2019年2月26日(火)


「会計学辞典 第五版」 森田哲彌、宮本匡章 編著 (中央経済社)

「当座資産」("Quick Assets") 


 

 

2018年12月18日(火)のコメントで、ソフトバンク株式会社の上場に関する記事を計26本紹介し、
「有価証券の上場には4つのパターンがある。」という資料を作成し、以降、集中的に証券制度について考察を行っているのだが、
2018年12月18日(火)から昨日までの各コメントの要約付きのリンクをまとめたページ(昨日現在、合計70日間のコメント)。↓

各コメントの要約付きの過去のリンク(2018年12月18日(火)〜)
http://citizen.nobody.jp/html/201902/PastLinksWithASummaryOfEachComment.html

 

 



【コメント】
今日はまず最初に、「会計学辞典」から「当座資産」の説明をスキャンして紹介しています。
昨日は全く気が付かなかったのですが、昨日私が書きましたことと極めて類似した内容が「当座比率」のすぐ横に書かれていました。
次に、昨日のコメントに一言だけ追記をします。
昨日書きましたコメントを踏まえた上で追記をしたいのですが、昨日は決算の発表日について次のように書きました。

>理論的には、「全ての上場企業はある日曜日(ある特定の1日)に決算を発表しなければならない。」、
>という考え方になるのだと思いますが、

この点についてなのですが、現実には「開示情報を読み込み分析をする時間」が投資家には必要である、という点を鑑みますと、
投資家の立場からすると、たとえ全ての上場企業がある日曜日(ある特定の1日)に決算を発表したとしても、
現実には「開示情報を読み込み分析をする時間」は不足する(投資家は現実には1日では全ての開示情報を読み切れない)わけです。
投資家の立場からすると、逆に、上場企業が決算を発表する日は分散してくれた方が現実には助かる、という考え方もあると思います。
現実には「開示情報を読み込み分析をする時間」が投資家には必要である、という点を鑑みますと、
「1日当たりの決算を発表する上場企業数」に制限を課する、という考え方もあると思います。
上場企業による決算の発表日が偏らないように証券取引所が調整をする(1日当たりの開示情報数を証券取引所が平準化する)、
と考えるわけです(そうすれば、投資家は日々限られた時間内で開示された情報を読み込むことができるようになります)。
どのような開示方法が最も望ましいかについては、現実には絶対的な答えはないと思います。
そもそもの話をしますと、「全ての上場企業はある日曜日(ある特定の1日)に決算を発表しなければならない。」
という考え方の理論的背景は、「銘柄間の比較可能性の担保」であるわけです。
ある銘柄は既に決算が開示されているが別の銘柄はまだ決算が開示されていない、という状態では、
投資家は両銘柄を比較することができない(したがって、どちらの銘柄に投資をするか決定をすることができない)わけです。
このことは何を意味するのかと言いますと、理論的前提としては「投資家は開示された全ての開示情報を読む。」ということなのです。
そういったことを考えますと、理論と現実的対応の融合点(最も投資家の利益保護に資する着地点)は、次のような解だと思います。
「全ての上場企業はある日曜日(ある特定の1日)に決算を発表した上で、
投資家が現実に『開示情報を読み込み分析をする時間』を十分に確保するために、
その日曜日以降(その特定決算日以降)例えば2週間株式市場を閉場する。」
例えば、今年2019年に即して言いますと、全上場企業の決算の発表日は「5月19日(日)」、
「5月20日(月)から6月2日(日)まで」の間は株式市場は閉場し、「6月3日(月)」から株式市場を開場する、
といった具合のスケジュール(還元すれば、「投資家保護策」)にするわけです。
この場合、決算発表の前に投資家が株式の取引を行えるのは「5月17日(金)」が最後であり、決算の発表を受けた後、
「6月3日(月)」から投資家は株式の取引を再開できる、というスケジュール(還元すれば、「投資家保護策」)になるわけです。
暦日で言えば計16日間投資家は株式の取引を行えない、ということになるわけですが、
それでも投資家の利益は一切害されません。
なぜならば、その理由は、いみじくも(期せずして)2019年2月24日(日)のコメントに次のように書いていました。

