2017年10月26日(木)
2017年10月26日(木)日本経済新聞
日経平均反落 17日ぶりに
(記事)
金融政策についての昨日のコメント
2017年10月25日(水)
http://citizen.nobody.jp/html/201710/20171025.html
金融政策(ウィキペディア)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D%E6%94%BF%E7%AD%96
金融政策は景気や物価にどのように影響を及ぼすのですか?(日本銀行)
ttps://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/seisaku/b28.htm/
金融政策(1)金融政策とは何か(金融用語辞典)
ttp://www.findai.com/yogo/0048.htm
金融政策(2)金融政策の3つの手段(金融用語辞典)
ttp://www.findai.com/yogo/0051.htm
【コメント】
今日は、昨日のコメントに追記をする形で、金融政策、特に、「元来の金融政策」について一言だけ書きたいと思います。
私は昨日、金融政策について次のように書きました。
>伝統的な金融政策は、@公定歩合操作、A預金準備率操作、B公開市場操作、の3つです。
>@公定歩合操作のみが、中央銀行が本来の意味で任意に決定できる完全な金融政策である、と言えるのではないかと思います。
>端的に言えば、金融政策というのは「金利」に影響を与えることなのだと思います(「金融政策とは『金利』を決めること。」)。
昨日書きましたように、伝統的な金融政策には、@公定歩合操作、A預金準備率操作、B公開市場操作の3つの手段がある、
と教科書などには解説されているわけなのですが、「取引の相手方」という観点から各手段を見てみますと、
公が決定する手段としては、実施するに際して「取引の相手方」を必要としない@公定歩合操作のみが現実には有効だ、
と言えるのではないか、と私は昨日書いたわけです。
この「@公定歩合操作のみが現実には有効だ。」という点について今日は追記をしたいと思うのですが、
紹介している金融用語辞典の「金融政策とは何か」の解説には、金融政策について次のように書かれています。
>金融政策とは、日本銀行が利子率を変えることによって、世の中(市中)に出回るお金の量(通貨供給量)を調節して、
>物価の安定をはかり、経済の動きを調整する政策のことをいいます。
「金融政策とは何か」と言ってしまえば、まさに上記の解説の通りであるわけなのですが、
私が金融政策の本質だと思うのは、「どのような手段で中央銀行は利子率を変えるのか?」、という点であろうと思うわけです。
このように書きますと、「だからその手段というのが、@公定歩合操作、A預金準備率操作、B公開市場操作の3つではないのか?」、
と思われるかもしれませんが、実は最も元来的には、一言で言ってしまえば、金融政策とは、
「市中銀行が借入人(企業や商人)に対して貸し出す時の金利(利子率)を中央銀行が決定すること。」だと私は思うわけです。
私は昨日、@公定歩合操作のみが本来の金融政策だ、と書きましたが、私が昨日言及しました@公定歩合操作というのは、
いわゆる「伝統的な金融政策」(つまり3つの手段があるそれ)における@公定歩合操作という意味で書いたわけなのですが、
私が今日指摘していますのは、「中央銀行が直接市中銀行の貸出利率を決定する。」、という意味で書いています。
いわゆる「伝統的な金融政策」における「公定歩合」というのは、「中央銀行が市中銀行に資金を貸すときの利子率(金利)」
を意味しているわけなのですが、理詰めで考えていくと、その考え方は間違っているのかもしれないと思いました。
「市中銀行が借入人に資金を貸すときの利子率(金利)を中央銀行が決めること」が最も元来的な金融政策だと思いました。
これは公による「金利」の決定だと言えるでしょう。
一方、公による「資金量」の決定というのは、例えば、総量貸出規制や窓口規制と呼ばれたりする行政指導なのだと思います。
総量貸出規制や窓口規制は、「市中銀行が借入人に資金を貸すときの資金量(金額)を公が決めること」であるわけです。
総量貸出規制や窓口規制も(現在はそう呼ばれていませんが)一種の金融政策であり、まさにそれらは車の両輪なのだと思います。
金融政策というのは、景気が過熱しているのを抑えることはできるが、景気を刺激することはできない、という限界があります。
つまり、簡単に言えば、公は、市中銀行に対し、「貸すな。」とは言えますが、「もっと貸せ。」とは言えないわけです。
「もっと貸せ。」と言ったところで、効果は何もない(借入人が現れるわけではない)わけです。
物価の安定ということに即して言えば、金融政策により、インフレを抑えることはできるのですが、
デフレを抑えることはできない(物価を金融政策で上昇させることはできない)、ということになります。
ただ、元来的な金融政策に加え、いわゆる「伝統的な金融政策」のように、
中央銀行が直接市中銀行に資金を供給するようなことを行いますと、
結果、社会に流通する資金量自体が増加しますので、副次的にそれらの資金の一部が実物や証券の投資に向かう、
という波及効果は考えられなくはないと思います。
その意味では、いわゆる「伝統的な金融政策」が意図していることも分からなくはないと思います。
ただ、私が今日指摘しました元来的な金融政策では、社会に流通する資金量自体を増減させることは考えていませんので、
やはり、元来的には金融政策はデフレには効果はない、と言わねばならないと思います。
元来的には、金融政策は、社会に流通する資金量には中立だ(社会に流通する資金量を増減させる意図や効果は金融政策にはない)、
ということであろうと思います。
元来的には、金融政策とは、金利(利子率)と量の双方の側面から、景気や物価の安定を図るもの、ということだと思います。
理論的には、中央銀行というのは財務省(大蔵省)の一部局である、という位置付けでなければならないのだと思います。
理論的には、中央銀行が国(財務省、大蔵省)から独立しているというのは、国による金融政策の遂行を妨げるものである、
と言わねばならないと思います。
金融政策の遂行では、基本的には、金利(利子率)の決定により、景気や物価の安定を図って行こうとするのですが、
それだけでは目的が達成できない場合は、量による決定(総量貸出規制や窓口規制)も国は追加的に実施していくわけです。
3つの手段がある現在のいわゆる「伝統的な金融政策」というのは、理論的ではない部分があると思います。
一言で言えば、社会に流通する資金量を変えることが金融政策だ、というわけではない(流通する資金量は変えない)のです。
中央銀行が国債を引き受けることにより実施する財政政策(財政支出)や現在の買いオペ(伝統的な金融政策の1手段)ですと、
社会に流通する資金量が増加することになるわけですが、率直に言えばどちらの政策も元来的ではないと思います。
「社会に流通する資金量は一定である。」ということを前提に金利(利子率)を決定することが、元来の金融政策だと思います。
「社会に流通する資金量は一定である。」という前提は、実はいわゆる「伝統的な金融政策」でも既に無視されていたと思います。
ウィキペディアには、「中央銀行による金融政策を一言で言えば、市場にどれだけ通貨を流通させるかを実行するかにつきる。」、
と書かれていますが、元来的には、実はこの一言はまさに正反対だ(通貨供給量は一定が前提)、と言わねばならないのです。