2017年9月26日(火)



今日は、ここ16日間の一連のコメントと関連のある論点になるのですが、
新聞記事を題材に、「内部監査」について一言だけ書きたいと思います。
また、いつもの教科書から、「内部監査」についての解説をスキャンして紹介したいと思います。

 

これまでの一連の関連コメント

2017年9月10日(日)
http://citizen.nobody.jp/html/201709/20170910.html

から

2017年9月25日(月)
http://citizen.nobody.jp/html/201709/20170925.html

までの一連のコメント

 

「監査論の基礎知識 五訂版」 石田 三郎 編著 (東京経済情報出版)

第2章 監査の種類
第2節 外部監査と内部監査
1 外部監査
2 内部監査
3 監査役監査
「19ページ」 

「20〜21ページ」 

 


2017年9月26日(火)日本経済新聞 私見卓見
明治大学専門職大学院兼任講師(内部監査制度) 吉武一
内部監査を組織変革の起点に
(記事)

 



ここ16日間の一連のコメントは、「会計監査かつ外部監査」を前提に書いてきました。
つまり、会計監査以外の監査である業務監査や内部監査については、全く書いてきませんでした。
伝統的には、監査という言葉は、現代で言う「会計監査かつ外部監査」のことを当然に意味していたと思います。
業務監査という概念も内部監査という概念も、伝統的には存在しないものであった、と言っていいと思います。
ただ、近年では、主に経営管理の観点から、業務監査や内部監査という考え方を企業が実践するということが多いようです。
業務監査や内部監査という概念が意味している内容・事柄というのは、どちらかと言うと、
経営者が業務執行を行っていく上で当然に果たしていかなければならない組織の制度設計に関する話なのではないかと思います。
つまり、それらは「監査」というよりも、伝統的には人事制度の構築や懲罰の規則を定めることの一環であると思います。
上司が部下の仕事を日々チェックするように、日々の業務の中で自然に果たされていかねばならない事柄なのだと思います。
ただ、最近では、不正防止を強調する意味合いで、それらについても「監査」という言葉が用いられているのだと思います。
また、それらは主に従業員の日々の仕事に対する規律付けという意味において、経営者自身は内部監査の対象外なのだと思います。
経営者が業務執行の上で不正を働くことは会社制度に関する理論的には前提とはしていないと言いますか、
理論的には、そのようなことは「委任」という人間関係により始めから起こらないことになっている、と言っていいと思います。
内部監査とは、主に従業員(雇用契約の締結者)を対象にした考え方であって、株主から委任を受けている経営者(取締役)は
始めから内部監査の対象ではない(むしろ経営者が従業員を対象に内部監査を実施する)と考えなければならないと思います。
ここ3日間のコメントでは、仮に経営者が原始証憑から捏造した場合はどれだけ会計処理を検査しようとも適正な財務諸表には
決してならない(だからこそ、監査では外部証拠・確証的証拠を入手することが重要だ(だが実はそれが実務上は極めて難しい))、
と書きましたが、理論的なことを言うと、経営者が基礎的会計資料を捏造する(不正を働く)ことは監査理論上はない、
ということが前提になっているのかもしれないなと思いました(だから監査基準等に外部証拠に関する規定が少ないのでは、と)。
ただ、やはり、現実的なことを言いますと、理論通りに「基礎的会計資料は正しい。」(ことが前提だ)で済むのなら、
「会計処理も始めから正しい。」(したがって、財務諸表の表示も始めから適正だ。)ということになってしまうわけです。
そもそもの話をすると、適正な財務諸表を作成することも経営者が株主から委任を受けた業務執行の1つであるわけです。
財務諸表を監査するということは、換言すれば、監査人は株主と経営者との間の委任関係に物申していることになるわけです。
この点について考えてみますと、最後は線引きの問題になるのだと思います。
つまり、理論的には、「基礎的会計資料は正しい。」ということが前提かもしれませんが、そこに現実的な視点を取り入れ、
疑わしい場合は「基礎的会計資料自体についても念のため確認する。」ということが求められる、といった具合に、
「基礎的会計資料は正しいのか正しくないのか?」という問いには、実は実務上は絶対的な答えは用意できないのだと思います。
実務上は、監査人に対しては、「"skepticism"(懐疑心)を心に宿し監査に当たるように。」、としか言えないわけです。
「財務諸表の表示は間違っているのかもしれない。」という当然の懐疑心を持って監査を実施する以上、
監査実務上は「基礎的会計資料も間違っているのかもしれない。」という懐疑心を持たねばならないわけです。
「財務諸表の表示は正しい。」という前提があるのなら、始めから監査はいらないわけですから。
ある意味「監査」というのは矛盾している概念の行為なのでしょう。
会社制度上は「基礎的会計資料は正しい。」ことが前提なのに、
「その基礎的会計資料は間違っているのかもしれない。」と疑わないといけないのですから。
監査人が外部証拠を入手するのが実務上は極めて難しいのは、ある意味当然のこと(必然的帰結)なのかもしれません。
また、監査基準に外部証拠の入手に関する規定を置こうとすると、会社制度上の前提を否定することが当然に伴うわけです。
会社制度上の前提と監査制度上の前提は、全く相容れないものなのだと思います(それが外部証拠を入手することが難しい理由)。

