2017年8月14日(月)
昨日までの一連のコメントに一言だけ追記をします。
今日のコメントは特にいつのコメントの続きというわけではなく、
どちらかと言うと最近の一連のコメント全てに関連のあるコメントになります。
今日も記事を紹介して、一言だけコメントを書きたいと思います。
過去の関連コメント
2017年7月25日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170725.html
2017年7月27日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201707/20170727.html
から
2017年8月13日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201708/20170813.html
までの一連のコメント。
次の記事を題材にして株式報酬について考えてみたいと思います。
2017年8月6日(日)日本経済新聞
自社株で報酬 導入500社超 企業統治指針に対応
(記事)
2017年6月7日(水)付けの日本経済新聞の記事(大機小機)には、ずばり「上場が非上場か」と書かれています。
そして、2017年8月6日(日)付けの日本経済新聞の記事には、
>株式を役員や従業員の業績連動報酬として与える企業が増えている。
と書かれています。
最近の一連のコメントに共通している論点というのは、「取締役は会社の株式を所有できるのか?」という点であるわけです。
他の言い方をすれば、「株主が取締役に就任することはできるのか?」という点であるわけです。
さらに他の言い方をすれば、「法人への出資者は法人の業務執行に携わることはできるのか?」という点であるわけです。
この文脈における「できるのか?」は主に「会社制度上(理論的に)認められることなのか?」という意味です。
このように問題提起するくらいですから、暗に「それは認められないことではないのか。」という含みがあるわけです。
私はこの論点について最近はずっと考え続けていますしそれで自分なりに話を整理しコメントを書いているわけなのですが、
2017年8月6日(日)付けの日本経済新聞の記事には、役員への自社株式報酬のメリットとして、次のように書かれています。
>金融庁は2015年の上場企業向けコーポレート・ガバナンス・コード(企業統治指針)で、
>中長期の業績と連動した自社株報酬の導入を促した。
>自社株付与により役員や従業員から業績をあげる努力を引き出す狙い。
>投資家や株主と同じ目線も持つので、健全な経営に努める緊張感も生みやすい。
>収益力が高まれば配当も増え、役員や従業員のメリットも大きくなる。
確かに、記事に書かれてある内容は一見すると全く正しいように思うわけです。
ではなぜ株式会社における株式報酬は問題があるのか、また、どの問題とは具体的にはどのような問題なのか、
について考えているわけです。
まず、結論を言いますと、
「法人における出資者と業務執行者は同じであるに越したことはない。」
というのが、実は結論と言えば正しい結論であるわけです。
「出資者と業務執行者は同じであるのが一番良い。」、こう言ってしまえばこれほど簡単な話(理論上の結論)もないわけです。
株主が直接取締役として業務執行を行うのが一番良いと言ってしまえばそれまでの話であるわけです。
この点において、「株式会社において取締役への株式報酬は認められるべきである。」という一定の帰結は導けるわけです。
取締役が株式を所有していること自体や株主が取締役に就任すること自体は実は何の問題もないことなのです。
株式の過半数を所有する支配株主が取締役に就任して業務執行を行っても、理論的には何の問題もないのです。
もちろん、そこでは「フィデューシャリー・デューティー」が十分に機能していることが前提とはなりますが。
株主総会議案作成の際、支配株主は株主としてではなく取締役として(一出資者としてではなく前株主からの受託者として)、
少数株主の利益保護にも配慮した議案を作成する義務を負っている、と考えるわけです。
支配株主は、一株主としては自分の利益のみを追求して全く構わない(他の株主の利益を考慮する必要は全くない)のですが、
株主総会議案作成の際は、あくまでも取締役として議案を作成しなければならない(それが「受託者責任」)わけです。
「仮に自分が少数株主であったならば私はこの議案に納得するだろうか?」、
常にそう考えて支配株主である取締役は株主総会議案を作成しなければならないのです。
さらに、「仮に自分が少数株主であったならば私はこの業務執行に納得するだろうか?」、
常にそう考えて支配株主である取締役は会社の業務執行に携わらなければならないのです。
端的に言えば、「フィデューシャリー・デューティー」が十分に機能していれば、支配株主が取締役でも実は何の問題ないのです。
しかし、一般論として、上場企業において株式報酬が認められないのは、理論的には、
会社制度(「フィデューシャリー・デューティー」の機能不全)が理由ではなく、実は証券制度が理由なのです。
より具体的に言えば、「取締役による株式の譲渡」が株式報酬では必然的に問題になるのです。
報酬というくらいであるわけですから、取締役は所有している株式を最後は現金に換えなければ報酬にならないわけです。
株式を現金に換える方法は2つしかありません。
他者に譲渡するか、もしくは、会社の清算時に残余財産を受け取るか、です。
通常、上場企業は会社の清算は前提としていないと言えますので、ここでは株式の譲渡についてのみ述べます。
また、取締役が所有している上場企業株式を他者に譲渡するという場合、通常は市場取引による譲渡のみを指します。
こうなりますと、市場の投資家と取締役との間で、必然的に極めて大きな情報格差が生じることになるわけです。
市場の投資家は、@当局に提出された各種法定開示書類とA報道された内容(新聞記事やテレビ等と
