2014年12月31日(水)
2014年12月31日(水)日本経済新聞
今期2.5億円の経常赤字 スリーエフ
(記事)
2014年12月30日
株式会社スリーエフ
特別利益の計上ならびに通期連結業績予想および期末配当予想の修正に関するお知らせ
ttp://www.three-f.co.jp/ir/pdf/20141230irtopix.pdf
2014年12月30日
株式会社スリーエフ
2015年2月期第3四半期決算短信
ttp://www.three-f.co.jp/ir/pdf/平成27年2月期 第3四半期決算短信〔日本基準〕(連結)002.pdf.pdf
2014年10月27日
株式会社スリーエフ
株式会社スリーエフ中四国とのエリア・フランチャイズ契約終了に関するお知らせ
ttp://www.three-f.co.jp/ir/pdf/エリア・フランチャイズ契約終了について10.24.pdf.pdf
【コメント】
記事には2015年2月期の連結経常利益が赤字になる(そして期末配当は無配になる)見通しである旨の記載しかありませんが、
プレスリリース及び決算短信によりますと、株式会社スリーエフは2015年2月期第3四半期連結決算に特別利益を計上しています。
特別利益の計上について(1/2ページ)
>特別利益を610 百万円計上いたします。
>内容は、平成26 年10 月27
日に公表いたしました株式会社スリーエフ中四国との四国地区エリアフランチャイズ契約の解約金であります。
株式会社スリーエフの本業(事業内容)は、コンビニエンス・ストアの経営ならびにフランチャイズ店の経営指導です。
つまり、スリーエフのフランチャイズシステムに加盟している店舗があってこそ、株式会社スリーエフの事業は成り立つわけです。
そのことを考えれば、フランチャイズ契約が解約されてしまったというのは、
直接的に会社の収益源がなくなってしまったことと同じです。
その意味では、フランチャイズ契約の解約に伴い、株式会社スリーエフは解約金を受け取ることになったとしても、
経営上はむしろマイナスでしかないわけです。
しかし同時に、フランチャイズ契約の解約に伴う解約金が当期に発生したのもまた間違いのないことであるわけです。
会計上は、当期に発生した解約金も含めて当期の利益である、という見方をする必要があるでしょう。
It is at once merely an extraordiary profit and a definitely realized profit.
その利益は、単なる当期限りの利益に過ぎないものだが、当期に間違いなく実現した利益であるのもまた確かだ。
2014年12月16日(火)日本経済新聞 経済教室
若林直樹 京都大学教授
サービスの本質、研究進む
顧客と共同で創造 従業員含む3者関係 存在
ポイント
○製造業でもサービスの経済的比重高まる
○サービスの価値は顧客の経験内容が決定
○従業員の企業文化理解が顧客満足高める
(記事)
【コメント】
「サービスデザイン」という言葉が目に止まりました。
「サービスデザイン」とは、「サービスの開発とは顧客経験をデザインすること」と捉えることだ、と説明されています。
「サービスデザイン」とは、企業が一方的に提供するものではなく、顧客との相互作用のもとで、顧客の価値を共同で創造する、
という点に特徴があると説明されています。
「サービスデザイン」の具体的事例として、「良品計画」が挙げられています。
該当の説明部分を引用します。
>良品計画の製品はそのシンプルさを基調として「余白を残した」ものである。
>その製品の開発に最初から消費者が関わるだけではなく、
>事後的にも消費者が新たにその製品の使用価値を創出し、提案する仕組みとなっている。
>顧客との相互作用が優れたサービス経験を作るだろう。
私はこの説明を読み、あの「リラックマ」を思い浮かべました。
「リラックマ」は、そのシンプルさを基調としてまさに「余白を残した」ものでしょう。
もちろん、この文脈でいう「余白」とは、物理的な余白ではなく、「サービスデザイン」でいう「余白」と同じです。
つまり、消費者が抱くアイデアや想像力に「余白」がある、という意味です。
「リラックマ」は着ぐるみだそうですが、中身は秘密、という設定になっています。
背中にはファスナーまで付いています。
そして、年齢も全く設定されていません。
キティちゃんもそうでしょう。
猫がモチーフなのだけは分かりますが、「リラックマ」同様、絵柄としては極めてシンプルです。
男の子か女の子かも分かりません。
「リラックマ」ってどんな正体なのだろう、キティちゃんってどんな猫なんだろう、と消費者が想像する部分がたくさんあるわけです。
要するに、企業がキャラクターの属性を詳細に決定してしまうのではなく、
キャラクターの設定に消費者が想像を膨らませることができるたくさんの「余白が残っている」わけです。
「リラックマ」の場合は、後に「コリラックマ」が登場するようになったのですが、
「リラックマ」が誕生してから「コリラックマ」が登場するまで、1年近く間が空いているわけです。
この点に関しては、「リラックマ」1人だけですとストーリーが広がりづらいために、
作者が事後的に新しいキャラクターを作り出したということなのか、それとも、
「リラックマ」を考えた時から「コリラックマ」も実は同時に考えていた(はじめから1年後に登場させるつもりだった)のは分かりません。
ただ、製品やサービスに「余白が残ってい」ますと、消費者の創造力の点でも、事後的に新しいアイデアの提案を取り入れる上でも、
製品やサービスの「柔軟性を非常に高く保つ」ことができるという利点があり、
企業が消費者にとっての優れたサービス経験を作り出す上でメリットが大きいのは確かだと思います。