>なぜならば、株式市場が休場しているというだけでは株式の本源的価値は一切変動しないからです。

株式市場を閉場する期間を「2週間」としたのは、株主総会招集通知は株主総会開催日の2週間前までに送付をしなければならない、
という会社法の規定を1つの参考としました(株主総会招集通知を読み込む時間の確保といいう意味では類似する概念でしょう)。
暦日で言えばこの16日間の間に、投資家は(現実には目的とする銘柄のみでしょうが)上場企業から開示された全ての情報
を読み込む、ということを行っていくわけです。

 


過去のカレンダーを見ていましたら、「5月の第3日曜日」が法定の決算発表日としては最も望ましいように思いました。
「全ての上場企業は毎年5月の第3日曜日に決算を発表しなければならない。
その後2週間株式市場を閉場し、5月の第3日曜日から2週間を経過した月曜日に株式市場を再び開場する。」
といった具合にスケジュールを組む(還元すれば、「投資家保護策」を策定する)というのはどうでしょうか。
決算の発表を受けた後の株式市場を開場日は多くの年は6月初旬になります(数年に1回だけ5月の末日頃になります)。
「銘柄間の比較可能性の担保」に最重点を置くならば、以上の考え方(スケジュール、投資家保護策)になります。
ただ、現在では決算期が上場企業毎に完全に分かれていますので、現実には上記の施策は実施は不可能です。
「現在では決算期は上場企業毎に完全に分かれている。」、というのは、
実はイコール、「銘柄間の比較可能性の担保」は現在の証券制度では全く重視していない、ということを意味します。
そして、証券制度の理論としては、実は、「銘柄間の比較可能性」を重視する必要は全くない、
という考え方も一方には現にあるわけです。
2019年1月4日(金)のコメントで紹介している2018年10月5日(金)付けの日本経済新聞の記事を見て下さい。
ミャンマーとラオスとカンボジアの証券取引所の現状が解説されています。
ヤンゴン証券取引所の上場企業数は5社、ラオス証券取引所の上場企業数は9社、カンボジア証券取引所の上場企業数は5社です。
これら3国の証券取引所には、「投資家が銘柄同士を比較する」という概念自体がそもそもないわけです。
これは東南アジアの政情や政策や経済発展度の問題でもありませんしこれら3国特有の事情というわけでもありません。
純粋に証券制度に関する理論として、「投資家が銘柄同士を比較する」という考え方はないという理論もあるわけです。
その理由は、投資家は発行者による開示情報だけでその発行者の株式の本源的価値を算定できるからです。
投資家がある発行者の株式の本源的価値を算定するのに、その発行者による開示情報以外の情報は不要なのです。
投資家がある発行者の株式の本源的価値を算定するのに、他の発行者による開示情報が必要だ、などということは一切ないのです。
投資家が複数の銘柄を分析・比較・検討し、どの銘柄に投資をするかを意思決定する(どの銘柄が最も有望なのか投資判断をする)、
という投資行動を取ることも現実には当然考えられるわけですが、
それは各投資家の"financial resources"(資力、投資余力、個人の事情)までをも証券制度上考慮に入れた場合の話であって、
それら付加的・追加的な投資家保護策を取り除けば(それらの策は「投資家は皆同じである」ことを暗に要請しているのです)、
ただ単に「投資家は発行者による開示情報だけでその発行者の株式の本源的価値を算定できる。」というだけのことなのです。
投資家保護上、各投資家の"financial resources"(資力、投資余力、個人の事情)までをも証券制度上考慮に入れる必要がある、
などというならば、投資家による投資銘柄数(保有銘柄数)も証券制度上制限しなければならないということにもなるでしょうし、
投資家による投資金額(上場株式の取得原価)の合計額も証券制度上制限しなければならないということにもなるでしょうし、
投資家が証券会社の口座に預け入れる資産額(現金と株式の合計額)も証券制度上制限しなければならないということにもなるでしょう。
ある1人の投資家が他の投資家よりも多数・多額の証券投資を行うことは認められない、ということになってしまうわけです。
そのような証券制度は、有価証券としての銘柄の均一化を発行者に求めていますし、投資行動の均一化を投資家に求めている、
という言い方ができるわけです。
この問いは、「証券制度上、発行者はどれくらい『皆同じ』でなければならないのか?」という問いであり、そして、
「証券制度上、投資家はどれくらい『皆同じ』でなければならないのか?」という問いであるわけです。
「株式市場はそもそも投資家が投資利益を得る場ではない。」、という考え方から言えば、
そのような証券制度の趣旨は意味が分からないとまでは言えないかもしれません。
しかし、「株式市場はそもそも投資家が投資利益を得る場ではない。」というのは結果(理論上の帰結)ではないでしょうか。
「株式市場はそもそも投資家が投資利益を得る場ではない。」ということを前提に理論や証券制度を組み立てるのは、
間違いというよりもまさしく「逆」(結果と前提と逆になっている)ではないでしょうか。