B自社ウェブサイト上でのプレスリリース(任意開示)の3つしか知らないのに対し、
取締役は会社に関する全情報を知っている、と言えます。
上記@からBの情報量の何千倍何万倍もの情報を取締役は知っているわけです。
文字やプレゼンテーション資料(イラストや動画等)ではとても表現できない有形無形の情報も取締役は知っているわけです。
これではとても公正な株式の取引などできないわけです。
このような場面で用いられるのが「インサイダー取引」と呼ばれる概念になるわけです。
すなわち、他の投資家が知らない情報を知っている者に関しては、取引そのものを禁止するしかない、という考え方になるわけです。
取締役は常に、業務執行に携わる限り、さらには業務執行に携わった後(退任後)も、
「投資家が知らない情報を知っている」という状態に置かれ続けます。
これでは取締役が報酬として株式を受け取ったところで、市場内外で売却をすることはできない、ということになるわけです。
他の言い方をすれば、投資家の利益を犠牲にすることでしか、取締役は株式を売却することができない、ということになるわけです。
例えば、市場の投資家同様、上記@からBの情報量のみを知っているものと頭の中で想定して取締役は株式を売却する、
などという方法も考えられなくはないかもしれません。
具体的には、「仮に自分が市場の投資家であったならば私はこの株式売却に納得するだろうか?」、
と自問自答をしてもらった上で(宣誓か何かをしてもらった上で)、取締役には市場で報酬として受け取った株式を売却してもらう、
という方法も考えられなくはないかもしれません。
実務上の対応策としてそのような株式売却方法も考えられなくはないと思います。
しかし、市場の投資家と取締役との間の情報格差は本質的に著しいものがありますので、
すなわち、市場の投資家と取締役との間の情報格差は「ディスクロージャー」では到底解決できない本質的なものがありますので、
取締役による自問自答(宣誓等)に市場の投資家が納得をするのかと言えば、現実には厳しいものがあると思います。
そもそもの話をしますと、いわゆる「ディスクロージャー」というのは(金融商品取引法は「ディスクロージャー」の法ですが)、
市場の投資家と取締役との間の情報格差を解消することが目的では全くないのです。
「ディスクロージャー」というのは、市場の投資家が十分な投資判断を行えるようにするための手段に過ぎないのです。
市場の投資家と取締役との間の情報格差をなくすことなど、証券制度は始めから全く考えてはいないのです。
他の言い方をすれば、証券制度というのは、むしろ市場の投資家と取締役との間には情報格差があることが前提だ、
と言えるわけです。
「フィデューシャリー・デューティー」という場面では、
元はと言えば株主自身が取締役を選任した(自分が信じて任させた)のですから、
取締役の業務執行に関する宣誓を信頼することは
概念(理論)的にも心理・心情的にも市場の投資家にとって十分に許容できる範囲のことでしょう。
しかし、「ディスクロージャー」と呼ばれる行為は、市場の投資家と取締役との間の途方もない情報格差があることを
本質的に前提とした行為(市場の投資家が十分な投資判断を行えるようにするためだけの方策)に過ぎないわけです。
市場の投資家も、自分達と取締役との間には本質的に解消不能と言える情報格差があることは始めから承知しているわけです。
情報格差を自分達が信任した取締役が解消してくれることなど、市場の投資家は始めから期待していないわけです。
そのような場面において、「私は市場の投資家の皆様が知っている情報だけを知っているものとして株式の売却を行います。」
などと取締役から言われたところで、市場の投資家は誰も納得はしないでしょう。
聖書に手を置いた宣誓か何かでは、取締役の頭の中の情報格差はなくなったもの、とは到底見なせないわけです。
「ディスクロージャー」とは、そもそも「会社の情報は何も知らない市場の投資家だけのもの」と言えると思います。
他の言い方をすると、「ディスクロージャー」は始めからその対象者が本質的に決まっているのです。
すなわち、「ディスクロージャー」の対象者は本質的に「市場の投資家のみ」なのです。
取締役が「私は『ディスクロージャー』情報のみで株式の売却を行います。」など宣誓したところで本質的にお門違いなのです。
仮に取締役が所有株式の売却のために「ディスクロージャー」を閲覧するならば、市場の投資家から、
"That director is reading the wrong documents." (あの取締役はお門違いの文書を読んでいる。)
と言われてしまうでしょう。
「ディスクロージャー」は、そもそも取締役が閲覧するものでないのです。
「ディスクロージャー」を閲覧した上で、所有株式を売るために株式市場に行っても、取締役は証券取引所から、
"You have come to the wrong place." (お門違いをなさっています。)
と言われてしまうでしょう。
証券取引所からはさらに、
"This place is only for the persons who only know the 'disclosure' from the
beginning."
(そもそもここは「ディスクロージャー」のみを知っている人達だけのための場所です。)
と言われてしまうでしょう。
「頭の中を市場の投資家が知っている情報だけにした上で(それだけを基に)株式の売却を行うようにします。」
と取締役が宣誓をしても、市場の投資家には納得できないものがありますし、また、理論的にも、そもそもの話、
市場の投資家が知っている情報(「ディスクロージャー」情報)と取締役が知っている情報は異なることが制度上の前提なのです。
取締役が「市場の投資家と同じ情報だけで判断します。」ということにそもそも無理があります(理論上の前提に反する)ので、
理論的には株式報酬というのは認められない、という結論になるのです。