2017年6月21日(水)



2017年6月21日(水)日本経済新聞
個人、存在感また低下 昨年度株主分布 最低17.1%、裾野広がらず
外国人投資家 3割に再上昇 米大統領後に買い
信託銀、「受け皿」に 2割迫る
(記事)




2017年6月21日(水)日本経済新聞 大機小機
株式持ち合いと企業統治
(記事)


 


【コメント】
記事を読んで気になった点について何点かコメントします。
株式分布状況調査に関する記事についてですが、
2016年度の日本株の個人の保有比率(金額ベース)が減少し過去最低を更新したことなどに関連し、記事には、

>個人投資家の保有金額は3月末時点で99兆4667億円だった。
>前年度に比べ9.6%増にとどまり、16年度の日本株全体の株価上昇率(約12%)を下回る。

と書かれています。
この記述を読んでまず思ったのは、保有金額の増加率と株価上昇率とは関係がないのではないか、という点です。
例えば、極端な話をしますと、2016年度には個人投資家全員が1株も株式を取引しなかったとしましょう。
この時、前年度に比べ個人投資家の保有金額に変動は一切ないわけです(すなわち保有金額の増加率0%)。
一方、株価は、外国人投資家や機関投資家や信託銀行等による取引の結果、変動するわけです。
簡単に言えば、保有金額は増加しないが株価は上昇する、ということは全く考えられるわけです。
記事には、引用した記述の原因として、

>新規株式公開(IPO)銘柄などの新たな購入額に比べ、保有株の売却額が多かったためとみられる。

と書かれていますが、保有金額の増加率と株価上昇率とは全く関係がない、と最初思いました。
ただ、改めてこの点について考えてみますと、
たとえ2016年度には個人投資家全員が1株も株式を取引しなかったとしても、個人投資家の保有金額が変動する、
ということは統計の取り方次第ではあり得るのかもしれない、と思いました。
すなわち、個人投資家の保有金額を時価評価するとすると、
日本株全体の株価上昇に伴い個人投資家の保有金額も増加する、という統計結果になるな、と思いました。
記事全体を読むと、記事の統計(東京証券取引所などの調査)では、
個人投資家の保有金額を時価評価して考えているように思います。
少なくともそう考えると記事が何を言おうとしているのか意味が分かるように思います。

 



しかし、保有比率に時価評価という考え方はないように、保有金額にも時価評価という考え方はないのではないでしょうか。
保有金額という時は、時価ではなく取得価額のことを指すのではないでしょうか。
もしくは、有価証券の場合は、その中でも特に株式の場合は、保有している状態を金額では表現しないものなのかもしれません。
有価証券の中でも、国債や社債といった債券に関しては、保有している状態を金額で表現できると思います。
なぜなら、債券は有価証券の分類としては「債権」だからです。
以前、"Receivables are cash."(債権とは現金である。)と書きましたが、債券の場合は額面金額が現金額を表します。
したがって、国債や社債といった債券に関しては、保有している状態を金額で表現することは理に適うと言いますか、
むしろ、国債や社債といった債券に関しては、保有している状態を金額で表現するべきだ(金額そのものに意味があるから)、
と思います。
しかし、有価証券の中でも、株式に関しては、保有している状態を金額では表現しないと言っていいと思います。
なぜなら、株式に関しては、「保有の状態」という意味では、金額には意味がないからです。
株式の保有状態に関しては、持株比率は何パーセントと表現したり、少なくとも○○株保有している、と表現するわけです。
現金支出や譲渡という意味では、株式をいくらで買った(取得原価はいくらである)と表現することに意味がある場合はありますが、
「保有の状態」という意味では、株式を金額で表現することはしないのです。
その理由は、債券そして債権とは正反対に、株式については取得価額や額面金額には意味は全くないからです。
株式の取得価額には意味はありません(せいぜい、譲渡時に取得価額が税法上損金となるだけ)し、
額面金額に至っては、始めから意味は全くありません(取得価額も額面金額とは異なることが前提と言ってよい)。
さらにその理由を書けば、株式というのは会社に対する権利を表象するものという意味しかなく、
債権とは異なり、金銭的な請求権を表しているわけではない(具体的に特定の金額を請求できる権利があるわけではない)からです。
平時の配当金額も会社清算時の分配される残余財産の金額(残余財産分配請求権はありはするが金額は本質的に全く未確定)も、
全く決まってはおらず、それらは会社経営の結果により(業績次第で)決まるもの、という本質的特徴が株式にはあるわけです。
その意味において、"Shares are never cash."(株式は全く現金ではない。)と表現できるでしょう。
国債を「私は何口保有しています。」とは表現しないように、株式を「私は何円分保有しています。」とは表現しないわけです。
国債は「私は国債を何円分保有しています。」と表現するに、
株式は「私は株式を何パーセント保有しています。」と表現するのです。
以上のような「株式の保有を金額で表現することはしない。」という問題がありますので、
記事を読んでいて、論理的におかしな感じがするな、どこか意味が通じにくいな、と私は感じたのだと思います。
東京証券取引所などの調査では、統計上「個人投資家の保有金額」を算出するに際しては、
個人投資家1人1人の各保有銘柄について、各保有株式数に3月末時点の各企業株価を掛け算し、そして全保有銘柄を総計することで、
「個人投資家の保有金額」を算出したのではないかと思います。
しかし、株式というのは、「保有比率」でしか表現できないものだと思います。
統計上、仮に株式について金額で表現するとするならば、取得価額(の総計)という捉え方はできるとは思います。
少なくとも、保有金額を3月末の株価で再計算する、ということには全く意味はないと思います。
なぜなら、そのような取引は実際には行われていない(統計が表すような3月末に株式を取引した株主は実際にはいない)からです。
保有債券は金額で表現できます。
なぜなら、債券の額面金額はそのまま現金額を表すからです。
しかし、株式の場合は、会社に対する権利を表象しているもの過ぎないため、本質的に金額では表現できないのです。
株式は、「保有比率」でしか表現できないのです。

