2015年10月4日(日)



2015年10月3日(土)日本経済新聞
積水ハウス、豪で6200戸開発 2400億円 海外投資主体に 大和ハウス、1000億円に倍増
(記事)





2015年10月3日(土)日本経済新聞
■GIC(シンガポールの政府系投資会社) 米のモール5軒に出資
■サムソナイト・インターナショナル(香港上場の旅行用かばん世界最大手) 伊ファッション店を買収
(記事)

 

 


GIC、米のモール5軒に出資

 ■GIC(シンガポールの政府系投資会社) 米カリフォルニア州やオレゴン州などのショッピングモール5軒に出資する。
それぞれのモールの40%を米不動産投資信託(REIT)のメイスリッチから取得する。
 メイスリッチの所有するモールは富裕層の多い地域にあることで知られる。
今回GICが出資を決めたのはカリフォルニア、オレゴンに加え、テキサス、アリゾナの物件。
GICの米国不動産投資を率いるリー・コクスン氏は「高品質の物件で安定収入が見込める」と述べた。
 メイスリッチは計8軒の商業施設の一部を売却して総額23億ドル(約2700億円)を調達、債務削減などにつなげる計画。
残りの3軒の49%は米REITのハイトマンに売却する。
 GICは投資先多角化の一環で、世界各地で不動産投資を加速している。
商業施設では7月にブラジル・リオデジャネイロのモールに出資したほか、
5月にはカナダ年金投資委員会と組んで韓国・ソウルのモールを買収した。
(日本経済新聞 2015/10/2 23:41)
ttp://www.nikkei.com/article/DGXLZO92404580S5A001C1FFE000/

 


サムソナイト、伊ファッション店買収

 ■サムソナイト・インターナショナル(香港上場の旅行用かばん世界最大手)
 イタリアのファッションショップ、シック・アクセントを買収したと発表した。
買収額は850万ユーロ(約11億円)。事業の裾野を広げる狙い。
 シック・アクセントは旅行用かばんのほか女性用ハンドバッグ、アクセサリー、ビジネス用品を扱い、
高級ショッピングモールを中心に31店舗を展開している。2014年12月期の売上高は1520万ユーロと前期比10%増えた。
 サムソナイトは2月、世界各国の空港で旅行用品販売店を展開する英ローリング・ラゲッジを傘下に収めるなど、
小売り分野で買収を進めている。ラメッシュ・タインワラ最高経営責任者(CEO)は
「シック・アクセントの知名度をいかし、旅行用品以外の分野で存在感を高めたい」とコメントした。
(日本経済新聞 2015/10/2 23:44)
ttp://www.nikkei.com/article/DGXLZO92404620S5A001C1FFE000/

 

 


【コメント】
積水ハウス株式会社、シンガポールのGIC社、アメリカのサムソナイト・インターナショナル社の3つの記事を紹介しました。
積水ハウス株式会社は、オーストラリアで住宅販売を行う計画です。
シンガポールのGIC社は、米カリフォルニア州などのショッピングモール5軒に”出資”をする計画です。
アメリカのサムソナイト・インターナショナル社は、
イタリアのファッションショップを買収した(株式を取得したということだと思います)、とのことです。
これら3社に共通してるのは、用途はそれぞれ異なるものの「建物」を経営上保有することになる、ということになろうかと思います。
ただ、3社とも、海外の建物を保有することになります。
法理的には、現地の人でなければ、現地の建物を取得・所有できません。
なぜなら、現地の人でなければ、有形無形問わず現地のものに対する所有権を持てないからです。
これらの記事では建物が目的物ですが、現地の人でなければ、現地で保有している建物の不動産登記もできません。
したがって、積水ハウス株式会社であれば、オーストラリア現地法人を設立し、
建物(会社から見れば棚卸資産)の販売が実現するまでは、
積水ハウス株式会社のオーストラリア現地法人がその建物の法律上の所有権者にならなければならないわけです。
積水ハウス株式会社の本社(当然日本ですが)からすると、
経営上(例えば連結会計上)は確かにオーストラリアに販売する建物を保有しているわけですが、
より法律的な観点(主に個別上)から言えば、積水ハウス株式会社の本社(当然日本ですが)は実は「株式」しか保有してないわけです。
このことは、他の言い方をすると、積水ハウス株式会社はオーストラリアの会社に”出資”をする、という言い方ができるわけです。
もちろん、”出資”とは言っても、この場合は、
積水ハウス株式会社自身が新規にオーストラリア現地法人(現地完全子会社)を設立する形です。
出資と聞くと、何となく既存の会社に自社も出資をするというイメージがあるわけですが、
会社を新規に設立する場合でも、出資と呼ぶことは何ら間違っていないでしょう。
いずれにせよ、積水ハウス株式会社が経営上保有するのは建物でも、法律上保有するのはこの場合「株式」であるわけです。
以上の議論が、結局のところ、シンガポールのGIC社とアメリカのサムソナイト・インターナショナル社にも当てはまると思います。
シンガポールのGIC社の場合は、記事にはっきりと出資と書かれていますので、出資と表現して全く間違いではないでしょう。
シンガポールのGIC社は、ショッピングモールを保有する、日本でいう不動産投資信託(REIT)の投資口を、
40%だけ既存投資主から取得する、ということであるわけです。
シンガポールのGIC社が法律上所有するのはあくまで「投資口」です。
建物(ショッピングモール)ではありません。
ですから、シンガポールのGIC社は「出資」を行うわけです。
ただ、シンガポールのGIC社は、概念的には間接的に建物(ショッピングモール)を保有する、
というような言い方をしても間違いではないでしょうが。
アメリカのサムソナイト・インターナショナル社は、イタリアのファッションショップの株式を取得したということだと思いますので、
まさに出資と呼んでいいと思いますが、概念的には間接的に建物(自社製品の販売店舗)を保有する、
というような言い方をしても間違いではないと思います。

