいのか(なぜ有価証券報告書の作成を公務員の職務としてよいのか)?」
という点について書いたわけです。
私的な取引(私人間の事柄、私事、私人の事柄)に国が公金を使うのはそもそもおかしい(本来国は関与しない)わけなのですが、
不動産登記制度を題材に、「私事にも国が関与するべき場面がある。」という点について昨日は説明を試みたわけです。
それから、理論上の話をしますと、債権者は営業報告書や有価証券報告書を閲覧して債権の回収可能性を判断したりはしない、
という結論になると思います。
なぜなら、理論上は、債権は必ず満額弁済されるからです(理論的には、"Receivables are cash."だから)。
理論上は、債権者は営業報告書や有価証券報告書を閲覧して会社と取引を行うわけではないのです。
営業報告書や有価証券報告書を閲覧すれば、債権者は会社の弁済可能性について判断が可能になるのではないか、
と思われるかもしれませんが、理論上はその考え方は間違いです。
理論上は、営業報告書や有価証券報告書は会社が倒産しないことを前提に作成されるものです。
理論上は、債権者は営業報告書や有価証券報告書を閲覧する必要は全くありません。
なぜなら、理論上は、債権者は必ず債権を回収できる(会社は必ず債務を弁済できる)からです。
特に株式の譲渡を理論上可能にするために作成される有価証券報告書は、
投資家の将来予想(業績の予想や配当金額の予想さらには残余財産の分配額の予想)のために作成されるのであって、
債権の回収可能性の予想のために作成されるのではない(理論上は、債権の回収可能性は始めから100パーセントです)のです。
他の言い方をすると、理論上は、(特に債権者にとって)営業報告書や有価証券報告書は商取引の前提ではない、ということです。
実務上、商法(会社法)は債権者保護が目的と言われますが、理論上は商法(会社法)は債権者保護は目的とはしていないのです。
他の言い方をすると、株式には当然に投資判断という概念があるのですが、債権には投資判断という概念はないのです。


On the principle of law, a cash flow from a bond is completely firm, whereas that from a share is not firm at all.
In other words, on the principle of law, a cash flow from a share depends on an director of a company,
whereas that from a bond doesn't depend on an director of a company at all.
On the principle of law, the possibility for a bond to be settled fully is 100 percent,
whereas the possibility for a total cash flow from a share to surpass an acquisition value of the share
is absolutely indefinite.
Therefore, it is true that both are classified as a "transfer of securities,"
but a transfer of a share is much more theoretically difficult than that of a bond.

法理的には、債券からのキャッシュフローは完全に確定しているものですが、
株式からのキャッシュフローは全く確定はしていないものなのです。
他の言い方をすれば、法理的には、株式からのキャッシュフローは会社の取締役に依存しているのに対し、
債券からのキャッシュフローは会社の取締役には全く依存していないのです。
法理的には、債券が満額決済される可能性は100パーセントなのですが、
株式からのキャッシュフローの合計金額が株式の取得価額を超える可能性というのは、全く不確定なものであるわけです。
したがって、確かにどちらも「有価証券の譲渡」に分類されるわけですが、
株式の譲渡は債券の譲渡に比べてはるかに理論的には難しいものなのです。