2017年3月5日(日)
2017年3月1日(水)日本経済新聞 大機小機
頑張れ! マスメディア
(記事)
@会社が行う法定開示情報
A会社以外の人が発信する情報(報道機関による報道や証券会社等の分析レポートや会計・財務に詳しい友人からの助言などなど)
の2つの情報を基に投資判断を行っていくわけですが、
まず証券市場(証券制度)の前提として「@会社が行う法定開示情報」は当然に全て真実と投資家は考えて差し支えありません。
しかし、もう一方(「A」)の情報については、その真偽や正確性を判断するのは投資家の役割、ということになります。
この理由は、証券取引所としては「@会社が行う法定開示情報」の真実性さえ保証すれば投資判断は可能と考えているからである、
という法理的理由(法定開示情報により十分な情報は開示されており投資家は十分な投資判断が可能という法理的理由)と、
もう一方(「A」)の情報については証券取引所はとても真実性を保証できない、という現実的理由の2つがあると思います。
投資判断と呼ばれるものは全て自己責任であると言えるのですが、
もう一方(「A」)の情報がたとえ間違っているとしても証券市場の法理上はそれは投資家の自己責任ということになるわけです。
しかし、「@会社が行う法定開示情報」が間違っている場合は、今も昔(法理上)も、投資家の自己責任では全くありません。
これは当時の時代背景・社会風潮・政治体制などを鑑みないといけないことなのでしょうが、
元来の証券市場・証券制度が構築された時に、いわゆる民主主義の基本理念(言論や出版そして報道の自由の保障)も
制度構築上考慮に入れられたのだろうと思います(つまり、真偽不明の種々雑多な情報が社会にはあふれているという前提を置いた)。
法理的には、証券取引所としては、保証できる正確な(真実の)情報は「@会社が行う法定開示情報」だけだ、という考えの下、
株式市場・証券制度は運用されているのです。
Who commits "dissemination of unfounded rumors?"
「風説の流布」の罪を犯すのは誰ですか?
This is merely my personal reasoned deduction,
but it is not securities
companies nor investors nor the press nor drinking companions but a company
itself
that used to be the very man who commits "dissemination of unfounded
rumors."
これは私個人の理詰めによる推論に過ぎなのですが、
「風説の流布」の罪を犯すのは、証券会社や投資家や報道機関や飲み仲間ではなくかつてはまさに会社自身であったのです。
Roughly speaking, anyone exept a company may have a chat or make a joke or
tell a lie about the company,
but a company itself is never permittted to
dispatch anything indefinite about itself.
乱暴に言えば、会社以外の人であれば誰でも会社について雑談をしたり冗談を言ったり嘘を言ったりしても差し支えないのですが、
会社だけは自社に関する不確定の事柄を発信することは一切認められないのです。
I have no idea how the truth of the press is taught in Harvard Kennedy
School,
but the truth of the press is not guaranteed in the theory of the
stock market.
ハーバード・ケネディスクールでは報道の真実性についてどう教えているかは分かりませんが、
株式市場の理論的には報道の真実性は保証されてはいないのです。
Perhaps, not-truth-backed articles as well as a "report on recommendation of
selling"
can be regarded as a "necessary evil."
あるいは、飛ばし記事も「売り推奨レポート」同様、「必要悪」と言えるのかもしれません。
In almost all cases, a court has judged not straight on a provision but inevitably around the privision.
ほとんど全ての判例において、裁判所は、
条文そのままに関し判決を下すのではなく、必然的に条文の周辺で判決を下しているのです。