2019年3月5日(火)



2019年3月5日(火)日本経済新聞
ウィングアート 上場取りやめ
(記事)




2019年3月5日(火)日本経済新聞
東証1部再編、支持多く 区分見直し 関係者に聞く 上位以上の創設歓迎 株価指数への影響は懸念
「数ありき」から脱却必要
(記事)



2019年2月28日(木)日本経済新聞 社説
経営者は自ら戦略とリスクを語れ
(記事)



2019年2月15日(金)日本経済新聞
大塚家具が決算発表延期
(記事)



 


2018年12月18日(火)のコメントで、ソフトバンク株式会社の上場に関する記事を計26本紹介し、
「有価証券の上場には4つのパターンがある。」という資料を作成し、以降、集中的に証券制度について考察を行っているのだが、
2018年12月18日(火)から昨日までの各コメントの要約付きのリンクをまとめたページ(昨日現在、合計77日間のコメント)。↓

各コメントの要約付きの過去のリンク(2018年12月18日(火)〜)
http://citizen.nobody.jp/html/201902/PastLinksWithASummaryOfEachComment.html

 

 


【コメント】
まず最初に昨日のコメントに一言だけ追記したいのですが、僭越ながら訂正をさせていただき正確に書かせていただきますと、
従来(多数の教科書の大本となっている某教科書の初版が書かれた頃、1989年頃)の証券制度では、
「創業者が市場で持株を売却できる、ただ『唯一の』機会が株式公開の時である。」とアメリカ市場ではなりますし、
逆に日本市場(と現在のアメリカのナスダック市場)では、「所定のインサイダー取引規制を遵守しさえすれば、
創業者は株式公開の時以降も自由に株式を売却することができる。」、となります。
いろいろ思い出して振り返ってみますと、1990年当時、「法律は簡単だが会計は難しい。」と私は思いました。
それから、昨日のコメントでは、次のように書きました。

>極端なことを言えば、株式公開後、発行者が当期の四半期報告書の提出を延期するという事態も現に実務上は考えられます。

昨日は2019年2月14日(木)付けの日本経済新聞の記事(ホシザキとLIXILの決算発表延期の事例)を紹介したのですが、
今日は2019年2月15日(金)付けの日本経済新聞の記事(大塚家具の決算発表延期の事例)を紹介しています。
金融商品取引法の規定上は、四半期報告書の提出を最大1ヵ月ほど遅らせることが認められるようですが、
ホシザキの事例でもLIXILの事例でも大塚家具の事例でも、会社は当初は期限までに四半期報告書を提出する予定であったのだが、
想定外の出来事が社内で起こったために、四半期報告書の提出を一定期間延期せざるを得ない事態になってしまったわけですが、
提出期限の延期を認めるこの猶予期間というのは、悪く言えば提出を意図的に遅らせることにも利用できるわけです。
会社が四半期報告書の提出を意図的に遅らせてどのようなことをたくらむかのはともかく、
提出期限までに提出しなくても会社や経営陣には何らのペナルティもないというのは証券規制としてはおかしいわけです。
虚偽記載にペナルティがあるのなら、期限までの未提出にもペナルティがないと、規制としての実効性がないわけです。
「財務局長が提出期限の延期を認める。」ということが証券制度上認められるならば、
「財務局長が虚偽記載を認める。」ということもまた証券制度上認められる、ということになってしまうわけです。
率直に言えば、「投資判断の材料・根拠」という点において、提出期限の延期と虚偽記載は私には同じに見えるわけです。
一昨年の4月「無限定適正意見が付いていない四半期報告書を提出した。(しかも大幅に遅れて)」という事例(東芝)ありましたが、
「提出期限までに提出しないこと」は、「白紙の四半期報告書を提出した。」ということと全く同じであるわけです。
少なくとも投資家からはそう見えます。
経営コンサルティングでは「ゼロベースで考えることが大切です。」と言いますが、
四半期報告書がゼロ(白紙)では投資家は投資判断ができないのです。
無限定適正意見が付いていない四半期報告書を財務局に提出することができるならば、
白紙の(表紙くらいは付けて)四半期報告書を財務局に提出することもできるはずです。
理論上の話をすれば、虚偽記載が上場廃止ならば、提出遅延も上場廃止です。
虚偽記載に認めるという概念はないならば、提出遅延にも認めるという概念はないはずです。
ただ、現実的なことを言えば、上場廃止にしても投資家は全く救われないわけです。
ですので、簡単に言いますと、虚偽記載については発行者の経営陣にペナルティが課されるように、
提出遅延についても発行者の経営陣にペナルティを課する、ということが証券制度上も止められると私は思うわけです。
それが提出遅延の抑止になりますし実効性の確保ということだと思います(提出遅延についても結果責任を問うべきなのです)。
結果責任を問うとは、「こうこうこのような理由があったので提出が遅れました。」という言い訳は聞かない、という意味です。
有価証券報告書に経営方針や事業のリスクや市場環境や自社の優位性を記述することは投資家の投資判断に資すると思うのですが、
提出が遅れることは投資家から見るとそもそも「発行者が所定の情報開示をしない。」という状態に等しいわけです。
そのような事態が発生することを最大限防止する証券制度であるべきなのです。