 


ここ3日間続けて書いていることなのですが、重要なことですので再度、監査に関する実務上の結論を再び書きたいと思います。

>監査とは、会計処理の妥当性を検証するものではなく、基礎的会計資料の妥当性を検証するものである、
>という結論に行き着きました。

ところが、今日の議論(会社制度上の前提)を踏まえますと、
「監査に関する理論上の結論」を、私は次のように書かなければなりません。

監査とは、基礎的会計資料の妥当性を検証するものではなく、会計処理の妥当性を検証するものである、
という結論に行き着きました。

実務上の結論と理論上の結論とが、これ以上ないというくらいまさに正反対になったわけなのですが、
この理論上の結論はそれはそれで様々なことを示唆しているように思います。
例えば、監査の理論としては、会社制度上の前提に合わせ、「基礎的会計資料は正しい。」ということを前提として置くしかない、
という考え方になるのかもしれないなと思いました。
乱暴に言えば、「基礎的会計資料は間違っていると言い出したら監査にならない。」、という考え方になるだろうかと思いました。
監査理論上は「基礎的会計資料は正しい。」ということが前提として置かれているのなら、
外部証拠の入手が極めて難しい(時に不可能)ことと何か整合性があるように思うわけです。
監査というのは、最も元来的には、基礎的会計資料を基にして、会計処理の検査を行うことに過ぎないのだ、
という考え方はあるようにも思いました。
「基礎的会計資料は正しい。」ということを前提にし、会計処理と数値の部分だけ追加的・補足的に第三者がチェックする、
ということが実は理論上の監査(の前提)なのかもしれないと思いました。
と同時に、健全な証券市場の構築だ投資家の利益保護だディスクロージャーだと言い出しますと、
「基礎的会計資料は正しい。」ということを前提にするのはあまりに「甘い」(悪い意味での"naive")わけです。
特に上場企業の場合、経営者には潜在的に財務諸表を改竄するインセンティブがあると言えるでしょう。
株式報酬しかり、ストック・オプションしかり、地位や名声や名誉欲しかりです。
上場企業の場合は、その意味において、「基礎的会計資料は正しくない。」ということを前提にするしかないと思います。
この点、非上場企業の場合は、経営者に財務諸表を改竄するインセンティブはほとんどないと言えるでしょう。
上場企業では粉飾がよく問題になりますが、非上場企業では逆粉飾が問題になる(利益額を小さくした方が有利な)くらいです。
原始証憑から捏造して財務諸表の数値を操作しよう、という動機はほとんどない(そのことが経営者の利益にならない)わけです。
監査という点においても、上場企業と非上場企業は正反対なところがある、と言えるのかもしれません。
理論上は、上場企業の経営者だから名誉欲があるなどということはないわけですが、現実的なことを考えればと言いますか、
健全な証券市場の構築や投資家の利益保護やディスクロージャーを鑑みれば、名誉欲があることを前提にするしかないわけです。
会社制度は性善説を前提に構築されている(「委任」がまさにそれです)一方、監査は性悪説を前提に行うものでしょう。
性善説(の制度)と性悪説(の制度)との整合性を図ることは、それこそどのように頑張っても不可能なことなのだと思います。
上場企業の場合は、非上場企業とは異なり、「投資家が取締役を委任したわけではない。」ということが前提であるわけです。
そこでは投資家と取締役との間では「委任」自体が行われていない以上、性善説に立つのは始めから完全に間違いであるわけです。
したがって、上場企業では、「基礎的会計資料は正しくないかもしれない。」ということを前提にした監査が求められるのです。

 



Generally speaking, management is willing to do an internal audit, but is unwilling to do an external audit.
It means that an internal audit is effective but that an external audit is not effective.

一般論になりますが、経営者というのは、内部監査には前向きですが外部監査を行いたいとは思わないものです。
つまり、内部監査は効果が高いのですが外部監査は効果が低いのです。

 


Whether an internal audit or an external audit,
the effectiveness or the feasibility of an audit depends on the participation of management.

内部監査であれ外部監査であれ、監査の有効性や監査の実行可能性は経営者の関与にかかっているのです。

 


In the sense that management assists an auditor,
management itself should rather take the initiative in performing an audit.

経営者は監査人の手助けをするという意味において、経営者自身がむしろ率先して監査を遂行していかねばならないのです。

 


In theory, "trust" ensures the trueness of basic accounting material.

理論的には、「委任」によって基礎的会計資料は真実であることが保証されるのです。