 


銘柄と投資家を「皆同じ」にすることで「株式市場はそもそも投資家が投資利益を得る場ではない。」
という状態を実現するのは間違いだと私は思います。
理論上の帰結として、「株式市場はそもそも投資家が投資利益を得る場ではない。」という結論になるだけであって、
現実には証券分析力や投資判断能力や投資余力は投資家間で大きな差があるわけです。
特に証券分析力や投資判断能力の差異を原因として、現実には投資家が投資利益を得るということがあり得るわけです。
それを証券規制でもって制限しようとするのは何か違和感を感じるわけです。
証券分析力や投資判断能力が投資家間で皆同じなら、結果として、
「投資家は株式市場で投資利益を得ることはできない。」、という結論になるだけなのです。
投資家が投資利益を得ることができないような株式市場を構築しようとするのは、間違いだと思います。
証券分析力や投資判断能力の差異以外の差異を原因として投資家が投資利益を得ることを防止する証券規制を課することは
間違いではないのですが、銘柄と投資家の均一化を要請することで
「株式市場はそもそも投資家が投資利益を得る場ではない。」という状態を実現するのはやはり間違いだと私は思います。
ある銘柄の投資単位(購入金額)が非常に大きいために、一部の投資家だけはその銘柄を購入することはできるが
他の投資家はその銘柄を購入することはできない、という状態は一見すると不公平であるように思えます。
しかし、たとえその一部の投資家だけがその銘柄を購入することができたところで、
その一部の投資家が投資利益を得られるわけではありません。
なぜならば、市場の全ての投資家がその銘柄を売買できようが一部の投資家のみがその銘柄を売買できようが、
その株式の本源的価値に変動はない(一定不変)だからです。
投資家による売買の結果株式の本源的価値が変動することは決してないのです。
例えば、一部の投資家のみが参加できる私設電子取引システムは、全投資家に株式売買の機会を提供していないという点において
投資家保護上問題がある(投資家を株式市場から締め出していることになるから)と私は思います。
ある銘柄の投資単位(購入金額)が非常に大きいために、一部の投資家だけはその銘柄を購入することはできるが
他の投資家はその銘柄を購入することはできない、という状態は、他の投資家は購入したくても購入できないために、
結果的に他の投資家達を株式市場から締め出していることになるという見方になるのは分からないではないものの、
「もし今私に多額の手許現金があったならば私もあの銘柄を購入することができるのに。」
と嘆く投資家のことまで証券制度が考慮に入れるというのは的を射ていないように私は感じるわけです。
なぜならば、その投資家に多額の手許現金がない理由は、例えば過去の投資の失敗かもしれないからです。
もしくは、惚れた女性に入れ込んだ結果かもしれませし、グレて不良やってた結果かもしれませんし、
学業を疎かにした結果かもしれませんし、OB訪問不足の結果かもしれませんし、職務怠慢の結果かもしれないわけです。
買った宝くじが当たらないかなと願望した結果かもしれませんし、買った馬券が当たらないかなと願望した結果かもしれないわけです。
はたまた、双六をしてサイコロを振った結果かもしれないわけです。
「その投資家に多額の手許現金がない理由」を証券制度が考慮する必要が果たしてあるのでしょうか。
「投資家毎の手許現金の差異」は、証券制度上は証券投資とは全く関係がないと私は感じるわけです。
「システム上株式市場から締め出された」と「自分には多額の手許現金がなかった」は本質的に異なるように思います。
極端な言い方になりますが、「投資家毎の手許現金の差異」もまた投資家の投資能力の1つだ、
という言い方ができないでしょうか。

