2012年2月14日(火)
日銀が14日の金融政策決定会合で、事実上のインフレ目標の導入と、資産買い入れ基金を10兆円増額する追加金融緩和を決め、
金融市場では決定を好感した円安や株高が進んだ。ただ、基金の増額分は長期国債の購入に充てられるため、
今後は国債の安定消化を日銀に頼る構図が強まる。財政規律が緩んでいると市場が受け止めれば、
長期金利の高騰を招くなどの副作用も予想される。
「デフレ脱却に向けた積極的な措置として歓迎したい」。安住淳財務相は記者団にこう述べ、日銀の決定を評価した。
基金の増額規模は東日本大震災の復興国債発行額にほぼ匹敵し、
市場からは、「実体経済に流れ込むお金の量は少なくない」と歓迎の声が上がる。
日銀は、市場の安定に向け、国債購入を加速させてきた。今月10日現在の保有残高は約83兆4087億円で、
リーマン・ショック直後の平成20年末の63兆1256億円よりも約3割増えた。こうした日銀の姿勢について、
「国債の安定消化に役立っている」(農林中金総合研究所の南武志主任研究員)と市場は評価する。
国債の保有比率は海外投資家が1割未満で、大半が国内勢。銀行が約4割、生命保険や損害保険会社が約2割を占める一方、
日銀も1割程度に達し、「少なくない」(同)。日本の長期金利が1%前後の低水準で推移しているのは、
国債の大半が国内で安定消化されていることが大きい。
今回の基金増額で、日銀の国債保有額は今後も増える見通しだ。社会保障費の膨張を背景に国債発行の増加圧力が続く中、
高齢者の預金取り崩しなどで民間金融機関による国債購入が難しくなるだけに、「日銀頼みはますます強まる」(メガバンク)。
ただ、日銀が国債をむやみに買い増せば、無制限にお金を刷って財政赤字を穴埋めしている印象が強まり、
「日本政府が再建努力を放棄していると市場から受け取られかねない」(同)。
日銀の健全性への信頼が揺らぎ、円の信認が失われる事態も想定される。
海外投資家が国債売りにシフトし、国内投資家も追随すれば、金利上昇につながり、「第二のギリシャ」化の恐れもある。
日銀は国債の買い増しにあたり、白川方明総裁が「財政ファイナンス(財政支援)を目標にしたわけではない」と強調するように、
デフレ脱却が狙いであることを前面に押し出す必要がある。
(産経ニュース 2012.2.14
21:00)
ttp://sankei.jp.msn.com/economy/news/120214/fnc12021421010021-n1.htm
日銀の物価目標導入「政治の圧力に屈した」明治安田生命保険 小玉祐一チーフエコノミスト
明治安田生命保険 小玉祐一チーフエコノミスト
日銀が物価安定の目安について、「中長期的な物価安定のめど」と表現を変更し、「当面は消費者物価の前年比上昇率で1%とする」
としたことは、日銀が目指す物価目標のイメージを強めた形だ。望ましい物価水準を置き、「何が何でもそこに行く」という
教条主義的なインフレ目標ではないが、よりインフレ目標に近づけたといえる。「当面は1%」としたのは1%では低いという
批判への配慮だろう。目標水準を引き上げる可能性に含みを残したが、日本人が物価安定と考える水準は、
欧米よりも低いという日銀の白川方明総裁の主張とも折り合いをつけた決定だ。
追加緩和については、実施自体に意外感があり、10兆円という金額も、一定のサプライズを与えた。
ただ、このタイミングで踏み切る合理的な理由を探すのは難しい。景気は上向く兆しが見え始め、円高圧力も一時に比べて相当和らいでいる。
今回の日銀の決定は、デフレ脱却に向けた積極策を求める政治の圧力に屈したというのが実態とみられる。
日銀の政策運営は「政府の圧力次第」という印象を持たれることは、市場の安定を損なう恐れもある。
(産経ニュース 2012.2.14
21:18)
ttp://sankei.jp.msn.com/economy/news/120214/fnc12021421180023-n1.htm
【コメント】
気にくわんな、の一言です。
基金とか書かれていますが、別に○○基金というものを設立しているわけではありません。
国債は極普通に日銀の貸借対照表にそのまま載っていますが。
資産買い入れ額を10兆円増額してどうするのかと言えば、何のことはありません、発行する国債をそのまま買うだけです。
