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2017年3月15日(水)
2017年2月19日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201702/20170219.html
2017年3月2日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201703/20170302.html
2017年3月12日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201703/20170312.html
2017年3月14日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201703/20170314.html
>著作者人格権は、一身専属性を有する権利であるため他人に譲渡できないと解されており、
>日本の著作権法にもその旨の規定がある(59条)。
と書かれています。
「一身専属性を有する権利は他人に譲渡できない。」という考え方が、
戦前の相続(家督相続)に相通じるものがあると思ったのです。
一言で言えば、戦前の相続では、「一身専属のもの」を家督の相続という形で戸主から長子に承継させているだけなのです。
「戸主に一身専属しているもの」を戸主の死亡を原因として長子に承継させること、これが戦前の相続なのです。
「俺が所有している現金100円をお前にあげる。」ということは今も昔もできるわけです。
しかし、「俺の家族を俺の代わりに扶養してくれないか。」ということは今も昔もできないわけです。
その理由は、家族を扶養する義務は戸主(の地位の人)に一身専属しているからです。
財産は処分できます。
ですから、財産は生前に相続させるこということができてしまう(当然、相続と贈与の境界線があやふやになる)わけです。
しかし、一身専属のものは処分できません。
ですから、一身専属のものは生前に相続させられないのです。
同じくウィキペディアの「著作者人格権」の項目には、次のように書かれています。
>日本法では一身専属性のある権利は相続の対象にはならないので(民法896条但書)、
>著作者人格権も相続の対象にはならず、著作者の死亡によって消滅するものと解されている。
まず、引用した分の前半部分についてなのですが、現代の相続では一身専属性のある権利は相続の対象にはならないのでしょうが、
戦前の相続では正反対に、一身専属性のある権利・義務のみを相続の対象としていた、と表現してよいと思います。
もちろん、戦前においても長子は戸主の所有財産を相続するわけですが、その財産は個人財産としての色彩よりも、
家族のための財産という色彩の方がはるかに強いものであったわけです。
「一身専属」と書くと、意味が分かりづらくなり、語弊があるのかもしれません
「一地位専属」とでも表現した方がより正確でしょうか。
それとも、「戸主専属」と表現する方がさらに正確でしょうか。
「戸主の地位に専属しているもの」を、戦前の家の制度では相続されていたわけです。
次に、引用した分の後半部分についてなのですが、戸主の死亡によって、それまで戸主であった自然人は消滅するわけですが、
戸主の地位(に専属している権利と義務)は消滅しない(長子にそのまま承継される)、と戦前の相続では考えるわけです。
よく「戦前は長男がいないと家が潰えていた」、と言われたりしますが、それはそのはずでしょう。
家に長男がいないと家族を扶養する人がいなくなるわけですから。
すなわち、家に長男がいないと、戸主の地位(に専属している権利と義務)が消滅してしまうからです。
戦前の家の制度は、戸主の地位(に専属している権利と義務)を代々承継・維持させていくことに最重点が置かれていたのです。
そうでないと、人が生きていけないからです。
「一身専属」、「戸主専属」という概念が、戦前の相続を理解する上で重要な概念だと思いました。
「一身専属」のものは、ここでは戸主以外の人にはという意味で、承継させられないものなのです。
「戸主の地位に専属している権利と義務」は、戸主の地位に専属するものであり、他の者には移転しない性質のものなのです。
その意味において、戦前は明らかに「死亡が相続の原因」と言えたわけです。
しかし、現代の相続は、被相続人から分離・独立できるものを相続させるため、
概念的そして実質的には「死亡が相続の原因」とは言えない部分がその本質として生じてしまうのです。