 


「投資家毎の手許現金の差異」まで解消する証券規制を課することは、
「結果平等」を目指すものであって、「機会平等」を目指すものではないのです。
株式市場とは、「機会平等」を目指すものではないでしょうか。
その点において、「投資家毎の手許現金の差異」は株式市場では度外視するべきなのです。
徹頭徹尾「結果平等」を目指すならば、なるほど「株式市場はそもそも投資家が投資利益を得る場ではない。」という状態は
実現されることでしょう。
しかし、そのような状態は、そもそも「発行者による『ディスクロージャー』を投資判断の根拠として投資家は投資判断を行う。」
という証券投資の大前提に反しているように私は感じるわけです。
「徹頭徹尾『結果平等』を目指すべきである。」などという証券理論や証券制度は世界中探してもないはずです。
そういうわけで、一言だけ書くつもりが長くなりましたが、理論上の決算発表日について考察を行いました。
昨日も少し書いたことですが、1つの考え方としては、現実の投資家像と現実の商取引や会社運営を鑑みますと、
「株式市場は『休日』に開場をするべきであり、かつ、上場企業は決算発表を『平日』に行うべきである。」
という考え方もあると思います。
それから、昨日は次のように書きました。

>「上場企業は日曜日に決算発表を行っている。」という話を以前聞いたことを今日思い出しました。
>この話を聞いたのは1989年(頃)ではなかったかと思います。

毎年5月〜6月の月曜日の日本経済新聞が他の曜日と比較すると2倍以上厚かった(決算関連のページがその月曜日は極端に多数あった)、
という状態は、実は1999年までのことであった、ということを今日思い出しました。
1999年の5月〜6月の月曜日まで、日本経済新聞は他の曜日と比較すると2倍以上厚かったのです。
「こんなことまで自分は忘れていたのか。こんなことまで忘れたまま自分は今までコメントを11年以上も書いていたのか。」
と今日思い出して自分で本当にびっくりしたのですが、
実は私は1999年の5月の下旬の月曜日に(それこそ第3月曜日だったかもしれません)日本経済新聞を
(その頃家に配達はしてもらっていなかったので)家の近くのコンビニエンスストアで買ったことがあります。
「上場企業が日曜日に決算発表をするのは今年(1999年)が最後になる。」という話をバイト先その他で聞いていたからです。
確かに、今で言う元日の新聞みたいに他の新聞と比較して明らかに分厚い新聞だったと思います。
そのことを教えてくれたバイト先まで月曜日に買ったその日本経済新聞をわざわざ持って行ったことも今日思い出しました。
「いろいろあったけど、自分なりに自分の人生を充実させようと必死だったんだな。」、
と自分でその頃のことを思い出して懐かしくもなりましたしびっくりもしました。
1997年も1998年も、コンビニエンスストアに並んでいる月曜日の日本経済新聞を見て、
「あれ、妙に分厚いな。」と気が付いたことを今日思い出しました。
思い出してみますと、高校生の頃、高校の寮の受付の前の棚にも寮生が取っている各種の新聞が並んでいたのですが、
5月や6月頃の月曜日の日本経済新聞だけが他の新聞と比較して極端に厚いことにその時気が付いた、ということも今日思い出しました。
完全に忘れていたのですが、振り返ってみますと、
「5月や6月頃の月曜日の日本経済新聞だけが他の曜日や他の新聞と比較して極端に厚い。」
ということに気が付く機会が確かに1999年まではあったと思います。
1999年までは上場企業は5月と6月の日曜日に決算を発表していた、ということです。
「1999年までは、上場企業が行う決算発表とは有価証券報告書の財務局への提出のことだ。」という話を以前聞いた気がします。
「1999年までは、各地の財務局は日曜日も開いていた。」、ということだと思います。
そして、今で言う「決算短信」は1999年まではなかった(2000年から現行の「決算短信」の開示が始まった)、のだと思います。
1999年の夏頃(改正証券取引法の施行日に)、日本の証券制度は極めて大きく変わった、ということなのだと思います。