2017年1月25日(水)


2017年1月25日(水)日本経済新聞 大機小機
法は企業実務に優しいか
(記事)

 

 



【コメント】
諸外国の会社法に比べ、日本の会社法は任意規定や定款自治の部分が多過ぎる、という趣旨の記事になります。
記事では、会社が自分で選んで決める余地が多い(日本の会社法には極めて多くの選択肢がある、と)と指摘し、
この状況を”ルールのバイキング”と揶揄しています。
会社の組織形態や株式の取り扱いなどについて、いくつかの選択肢の中から会社が任意に選んでよいとなりますと、
会社の自由度が増し、社会にはバラエティに富んだ会社が存在することになります。
一方で、そもそも法律というのは、適用を受ける人にとって「共通のルール」でもあるわけです。
どんなに選択肢の数が多くとも、万人に「共通の選択肢」を与えればそれはそれでフェアだ、という考え方もあるとは思います。
しかし、少なくとも、ある選択肢を選択した方が別の選択肢を選択するよりも法的に有利だ、
という状態が発生することだけは法制度として避けなければならないでしょう。
会社機関の設計程度であれば、会社法の中からどの選択肢を選択してもその意味における差異はないと思います。
いや、それでも細かいことを言えば、やはりこういう時は性悪説に立って考えなければならないと思いますが、例えば、
「業務執行者が会社にある金額の損害を与えた場合、(業務執行者もしくは経営監視者により)会社に対して賠償される金額が、
会社が監査役設置会社であった場合と委員会設置会社であった場合とで異なる。」、
というような事態は生じてはならないと言えるでしょう。
さらに言えば、「業務執行者が会社に与えたとされる損害額が、会社機関の設計の選択次第で異なる。」
というような事態も生じてはならないと言えるでしょう。
旧商法では、業務を執行するのは代表取締役だけであったのに対し、現行の会社法では、業務を執行するのは取締役とされています。
委員会設置会社になりますと、業務を執行するのは執行役であるわけですが、
では執行役が会社に損害を与えた場合、取締役はその損害について何らかの責任を負うのか、という議論も生じると思います。
結局、会社機関の設計が、よく言えば多岐に渡る、悪く言えば複雑になる、となりますと、神のみぞ知る真の損害額は同じでも、
損害額の算定や損害賠償責任を負うべき者の範囲がその設計によって変動する、ということになるわけです。
さらに言えば、意思決定機関と業務執行者の分離もまた話を複雑にするでしょう。
極論すれば、業務の執行に関しては、1人の者が意思決定しその人が執行する、ということであるならば、
全責任はその者が負う、で全ての説明が付くわけです。
そもそも会社機関は複雑にしない方がよい、という議論もあるでしょうし、
たとえ一定度の複雑さを持った会社機関を法制度として構築するにしても、会社による選択はできないようするべきだ、
という議論はやはりあると思います(損害賠償額の算定プロセスと損害賠償責任を負うべき者の範囲を共通にするため)。
もしくは、その会社機関設計を選択したのは会社自身(究極的には株主)なのだから、
たとえ会社に対して賠償される金額が他の会社機関設計を選択した場合よりも少なくなっても、それは会社の自己責任だ、
万一の際は損害賠償額が少なくなるリスクを背負って(そのリスクを分かった上で)その会社機関設計を自分で選択したのだから、
という考え方も一方にはあるのかもしれません。
ただ、「ルールは共通だ。」とは、この文脈では、事象が同じなら「損害賠償額は同じだ。」という意味ではないでしょうか。
絶対的な答えはない議論になるかとは思いますが、何事でもそうだとは思いますが、
選択肢がありますと、現実には、「他の選択をしていれば。」(例:「損害賠償額はもっと多かったはずだ。」)
と後で思うことが起こり得ますので、「選択肢はなくルールは共通である(ルールは一意に決まる)。」、
という法制度に越したことはないとやはり思いました。

 