 



それで、なぜ、「それは出資かどうか」、そして、「会社が所有するのは株式か建物か」、といったことを書いているのかと言えば、
「建物の所有権者は誰か?」が取引形態により根本的に変わってくるからなのです。
端的に言えば、「出資」であれば、すなわち、株式の取得であれば、建物の所有権者は取引前後で変わらない、となります。
一方、文字通り建物の取得であれば、建物の所有権者は取引後、その会社(取得者)に変わる、となります。
建物の所有権者を公に明確にすることが不動産登記であるわけですが、
「出資」であれば、すなわち、株式の取得であれば、建物の移転の登記は行わないわけです。
一方、文字通り建物の取得であれば、建物の取得と同時に、建物の移転の登記を行うわけです。
積水ハウス株式会社、シンガポールのGIC社、アメリカのサムソナイト・インターナショナル社の3社の場合は、
全て”出資”(株式や投資口の取得)という形になりますので、どれも建物の移転の登記は伴わないわけです。
「建物を実際に所有しているか否か(建物の所有権を実際に持っているか否か)」は、
経営上はともかく、法理・法律的には根本的に権利関係・権利の強さが異なる、と言えると思います。
この点はどういった論点につながっていくのかと言えば、”出資”(株式や投資口の譲渡・取得)という形の場合は、
「建物の所有権者そのものには一切変動はないのに、建物に対する意思決定権者が変わる。」
というパラドックスが生じる、ということなのです。
建物に対する意思決定権者というのは、率直に言えば、その建物の所有権者でしょう。
それなのに、”出資”(株式や投資口の譲渡・取得)という形の場合は、
建物の所有権者は同じなまま建物に対する意思決定権者が変わるのです。
このパラドックスのからくりはある意味極めて簡単です。
それは「建物の所有権者は法人だ。」ということです。
法人は、自分では意思決定は行えません。
ですので、法人に代わり、法人の代表者(法人を代表して業務執行を行う者)や法人への出資者等が代わりに意思決定を行うわけです。
少なくとも、法人の最高の意思決定権者は出資者であることだけは、どの法人でも共通していることでしょう。
そして、”出資”(株式や投資口の譲渡・取得)という形の場合は、その出資者が変わるといっているわけですから、
建物に対する意思決定権者が変わるのはある意味当たり前のことであるわけです。
ただ、以上の議論で気づいたかもしれませんが、
「そもそも意思決定を行う能力がない人が所有権者になれるのか?」
という、これもまた考えてみればある意味当たり前の疑問が出てくるわけです。
所有権者に代わりに自然人が意思決定を行うことを前提にしているという時点で、
法人という考え方は実はおかしい、という言い方ができるわけです。





