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2017年3月15日(水)



過去の関連コメント


2017年2月19日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201702/20170219.html

2017年3月2日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201703/20170302.html

2017年3月12日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201703/20170312.html

2017年3月14日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201703/20170314.html

 



【コメント】
3日前の2017年3月12日(日)と昨日2017年3月14日(火)に、遺産をどのように承継させるか、についてコメントを書きました。
一言だけ追記をしたいと思います。
今日は「相続の原因」について書きたいと思います。
相続と聞きますと、一般的には、「死亡が相続の原因」と言われます。
しかし、厳密に言えば、「死亡が相続の原因」と言えるのは戦前の家の制度の場合のみだと思います。
戦前の家の制度では、戸主が死亡したことが原因で家督(戸主の地位)の相続が行われるわけです。
戦前の家の制度では、相続人は長子のみであったわけです。
ところが、現代では、戦前の家の制度における相続とは異なる点が2つあると思います。
1つ目は、相続と呼ばれる行為が「財産の相続」のみを指している(家督を相続するという観念自体が現代では全くない)点です。
2つ目は、これは理詰めで推論しただけなのですが、おそらく「遺言」という考え方をしていなかったという点です。
逆から言えば、現代の相続では、これらの2つが重要な要素となっているわけです。
もちろん、戦前は相続人は長子のみであったという点も大きな相違点と言わねばなりません。
昨日紹介しました記事では、生前贈与は相続に含まれるのではないか、という点が論点になっていわけですが、
仮に生前贈与は相続に含まれると考えますと、それは「死亡が相続の原因」ではない、と言っていることに等しいわけです。
なぜなら、昨日のbさんは、故人が死亡する前に財産を相続しているからです。
また、遺贈による(遺言書に基づく)「財産の承継」に関して言えば、
「財産の承継」自体は死亡者が死亡した後に執行されるものの、その意思は当然のことながら死亡者の「生前の」意思によるもの
であるわけですから、その「財産の承継」は「死亡が相続の原因」とは呼べない部分があるように思うわけです。
死亡が契機と言えば確かに死亡が契機ですが、その「財産の承継」は「死亡者の生前の意思が原因」、と言えばいいでしょうか。
意思自体は生前なのに、実際の承継は死後、という状態であり、遺言には説明が付きづらい部分があるように思います。
この辺り、昨日書きましたように、法理的には、生前贈与と死後贈与(遺贈)と相続との間には明確に線が引けるのですが、
相続に際して実質的な公平性を重視するということを考えますと、それらの境界線があいまいになってきますし、
また、そう考える結果、奇妙なことに「死亡が相続の原因」とは言えなくなってくる面が出てくるわけです。
戦前の家の制度のように、「相続するもの」が家督・戸主の地位という極めて属人的なものであれば(社会的立場が承継されるのみ)、
当然に・必然的に「死亡が相続の原因」ということになる(つまり、死亡前に相続させようがない)わけですが、
現代のように、「相続するもの」が「その人からは分離できる財産と呼ばれるもの」の場合は、
被相続人が生前に相続させるべきものを相続させることができる、ということになってしまうわけです。
抽象的に言えば、現代の相続はまさに「財産」、戦前の相続は「一身専属」、と表現できると思います。
「一身専属」という言葉・概念・理解は、著作権法上の「著作者人格権」という考え方をヒント・参考にしました。
ウィキペディアの「著作者人格権」の項目には大変興味深いことが書かれています。
「著作権」と「著作人格権」は実は明確に異なる概念・権利であるといった説明がなされてあり、

>著作者人格権は、一身専属性を有する権利であるため他人に譲渡できないと解されており、
>日本の著作権法にもその旨の規定がある(59条)。

と書かれています。
「一身専属性を有する権利は他人に譲渡できない。」という考え方が、
戦前の相続(家督相続)に相通じるものがあると思ったのです。

 


一言で言えば、戦前の相続では、「一身専属のもの」を家督の相続という形で戸主から長子に承継させているだけなのです。
「戸主に一身専属しているもの」を戸主の死亡を原因として長子に承継させること、これが戦前の相続なのです。
「俺が所有している現金100円をお前にあげる。」ということは今も昔もできるわけです。
しかし、「俺の家族を俺の代わりに扶養してくれないか。」ということは今も昔もできないわけです。
その理由は、家族を扶養する義務は戸主(の地位の人)に一身専属しているからです。
財産は処分できます。
ですから、財産は生前に相続させるこということができてしまう(当然、相続と贈与の境界線があやふやになる)わけです。
しかし、一身専属のものは処分できません。
ですから、一身専属のものは生前に相続させられないのです。
同じくウィキペディアの「著作者人格権」の項目には、次のように書かれています。

>日本法では一身専属性のある権利は相続の対象にはならないので(民法896条但書)、
>著作者人格権も相続の対象にはならず、著作者の死亡によって消滅するものと解されている。

まず、引用した分の前半部分についてなのですが、現代の相続では一身専属性のある権利は相続の対象にはならないのでしょうが、
戦前の相続では正反対に、一身専属性のある権利・義務のみを相続の対象としていた、と表現してよいと思います。
もちろん、戦前においても長子は戸主の所有財産を相続するわけですが、その財産は個人財産としての色彩よりも、
家族のための財産という色彩の方がはるかに強いものであったわけです。
「一身専属」と書くと、意味が分かりづらくなり、語弊があるのかもしれません
「一地位専属」とでも表現した方がより正確でしょうか。
それとも、「戸主専属」と表現する方がさらに正確でしょうか。
「戸主の地位に専属しているもの」を、戦前の家の制度では相続されていたわけです。
次に、引用した分の後半部分についてなのですが、戸主の死亡によって、それまで戸主であった自然人は消滅するわけですが、
戸主の地位(に専属している権利と義務)は消滅しない(長子にそのまま承継される)、と戦前の相続では考えるわけです。
よく「戦前は長男がいないと家が潰えていた」、と言われたりしますが、それはそのはずでしょう。
家に長男がいないと家族を扶養する人がいなくなるわけですから。
すなわち、家に長男がいないと、戸主の地位(に専属している権利と義務)が消滅してしまうからです。
戦前の家の制度は、戸主の地位(に専属している権利と義務)を代々承継・維持させていくことに最重点が置かれていたのです。
そうでないと、人が生きていけないからです。
「一身専属」、「戸主専属」という概念が、戦前の相続を理解する上で重要な概念だと思いました。
「一身専属」のものは、ここでは戸主以外の人にはという意味で、承継させられないものなのです。
「戸主の地位に専属している権利と義務」は、戸主の地位に専属するものであり、他の者には移転しない性質のものなのです。
その意味において、戦前は明らかに「死亡が相続の原因」と言えたわけです。
しかし、現代の相続は、被相続人から分離・独立できるものを相続させるため、
概念的そして実質的には「死亡が相続の原因」とは言えない部分がその本質として生じてしまうのです。