それで、会社機関設計の選択の話が長くなってしまったのですが、最初に次のよう書いたかと思います。

>会社機関の設計程度であれば、会社法の中からどの選択肢を選択してもその意味における差異はないと思います。

私がこの文を書いた時に頭にあったのは、会社にはもっと大きな差異がが生じることがあるなと思ったからです。
それは、一言で言えば、自社株買いです。
現行の会社法上、会社は自己株式の取得ができるわけですが、
会社は自己株式の取得をしてもいいわけですし自己株式の取得をしなくてもよいわけです。
このことは当然、自己株式の取得を行う会社もあれば自己株式の取得を行わない会社もある、という状況を生み出すでしょう。
そうするとどうなるのかと言えば、「会社によって剰余金の分配方法が異なる。」という事態を引き起こすわけです。
単純に考えて、剰余金の分配方法は会社によって同じでなければならないでしょう。
会社には配当の支払いのみが許されるのであれば、当然に剰余金の分配方法はどの会社でも同じです。
しかし、会社は自己株式の取得ができる、となりますと、
異なる剰余金の分配方法を行う会社が存在する、ということを意味するでしょう。
他の言い方をすれば、これは一部の株主にだけ剰余金を分配することが可能であるということです。
つまり、自己株式の取得を認める結果、会社の基本部分について会社間で差異が生じてしまっている、と私には感じるわけです。
さすがに剰余金の分配方法くらいは全会社で共通でなければならない、と私は思うわけです。
剰余金の分配方法すら異なるとなりますと、それはもはや会社制度そのものが異なる、と私は感じるわけです。
利益計算システムからして異なるように感じる、と言えばいいでしょうか。
監査役設置会社か委員会設置会社かどちらかを選択せよ(一方を選ぶならもう一方は選択できない)、ならまだいいのですが、
会社法が自己株式の取得を認めるというのは、あたかも両方の選択肢を選ぶことができる、かのように私は感じるわけです。
会社は、ある時はその選択肢を選択し(すなわち、自己株式の取得を行い)、
またある時はその選択肢を選択しない(すなわち、自己株式の取得を行わない)、ということであるわけですから。
もしくは、自己株式の取得を一切行わない会社にとっては、そもそもその選択肢を選択しない、という意味であるわけですから、
”監査役設置会社か委員会設置会社かどちらかを選択せよ”とは「選択」の意味が異なると私は思うわけです。
法律として、選択してもよいし選択しなくてもよいという選択肢というのはあってはならないのではないでしょうか。

 



剰余金の分配というのは、本当に会社の基本メカニズムの部分だと思いますので、
そこに選択肢があるというのはおかしいと思うわけです。
剰余金の分配方法を会社が選択できるというのは、「株主が出資をする。」ということ(基本概念)に反するように思うわけです。
例えば、「会社は配当を支払うことができる。」と言うでしょうか。
例えば、良い悪いは別にして、現行の民法には「配偶者」という用語の定義はなされていません。
民法の条文に「配偶者」という文言は出てきますが、「配偶者とは誰か?」は民法では定義されていないのです。
「配偶者とは誰か?」は、民法では一般常識として使われているようです(国語辞書などで調べれば分かることとしている)。
「配当」も結局のところそれと同じで、「配当とは何か?」については会社法では定義していないと思います。
「配当とは何か?」は、会社法では一般常識として使われているようです(国語辞書などで調べれば分かることとしている)。
他の言い方をすると、会社が配当を支払うことは、会社制度における大前提のことである、と言えると思います。
現行の会社法の条文について正確なところを言いますと、
実は会社法では「会社は配当を支払うことができる。」と定められています↓。

>(株主に対する剰余金の配当)
>第四百五十三条  株式会社は、その株主(当該株式会社を除く。)に対し、剰余金の配当をすることができる。

しかし、立法論(条文の定め方)になりますが、
会社法では「会社は配当を支払う。」と定めるべきなのではないかと思います。
「会社がすることができる内容」を定めるのが会社法でしょう。
会社法では、「会社は配当を支払う。」と定めた上で、そのための法的要件を定めるようにするべきなのではないかと思います。
例えば、会社法に、「会社は資本の払い戻しはしてはならない。」と定めてあるでしょうか。
会社法では、会社ができることを定めています。
会社法に定めがないことは、会社は当然にできない、と解釈しなければならないのです。
会社法にできないと書かれていないので、会社はしてもよいのだろう・会社はできるのだろう、と解釈するのは間違いなのです。
会社法に、「会社は何々をする。」と書かれていれば、それは法の解釈として、「会社は何々をできる。」、という意味なのです。
会社法では、会社がすること・会社ができること(会社の枠組み)を定義しているわけですから、
会社法で「会社は何々をできる。」と定める必要はないわけです。
刑法は、「人がしてはならないこと」を罰則という形で定めているわけですが、
会社法は、「会社がしてよいこと」を「会社は何々をする」や「会社における何々はこうだ」という形で定めているわけです。
会社法では、「できる」ことを「する」と定めるわけです。
刑法では、人を殺したら死刑だと定められています。
刑法では、人を殺してはならない、とは定められていません。
しかし、「人を殺してはならない。」という定められ方をしていないからといって、人を殺してもよい、と解釈することは、
法の解釈として間違いですし、また、それは刑法の趣旨にも反することでしょう。
刑法は、あくまで「人を殺してはならない。」という意味で「人を殺したら死刑だ」と定めているわけです。
刑法は、「人を殺してもよい。」という意味で「人を殺したら死刑だ」と定めているわけでは決してないわけです。

 