それで、この記事でいうところの「余白を残している」という点に関してですが、話が急に変わるなと思われるかもしれませんが、
「その解釈は読む人が行わなければならない」という点において、
良品計画や「リラックマ」やキティちゃんは、明治三十二年商法に通じるものがあるな、と思いました。
正確に言えば、明治三十二年商法だけではなく、このことは法律全般や会計基準全般に関しても実は当てはまることだと思います。
特に現代では明治三十二年商法の解説書は出版されていませんので、敢えて明治三十二年商法を例に出しただけだと思って下さい。
要するに、法律全般に関しても会計基準全般に関しても、
究極的には、「その解釈は読む人が行わなければならない」わけです。
「その条文はどう意味か?」と。
「その定めは結局のところ、このような意味のことになるのではないか?」と。
「リラックマ」やキティちゃんのように消費者が自由に想像力を膨らませて自由に考えてよいのとは異なりますが、
法律全般に関しても会計基準全般に関しても、定めを解釈するためには実は定めの内容に沿った一定度の想像力が要求されるわけです。
その際、経営や商取引についての理解や会計についての理解が正確であれば正確であるほど、
定めの解釈の正確さも増すことになります。
全法律の中でも、特に商法は条文だけを何百回読んでも理解できるようにはなりません。
経営や商取引や会計といった背景理解・予備知識を踏まえると、「この条文はこういう意味だ」と分かってくるわけです。
そこでは、背景理解・予備知識と同時に一定の想像力が要求されるわけです。
「自分が利害関係者だったらこう考える」というふうに、あたかも自分が利害関係者の一員であるかのように想像してみることが大切なのです。
すると、条文の言いたいことや定めの合理性のようなものが見えてくるわけです。
そこが「サービスデザイン」の「余白を残している」という部分に通じるものがあるなと思ったわけです。
「サービスデザイン」とは異なり、商法の場合は意図的に「余白を残している」わけではないと思います。
第何条から第何条という形で、条文の形で規則を言葉で書いていくと、法律とはあのような形になる、というだけだと思います。
もちろん、法律には、意図や目的があって条文が定められています。
しかし、規則を言葉で書いて法律という形にしなければなりませんから、
条文の1つ1つに対し「この条文はこういう意味ですよ」とは書けないわけです。
せいぜい、別途逐条解説書を出すくらいでしょう。
その分厚い逐条解説書ですら、当該法律の意図や目的の全てをカバーし切れるものではないわけです。
おそらく、逐条解説書を何百回読んでも、商法は理解できるようにはならないでしょう。
商法制度や商法概念を踏まえ、原理原則から考えれば、逐条解説書は読む必要はなく、
逆に、商法制度や商法概念を踏まえることなく、原理原則から考えることをしなければ、逐条解説書を読んでも商法は理解できないのです。
もちろん、先ほども書きましたように、そこでは経営や商取引や会計等の背景理解・予備知識が要求されます。
そして、想像力を働かせて条文を読みますと、「商法はこういうことを意図しているのではないか?」と分かってくるわけです。
おそらく商法としても、「ちゃんと辻褄の合うように定めているのだから、条文の解釈は読み手の方でちゃんとやってくれ。」
というふうに、その解釈そのものは読み手に投げているのだと思います。
「経営や商取引や会計等の背景理解・予備知識がちゃんとあれば、俺が何言いたいかちゃんと分かるはず。」
と商法は言いたいのだと思います。
「条文がきちんと定めてあれば、その条文は結局その意味・その解釈にしかならない」、ということになるわけでして、
冗長な逐条解説は本来はいらない、ということになるのだと思います。
また、現実的にも、経営と商取引と会計等の全てを踏まえた・カバーした解説書など書きようがないわけです。
条文だけで必要十分、分からないなら勉強不足、そう商法は読み手に言いたいのだろうと思います。
このことは、我々現代の後学者の立場からすると、明治三十二年商法は一種の考古学にも近いものがあるわけです。
謎解き、と言ってもいいかもしれません。
明治期の先人達が残した古文書(明治三十二年商法)がある、現代の我々の常識・感覚・とらわれ・思い込みからすると、
「なぜだろう?」と、いまいちよく理解できない部分がある、でも、理解できた時、「なるほど、上手くできているな。」と心から納得する、
「言われてみればそうだな、理論的にはこちらが正しいな。」と商法に関する理解が深まるわけです。
これはまさに謎解きに近いわけです。
そこでもまた、想像力を働かせないといけないわけです。
ここまでくると、明治三十二年商法は、神か何かが残した人類への知的な謎解きの書のようにすら思えてきます。
明治三十二年商法は本当に人間が作ったのかと思います。
商法や複式簿記の仕組みは、少なくとも絶対に自分には作れない(考え付かない)なと思います。
ただ、自分にはとても明治三十二年商法は作れないにしても、「明治三十二年商法の定めはおそらくこうであったであろう」と、
歴史を逆に辿るような形で、推論することはできるわけです。
経営や商取引の知識や理解、そして会計の知識や理解を駆使すれば、「この定めになるのでは?」と辿り着くことができるわけです。
明治三十二年商法自体は図書館で入手することができますが、図書館に行かなくても、
経営や商取引や会計の知識と理解をヒントに考えを深めていけば、明治三十二年商法を推論することができます。
これもまた、明治三十二年商法を舞台にした謎解きの1つだと思います。
A timeline before and after an annual meeting of shareholders in the Meiji
era.