 


また、2019年2月28日(木)付けの日本経済新聞の記事(社説)を読んでふと気が付いたことがあります。
それは「投資判断の根拠とは何か?」という点です。
事業のリスクや市場環境には当然のことながら「提出後の変動」(状況が変わること)があり得るわけです。
しかし、財務諸表(貸借対照表や損益計算書等)には
「提出後の変動」(数値が変わること)が原理的に絶対にあり得ないわけです。
純粋な理論上の話にはなりますが、「投資判断の根拠とは提出後に変動しないこと」ではないかと気付かされました。
「提出後に記載内容が変動しました。」では投資判断の根拠にならないわけです。
変動前に行った投資判断の意味がなくなってしまう(間違った投資判断を行ったことになってしまう)からです。
証券制度上確かに例えば訂正報告書という法定開示書類はあるわけですが、現実には、
そもそも発行者が訂正報告書を提出するという事態が生じることを証券制度としては最大限防止しなければならないわけです。
純粋な理論上の話にはなりますが、「提出後に絶対に変動しない事柄を投資判断の根拠としなければならない。」
という考え方になると思います。
証券制度構築の土台(基礎概念)は、「提出後に絶対に変動しない事柄を投資判断の根拠としなければならない。」
という考え方だと思います(そこが制度構築の議論の出発点だと思います)。
「提出後に絶対に変動しない事柄」とは、言葉を換えれば「過去」ということだと思います。
「過去」は絶対に変わらないわけですから。
さらに言えば、文章には文章表現(レトリック)や表現力や文章構成力や語彙力といったものがありますので、
同じ事柄・同じ経営環境・同じ会社でも執筆する経営者によって現実には文章の内容が変わってくるわけです。
執筆する経営者に依存しない「表示」(すなわち、誰が経営者であっても一意の「表示」に定まる表現方法)とは、
一言で言えば、「数字」だと思います。
そしてそもそも株式の本源的価値は「数字」で算定するわけですから、その意味においても、
発行者の情報は「数字」で「表示」するのが最も望ましいわけです。
投資家は文字を数字に換算しなくてよいわけですから。
文章をどうやって数字に換算するのでしょうか。
よって、純粋な理論上の話にはなりますが、発行者が開示する情報(投資家による投資判断の根拠)とは「財務諸表」なのです。
ただ、現実的なことを言えば、有価証券報告書に経営方針や事業のリスクや市場環境や自社の優位性を記述することは
投資家の投資判断に資するとはやはり思います。
実は私自身、財務諸表だけの有価証券報告書を見て、「これだけで株式の価値を算定するのは難しい気がする。」
と思ったことがあります。
ですので、「記載された事業のリスクや市場環境等は今後変動することがあり得ます。」という旨の注記を施す、
といった現実的対応が証券制度上求められると思います。
純粋な理論上の考え方とは正反対に、現実には、「将来予測」が証券投資では重要だったりするわけです。
最後に、証券制度上の現実的対応ということで、ウィングアート1stの事例(新規上場の取りやめ)について一言書きます。
従来の証券制度では、投資家が証券投資に用いることができる金額は「1千万円まで」と定められていたわけですが、
新規上場の銘柄が誕生するとなりますと、上場に際し、「以前から所有していた銘柄を売却してその新規上場の銘柄を購入する。」
という投資行動を投資家が取ることが想定されるわけですが、そうしますと、例えば、「売出しに応募するために、
以前から所有していた銘柄は既に売却してしまったのだから途中で上場を取りやめてもらっては困る。」、
という投資家が生じてはならないわけです。
その意味では、一旦承認された上場や一旦計画された売出しは最後まで遂行されなければならない、という考え方になります。
承認後の上場の取りやめはまだ市場の投資家への影響は相対的には少ないと思いますが、
募集と売出しに関して言えば、発行者や既存株主の都合で取りやめることはできない、という証券制度が求められると思います。