2018年3月1日(木)
2018年3月1日(木)日本経済新聞
租税回避の批判に備え 三菱ケミHD・資生堂など20社 税務の透明性を明文化
(記事)
2018年3月1日(木)日本経済新聞 大機小機
「行動指針」では企業は変わらない
(記事)
2018年3月1日(木)日本経済新聞
銘柄診断 ヤフー
8ヵ月ぶり安値 米大株主が株売却方針
(記事)
【コメント】
本日2018年3月1日(木)付けの日本経済新聞の記事を3本紹介しているわけですが、
記事を読んでいて、記事の内容にある共通点があるように思いました。
その共通点とは、一言で言えば、「私的な宣誓」ということになると思います。
英語で言えば、"to
swear
privately"(私的に宣誓をすること)になるだろうか、と思いました。
どういうことかと言いますと、各種の法令に規定のある法律行為を行うということではなく、
人が、各種の法令に規定とは無関係に、
企業や個人の名誉・利害などに関係が有ることとして開示すべき内容についてはっきりと断言をする、
という共通点があるなと思ったわけです。
例えば、紹介している1つ目の記事は、税務の透明性を高めることを目的に法人税など納税の基本方針を公表する企業が増えている、
という内容です。
グループ全体の税負担額のうち、日本はいくら、北米はいくら、中国はいくら、といった具合に、
当期に会社が支払った地域別の法人税額を開示する企業が増えているわけです。
さらに、会社が支払った法人税額だけではなく、「税務指針」を明文化し会社の利害関係者に広く開示をする、
という企業が増えていると記事には書かれています。
この背景には、租税回避をしているのではないかという疑いを利害関係者から持たれないようにすることがある、とのことです。
税務コンプライアンスの遵守に力を入れている姿勢を利害関係者にアピールする狙いがあるわけです。
会社が明文化した「税務方針」に、
>「事業を展開する各地域で適切に納税し、過度な節税はしない」
>「租税回避の手段としてタックスヘイブンを悪用しない」
>「法令の趣旨を逸脱した節税はしない」
といった項目を記述し、税務コンプライアンスの遵守を行っていることを宣言する企業が増えている、と記事には書かれています。
「税務方針」を明文化し開示すること自体はもちろん何ら問題のないことであるわけですが、
少なくとも「税務方針」の開示は企業の自主的な取り組みに過ぎないわけです。
私はこのことを「私的な宣誓」だと言っているわけです。
開示されている「税務方針」の書式や内容や分量は企業により様々であるようですが、
同じ税務関連文書でも、「各種の法令に規定のある法律行為」となりますと、
例えば、税務当局に提出した「確定申告書」をそのまま開示する、という開示方法が考えられると思います。
日本の税務当局に提出した「確定申告書」はこれです、北米の税務当局に提出した「確定申告書」はこれです、
中国の税務当局に提出した「確定申告書」はこれです、といった具合に、
「確定申告書」そのものを会社の利害関係者に対し広く開示をする、という開示方法であれば、
税務に関する開示書類の書式・内容・分量は自動的に統一される、と思ったわけです。
「確定申告書」は機密文書でも何でもありません。
「確定申告書」の開示は税務当局から禁止されているなどということは一切ありません。
税務当局から見ても、「あの会社は偽りのない確定申告を行っているんだな。」、と高い評価を受けるだけであるわけです。
「確定申告書」の開示は、記載内容そのものが法人税法の規定に従っているため、極めて客観性や信頼性が高い一方、
「弊社はこのような方針で納税を行っております。」という宣言というのは、約束事としては脆弱であるわけです。
「税務方針」の開示や経営者による宣言というのは、租税回避を未然に防止する抑止力としては一定の効果はあるとは思いますが、
現行制度においては、「私的な宣誓」(企業の自主的な取り組み)に留まるのもまた確かであるわけです。
「税務方針」に反した納税を行わせないためにも、「税務方針」の開示を法制度として義務付けることが求められると思います。
上記の議論と極めて深い関連のあることなのですが、紹介している2つ目の記事も同じようなことが書かれていると思います。
「行動指針」では企業は変わらない、と記事には書かれていますが、
これはまさに、「私的な宣誓」では約束事としては脆弱である、という意味だと思います。
身も蓋もない言い方をしますと、人というのは、
「法律でそう決まっているから仕方なく従う。」というところがあると思います。
この世に法律がある理由は、人の倫理観など信頼していないからなのだと思います。
「人々の意識」などというものは信頼してはならないのです。
経営者の倫理観では、企業の経営行動に社会性を持たせることは不可能なのです。
結局のところ、企業が守るべき約束事を「私的な宣誓」に依存することは間違いなのです。
企業が守るべき約束事については、「各種の法令に規定のある法律行為」として企業に行わせるべきなのです。
それが法律というものでしょう。
人生論や社会論のようになりますが、法律があるから人に倫理観が生まれる、ということも現実にはあるわけです。
法律や社会制度がなければ倫理観の生まれようがない(絶対的な倫理や正義は自然発生はしない)、というふうにすら思います。
一言で言えば、「私的な宣誓」では実効力が弱いと思います。
実効力という観点から言えば、「各種の法令に規定のある法律行為」であることが求められると思います。
経営者の企業経営に格調の高さなど求める必要はないわけです。
経営者が法令を順守しさえすれば、少なくとも利害関係者の利益は保護される、
という枠組み・仕組み・法制度が社会には求められるわけです。
性悪説に立てば、人と人(もしくは人と社会)との間の約束事というのは、法律があるから守られる、
というのもまた事実なのではないかと思います。
そして、紹介している3つ目の記事にも、次のように「人と人との間の約束事」が書かれています。
>ソフトバンクはアルタバと株の売却時には事前に交渉する契約を結んでいるとされる。
ソフトバンクとアルタバとの間のこの約束も、「私的な宣誓」であるわけです。
アルタバはソフトバンクに対し、「私が所有するヤフー株式を誰かに売却する時は、事前にあなたに相談します。」、
と「私的な宣誓」を行っているわけです。
しかし、仮にこの約束が守られなかったとしても、ソフトバンクに対しては何らの手当てもないわけです。
結局のところ、ソフトバンクが仮に約束が守られなかった場合に何らかの救済措置を求めたいのであれば、
始めからその約束事を何らかの「各種の法令に規定のある法律行為」という形にはめ込むしかないわけです。
民法の社会的位置付けには様々な観点・解釈があろうかと思いますが、
法理論的には、民法は取引の類型を定義するもの、という捉え方がある一方、
より実務的には、民法は裁判の際の判断の規範(裁判上の判断根拠、裁判の規範)である、という捉え方があるわけです。
すなわち、約束が守られなかった場合に裁判による救済を求めたいのであれば、民法の規定に従った取引のみを行うようにする、
ということが社会的に求められるわけです(法律に従って裁判が行われるから)。
「何かを行う時には事前に相談をする」という類型の取引は民法に定義されていません(その行為の規定がありません)ので、
アルタバが約束を守らなかった時にソフトバンクが訴えてやると言ってもどうにもならないわけです。
性悪説に立てば、「私的な宣誓」はどこまでいっても脆弱なままなのです。
お互いに約束を守ることの証として、始めから約束事を「各種の法令に規定のある法律行為」として行っていくことが必要なのです。
このことは、企業経営でも人間関係でも全く同じです(現実には、「何が正しいのか」を法律が決めている側面があるわけです)。
一般に、「社会的行為」とされることの背景には法律がある、と考えればよいと思います(だから法律は大切だ、と)。