貨幣価値の低下を招くだけであり、実体経済に流れ込むお金など1円もありません。
中央銀行が国債を引き受けてはならないことは2012年2月7日(火)にも書きました。
2012年2月7日(火)
http://citizen.nobody.jp/html/201202/20120207.html
中央銀行は1円たりとも国債を引き受けていけないのに、今月10日現在で83兆円を超えているそうです。
今回10兆円増額したので、保有残高は93兆円を超えるということです。
日本銀行は、そして日本銀行に国債を引き受けさせようとしている人達は、やってはいけないことをしているという自覚はあるのでしょうか。
「日銀はいくらでも引き受けることができるのか、じゃあいいや。」
そんな気持ちでいるのではないでしょうか。
中央銀行による国債引き受けは必ず国をおかしくします。
デフレで経済が破綻した国は人類の歴史上一例もありませんが、
インフレで国民の生活がボロボロになった例はいくらでもあります。
いくら警鐘を鳴らしても、じゃあ何月何日にインフレが起こるんだ、と言わんばかりです。
自分が困らない限り誰も関心を持とうとしない。
国というのはこうやって少しずつ少しずつおかしくなっていくのでしょうか。
一つは高校時代のことです。
高校時代は男子校で寮生活をしていまして、もちろん誰からもチョコレートをもらうことなどないわけですが、
高校一年生の時、なぜか同じクラス・同じ寮生の中島(仮名)が大きな箱入りのチョコレートを持っていました。
私はびっくりして「それどうしたんだ」、と聞きますと、彼はこう言いました。
「上島(仮名)からもらった。上島の女友達からもらった。前、上島と彼女欲しいとか話していたら、
上島が地元の女友達紹介するよ、と言うから、是非紹介してくれ、と調子のいいこと言っていたら、
上島から彼女からだと言って今日これをもらった。
勉強もあるしその子と付き合うわけにはいかない。これどうしようか。」
と。
中島は、上島が本当に女の子を紹介するとは思わなかったし、その女の子とは一回も会ったこともない、
そしてわざわざチョコレートを遠距離なのに送ってくれるとは思わなかった、
気持ちはうれしいが勉強もあるしその子と付き合うことは全く考えていない、このチョコレートはどうすべきだろうか、
と言いました。
私は少し考えてこう答えました。
「そのチョコレートを受け取るということは彼女と付き合うということだろう。
そうすると、長期休暇中に帰省するたびに当然その子と会うことになるわけだ。
チョコレートだけもらって付き合わないのが一番まずいと思う。
上島には悪いけど、付き合う気がないのなら、そのチョコレートは返すべきだと思う。」
と。
中島は力なく「そうだよな。」と言いました。
中島はその後チョコレートを上島に返しました。
上島としては、わざわざチョコレートを渡したのに返されたのであまり気分のいいものではなかったのだろうとは思いますが、
私のこの時のアドバイスは今でも正しかったと思っています。
もう一つは中学時代のことです。
中学二年生のバレンタインデーの数日後のことでした。
私と下島(仮名:男)が廊下を歩いていると前から島中(仮名:女)が歩いてきました。
島中は下島の顔を見ると少し暗い表情を見せて顔を下にそむけました。
下島と島中に何かあったのかなと思っていましたら、
後になって他の人から聞いたことですが、
下島はバレンタインデーの数日前から島中と付き合い始めて、バレンタインデーにチョコレートをもらって、そのすぐ数日後にふった、
とのことでした。
下島のことは小学校のころから知っていましたが、そのことを知った時は、
男としては汚いところがあるなと思いました。
それから月日は流れ、大学生の時、島中とメールを交換する機会がありました。
中学卒業以来1度も会ったことはなく島中のことは7年ぶりでした。
中学の時の廊下でのことが妙に忘れられなかった私は、B'zの歌詞を引用して島中へのメールにこう書きました。
>うつむくしぐさに孤独の疲れが見えても何もできなかった
と。
別に口説くつもりなど一切ありませんでしたが。
だから何だと言われると困るのですが、どこにでもある田舎の公立中学校でしたが、
思い返してみると勉強面などでは本当に理想的な環境だったのかなと今でも思っていますが、