会社法における法の解釈も同じではないでしょうか。
また、他の法律でも同じではないでしょうか。
民法に、「人は結婚ができる。」と定めてあるでしょうか。
民法には、「人は結婚をする。」と定めてあるのではないでしょうか。
そして、結婚をするためには、男は18歳、女は16歳、が要件だ、と定められているのではないでしょうか。
他には、民法には、「人は目的物の売買をすることができる。」、とは定められていません。
民法には、「売買とはこうだ。」と定められているだけでしょう。
民法では、「人は何々をできる。」とは定めないわけです。
民法では、「人は何々をする。」や「何々はこうだ。」と定めるわけです。
民法に「人は何々をする。」と定められていれば、それは当然に、法の解釈として「人は何々をできる。」という意味なのです。
民法に「人はAという行為をすることはできない。」と定められていないからといって、
「人はAという行為をしてもよい・することができる」という意味では決してないのです。
民法に定められていない行為は、人は当然に「できない」と解釈しなければならないのです。
それが法の解釈というものです。
刑法は行為の「禁止」を目的にしています。
ですので、行為に対する「罰則」を定めるわけです。
逆に、民法と会社法は、行為の「可能性」を明らかにすることを目的にしています。
ですので、「行為」そのものを定めるわけです。
民法と会社法は、「できること」を定めているわけですから、条文に「何々はできる。」とは書かないわけです。
民法の条文の定め方と会社法の条文の定め方は同じでなければならないのです。
ついでに書きますと、所得税法や法人税法も、「人は税を納付する。」と条文では定めるべきなのでしょう。
税を納付しなくてよいわけがありませんので、「人は税を納付しなければならない。」とは条文では定めないわけです。
「人は税を納付する。」、こう定めるだけで、当然に「人は税を納付しなければならない。」という意味になるのです。
実務上、納税の強制力を持たせたい場合は、「税を納付しない場合はマルサが行く。」、と条文で定めればそれでよいわけです。
所得税法や法人税法は「納税」を目的にしていますので、「所得」について定めているわけです。
一言で言えば、条文解釈の上では、法律の「目的」を前提に条文を読まなければならないわけです。
法律の「目的」を踏まれば、当然にこの意味になる、という関係・流れが大切であるわけです。
例えば現行の会社法の条文の定め方では、あたかも条文が逐条解説であるかのようになっている部分があるのだと思います。
会社法では、「できる。」ではなく「する。」と定めればよいのです。
それで、話が立法論にまで脱線してしまったのですが、
私が今日の議論で言いたいのは「会社が剰余金の分配方法を選択できる。」というのはおかしいということです。
「会社毎に剰余金の分配方法が異なる。」というのは、それはもはや別の会社機構だ、と私は思うからです。
法制度として、会社に選択を認めてよい部分と認めてはならない部分とがある、と私は思います。

 


それから、記事には、会社に区分を設け、「上場会社法」を示してはどうか、という趣旨のことが書かれています。
実務上は、「情報開示」という点において、非上場企業と上場企業とは根本的に異なる、と言えるでしょう。
記事にも書かれていますが、非上場企業と上場企業とでは適用される法律や規則がまるで異なってくるわけです。
それで私も、それならばいっそのこと「上場会社法」というものを整備してはどうだろうか、と考えたことがあります。
ただ、株式会社の原理としては、非上場企業と上場企業との間に一切の違いはありません。
むしろ、株式会社の原理としては、非上場企業がそのまま上場企業になるわけです。
上場を果たしても、会社組織が変わるわけではなのです。
非上場企業が上場企業になったところで、変わるのは「株式の取り扱い」だけです。
理論的には、非上場企業と上場企業とで異なるのは、「株式の取り扱い」の一点だけなのです。
そうしますと、「非上場企業が上場企業になる。」という点を鑑みますと、
非上場企業には株式会社法を適用し、上場企業には上場会社法を適用する、ということが言わば原理的に不可能であるわけです。
なぜなら、原理的には、上場企業は非上場企業だからです。
ですので、結局のところ、上場企業については、「株式の取り扱い」に関してだけ、特別な法律を別途適用する、
という形でしか、整合性を保てないと思うのです。
「株式の取り扱い」に関して、とは、この場合、「情報開示」に関して、という意味です。
金融商品取引法は別名、「ディスクロージャーの法」ではなかったかと思います。
非上場企業と比較すると、上場企業には「ディスクロージャーの法」を適用することが必要十分なのだと思います。
会社法と金融商品取引法の整合性については常に議論になるところではあるのでしょうが、
「上場企業だけにできる会社法」というのは、株式会社の原理を鑑みれば、理論的には観念できません(原理は同じだから)ので、
「上場会社法」というのは理論的には整備できないものである、と考えなければならないでしょう。
上場企業に関しては、やはり会社法と金融商品取引法の二段重ねで運用していく他ない、と思います。
実務上は非上場企業と上場企業は全く違うと言っていいのだから、いっそのこと「上場会社法」を整備するのもよいのではないか、
と私はかつて考えたこともあるのですが、株式会社の原理にまで遡り理詰めで考えていくと、
上場企業に関しては会社法と金融商品取引法の二段重ねで運用する、
という考え方がやはり理論的には正しいという結論に今では至っています。