「明治時代における定時株主総会前後のタイムライン」
について考えてみましょう。
現代と明治三十二年で一番大きく異なるのは、配当金と役員報酬の支払うまでのプロセスだと思います。
この点については、2014年12月25日(木)
に書きましたので、この時のコメントを併せて読んでいただければと思います。
2014年12月25日(木)
http://citizen.nobody.jp/html/201412/20141225.html
私なりに推論した「明治時代における定時株主総会前後のタイムライン」はこうです↓。
「私なりの答え」
少しだけこの図について補足をします。
例えば「計算書類の監査」について書いていますが、明治三十二年では委任を受任した業務執行者が計算書類の作成はもちろん、
その正しさについてまで無限責任を負うということではないかと思います(つまり、今でいう監査役自体が会社機関として存在しない)。
ただここでは、その業務執行者は商取引には強いが会計には弱いという設定にし、役場から税務課の人に来てもらって、
事前に会社の利益額や報酬額や配当金額は間違いがないか確認してもらった、という設定にしました。
明治期にそんなこともあったとしたら面白いなと思いました。
それから、株式の譲渡に関してですが、明治三十二年商法を確認したわけではありませんが、
明治三十二年商法でも株式の譲渡はできたであろうと私は思います。
少なくとも、理論的に考えていけば、株式の譲渡はできないとおかしいと思います。
明治三十一年民法では、譲渡できるのは有体物だけであり、債権は譲渡できない、ということだったのだと思いますが、
その考え方からすると、株式も譲渡できない、ということになるわけです。
ただ、私としては、そこに譲渡を可能にするからくりとして「株主総会」があるのではないか、と考えているところです。
「株主総会の構成員が変わるのは構わない」というふうに、一種の商行為の特則を設ける方が株式会社の理念に合致するのではないか、
と思っているのですが、明治三十二年商法ではどうだったからは未確認であります。
また、株式の譲渡価額も資本金額で全く何の問題もないのではないかと思います。
なぜなら、明治三十二年商法そして当時の所得税法を踏まえれば、今でいう貸借対照表の借方には現金しかありませんから、
株式の価額=資本金額であることが明確だからです。
例えば、会社を今すぐ清算するとすると、株主には正確に資本金の価額だけ現金そのものが返ってくるわけです。
明治三十二年商法そして当時の所得税法を踏まえれば、当時株式会社には現金しかないわけです。
明治三十二年商法そして当時の所得税法を踏まえれば、株式の価額は資本金額において現金同等物、
という言い方ができるのではないでしょうか。
ですから私個人としては、資本金額で株式を譲渡することは誰の利益も全く害さないし株式会社の理念にも反さない、と思います。
万が一、明治三十二年商法では株式の譲渡は認められていなかったのだとすると、
明治三十一年民法の考え方を踏襲し、譲渡できるのはあくまで有体物だけである、という点に重点を置いたということかもしれません。
株式に関しても、"Seeing
is
believing."(百聞は一見にしかず)ということでしょうか。
当時の所得税法から見れば、有体物ではない株式は取得の果実が明確ではない、という解釈になるのでしょうか。
ひょっとしたらそうなのかもしれません。
現代商法・現代会計の考え方からまだ脱し切れていないということなのか、今の私にはこれ以上のことは分かりません。
ただ、明治三十二年商法の定めではどうだったのかは分かりませんが、
このたび作成しました「明治時代における定時株主総会前後のタイムライン」では、
仮に明治期に株式の譲渡を行うとすればこのタイミングだなと思いましたので、
役員報酬・配当金の支払いと株主総会開催の間に、「株式の譲渡のタイミング」を敢えて記載しました。
それでは皆さん、よいお年を
「リラックマ 2015 あけましておめでとうございます」