 



次に、株式持ち合いに関する記事についてです。
株式の持ち合いにはかつて合理性があった、ということに関連して、

>企業の多くは、株式持ち合いと引き換えに相手方から取引上の便宜が得られることを政策保有の経済合理性と考えているようだが、
>それ自体が市場競争のフェアネスの精神を逸脱した不適切な考え方というべきだ。

と書かれています。
株式の持ち合いは、会計上(資本会計上)も問題があるとされているわけですが、
改めて考えてみますと、商取引上は経済合理性がある(相手方から便益を得られる)
という考え方は間違っていないように思いました。
企業は、自社の利益を最大化させることに力を注ぐべきなのです(受任者である取締役もその旨受託者責任を負っているはずです)。
企業は何も市場で競争する必要は全くないのです。
競合他社が自社の土俵(属している商取引分野)に参入してくるから、そこで市場が成立してしまい、
市場競争を強いられてしまうというだけなのです。
企業にとって、独占の状態が一番良いと言ってしまえば独占が一番良い状態なのです。
もちろんこれは独占禁止法や消費者保護法とは全く別の範疇の議論になるわけですが、
少なくとも「企業はいかにして自社の利益を最大化させるか?」という議論においては、独占が最善の解なのです。
逆に、完全競争状態が企業にとっては最悪の状態なのです。
「市場での取引がフェアだ」というのは、上場株式の取引であったり消費者の商品購入に関してはそのような取引が望まれる、
という意味であって、一商人の商取引という観点から言えば、
自社の利益を最大化できる機会・方法があるのなら最大限その機会・方法を活用していくべきだ、という結論になるわけです。
ですので、株式の持ち合いが自社の利益に資する(そうした方がより多くの利益を獲得できる)と判断できるのであれば、
株式の持ち合いを行うべきだ、という結論に商取引上・経営上はなると思います。
株式の持ち合いを行ったことによる利益の増加額というのは現実には算定は難しいとは思いますが、
株式の持ち合いを行った結果、相手方と新たな商取引を開始することができ、自社の利益が増加する、
という場面であれば、商取引上・経営上は株式の持ち合いを行うべき、という判断になると思います。
自社の利益を増加させるために株式の持合を行うことは、アンフェアだということは全くないのです。
それは独占禁止法などの観点から見た場合の話であって、企業経営上はフェアであると考えるべきでしょう。
例えば、「弊社の株式を一定数保有していただければ、弊社の商品を御社にだけ独占的に卸します。」
という商談を持ちかけられた場合、その商品が有望だと判断できれば、その株式を取得・保有するべきでしょう。
このような商取引は、消費者から見るとあるいはフェアではないかもしれませんが、
企業経営としてはむしろ自社の利益の最大化のためには行うべき商取引だと言わねばならないのです。
したがって、株式の持合をやめるか否かは純粋に経営戦略から決まる話であって、
コーポレート・ガバナンスの議論から決まる話ではないわけです。
「餅は餅屋」と言いますが、企業経営(自社の利益の最大化)は企業(受託者責任を負っている取締役)が専門に行うべきなのです。
消費者の利益のようなことは、公正取引委員会などが別の「餅屋」としてフェアネスさを追求するようにすればそれでよいわけです。
昨今の証券市場における一連の自主規制は、本分とは異なることを企業や株主に要請している、
すなわち、例えば企業は消費者の利益について考える必要は全くない(消費者の利益を考えるべきなのは公正取引委員会等だ)、
ということではないかと思いました。