まあそこは人間社会ですから、恋愛とか男女交際ということに関しては汚い話もそれはそれであったのかなあ、と思っています。
まあ私は勉強一筋でしたけど。
中学時代のことを振り返ってみますと、思い出すことはそれはそれであるのですが、
バレンタインデーだからというわけではありませんが、
友達とか友達の輪といったことを考えてみますと、何を軸に友達ができるのかなあと思うことはあります。
たまたま同じクラスになったから、ということはあるにせよ、振り返ってみますと、
勉強面でのつながりで人と仲良くなる、ということはあるように思います。
日本中どこにでもある普通の田舎の公立中学でしたが、中学一年の時から先生方は「受験受験」言っていました。
小学校までとは異なり、中学に入った途端に、クラスのみんなの話題は勉強とか成績とか高校のことが中心になっていったと思います。
中学に入りますと、クラスの雰囲気も変わってくるわけです。
思い返してみますと、やっぱり成績が良かった奴がみんなから一目置かれていたように思います。
そして、成績の順番は、勉強を頑張っていた順番だったように思います。
勉強を頑張っている人の周りには自然と人が集まりそして見習い、勉強を頑張っていない人からは自然と人が離れていく、
そんな雰囲気だったように思います。
これは中高一貫の進学校での話ではありません。日本中どこにでもある普通の田舎の公立中学校でのことです。
では、友達の輪とは何でしょうか。
結論を先に言えば、友達の輪ってもの自体がそもそもなく、
敢えて言うなら、友達の輪とは勉強を頑張っている人の周りにみんなが集まっている状態のことだ、と言えるかもしれません。
私を知っている人が私をどう見ていたのかは分かりませんが、今までの人生を振り返っても、
「俺は今友達の輪の中にいる」と感じたことは一度もありません。
では嫌われていたのかというと、そりゃ中には私を嫌っていた人もいるでしょうが、
何といいますか、「俺は友達の輪に入っていない」と感じたこともないわけです。
小学校時代を振り返っても、中学時代を振り返っても、高校時代を振り返っても、大学時代を振り返っても、周りから、
私は極端に嫌われていたということもないような気がしますし、極端に好かれていたということもない気がします。
上手く言えませんが、「友達の輪というものはない」のではないでしょうか。
友達の輪というのは、小説や映画やテレビドラマや漫画の世界だけの話だと思います。
友達の輪とは何ですか、と聞かれても、誰も説明できないのではないでしょうか。
敢えて、友達の輪とはこういうことではないかという説明をすれば、次のようなことはありました。
私は中学時代部活をしていませんでした。
クラスのみんなは放課後部活をやっているわけですが、私一人だけいつも早く帰るわけです。
ある土曜日、いつもの通り私一人帰ろうと教室から出ようとした時、何気なく教室を振り返ったのです。
するとクラスのみんなは部活のためにそれぞれのユニフォームに着替えているわけです。
その時私はこう思いました。
「あ、みんな部活のために着替えているんだな、俺だけ早く帰っているな」
と。
私がこの時感じた「みんなは部活を頑張っているな」というふうに感じたことが
実は私にとってそれが友達の輪に見えた、というふうなことかもしれません。
部活を頑張っているクラスのみんなは別に自分たちが友達の輪にいると感じてはいなかったでしょう。
ただ私から見ると、部活を頑張っているクラスのみんなが友達の輪にいるように感じてしまう、
というふうなことなのかもしれません。
実際には友達の輪というのはないのですが、部活をやっていない私から見ると、
クラスのみんなは友達の輪の中にいて、部活をやっていない私は友達の輪にいない、と感じる、といったことはあるのかもしれません。
それが友達の輪の正体ではないでしょうか。
友達の輪とは、具体的な人と人のつながりではなく、周りから見た場合の、雰囲気とか、
今流行りの言葉でいうと「空気」なのではないでしょうか。
友達の輪があるように感じるとすれば、敢えて言うなら、それは、
部活や勉強を頑張っていない人が、頑張っている人達に対してそのように感じているというだけなのではないでしょうか。
頑張っている本人達からすれば、友達の輪のようなことは一切意識していないのだと思います。
結論:「友達の輪とは、『あいつ頑張っているな、よし俺も頑張ろう』という”気持ち”である。」