また、別の観点から言えば、法人自身は所有している資産を使用する・消費することはできないわけです。
法人が所有している資産を使用する・消費するのは自然人の誰かなのです。
そうしますと、法人に資産を所有させている時点で、出資者から法人が所有している資産を使用する・消費する者への寄付ではないか、
という見方ができるわけです。
本来は、法人が所有している資産を実際に使用する・消費する自然人は、
出資者から直接寄付を受けて、その上で自分自身がそれらの資産を取得し、使用・消費せねばならないのに、
それら資産取得の原資は法人への出資という形になっていますので、寄付ではなくなっているわけです。
本来は法人は資産を取得することはできないわけです。
本来は自然人が自分のお金で資産を取得しなければならないわけです。
自然人が別の自然人から寄付を受けてそのお金で資産を買うことは全く自由であるわけです。
ところが、法人への出資という形を取り、法人が資産を取得するという形を取りますと、
法人自身は資産を使用する・消費することはできない以上、法人への出資は自然人の誰かへの寄付と言わざるを得ないわけです。
例えば、法人は本を購入することもできます。
しかし、法人は本を読めないでしょう。
法人が購入した本は、実際に本を読む誰かが自分のお金で買わなければならなかったのではないでしょうか。
法人が寄付の隠れ蓑になっている、という言い方ができると思います。
法人の業務の意思決定権者が、出資者とは異なる場合は、法人への出資は、出資者から意思決定権者への寄付だ、と言えるでしょう。
なぜなら、意思決定権者は法人に出資されたお金を自由に使うことができるからです。
現代会社法風に言えば、ただの寄付が、経営判断の原則の一言で寄付ではなくなってしまっているのです。
以前、会社が法人か法人でないかは実は極めてあいまいな部分があると書きましたが、概念的に言えば、
法人の業務の意思決定権者は出資者と全く同じである法人のことを、明治三十二年商法では会社と呼んだのではないでしょうか。
もちろん、明治三十二年商法の会社は法人ではなかったわけですが。
法人の業務の意思決定権者は出資者と全く同じである場合は、それは寄付ではないわけです。
なぜなら、出資者は自分の意思でそのお金を使ったからです。
元祖会計理論の観点から言えば、出資者の意思が及ばないお金の拠出を寄付というのだと思います。
拠出されたお金を、実際に自分の意思決定に基づき使用する人物が寄付を受けたことになるのです。

 



The acquisition of general assets is called "acquisition",
whereas the acquisition of a share is called "investment'.

資産全般を取得することは「取得」と呼びますが、株式を取得することは「出資」と呼びます。

 


When a company acquires an object directly, it's called "acquisition",
whereas a company acquires the same object through a share of the owner, it's called "investment".
People don't describe the latter case as "A company acquies the object," actually.
For a person who has ownership of the object remains the same owner before and after the transfer.

会社が目的物を直接取得する場合は、「取得」と呼ばれます。
しかし、会社が所有者の株式を通じて同じ目的物を取得する場合は、「出資」と呼ばれます。
後者の場合は、実は「会社は目的物を取得する」という言い方はしません。
というのは、その目的物の所有権を持っている人というのは、資産譲渡の前後で同じ所有者のままだからです。





When a company acquires an object through a share of the ownwer, ownership of the object isn't transferred.
Ownership itself isn't transferred, but in a sense a company acquires the object.
This kind of phenomenon is peculiar to a juridical person.
In case a person who has ownership of the object is a juridical person, this kind of paradox happens,
After all, the reason for it is that a juridical person himself is not able to use the object.
In other words, from a viewpoint of a natural person, a voting right to a juridical person (i.e. a share)
is never his final object but no more than a means to gain his fruit.

所有者の株式を通じて目的物を取得する場合は、目的物の所有権は移転しないのです。
所有権そのものは移転しませんが、ある意味会社は目的物を取得しているのです。
このような現象は法人に特有のものです。
目的物の所有権者が法人である場合に、このようなパラドックスが生じるのです。
結局、このようなことが起こる理由というのは、法人自体は目的物を使用することができないからなのです。
他の言い方をすれば、自然人の立場から言えば、法人に対する議決権(すなわち株式)というのは、
最終目的では決してなく、果実を得るための手段に過ぎない、ということです。

 


Taking political aims into consideration,
the respective tax laws should provide a depreciation of a fixed asset below:
A depreciation of a fixed asset which a natural person owns personally is tax disallowance totally on the Income Tac Act.
A depreciation of a fixed asset which a company owns for business is a deductible expense on the Corporation Tax Act.

政策的な意図を考慮に入れると、各税法は固定資産の減価償却手続きを以下のように規定するべきです。
自然人が自家用として所有している固定資産は、所得税法上全く損金算入されない。
会社が商用として所有している固定資産は、法人税法上損金算入可能な費用である。




Can a juridical person obtain a driver's license?

法人が運転免許を取得できるでしょうか?





In nature, it is a natural person who earns income.
In nature, a juridical person doesn't need to earn income.
When a natural person makes a commercial transaction, the income which accrues there belongs to the natural person.
On the contrary, when it comes to a commercial transaction of a juridical person,
it is a natural person who actually makes a commercial transaction, but the income which accrues there belongs to the juridical person.
The concept of a "juridical person" gives a twist to an independence which the income belongs to.
That's why the income passed through a company which was based on the Commercial Code of 1899
on the Income Tax Act of that day,
The income didn't belong to a company in those days.
To take such logical twist out of consideration has enabled the concept of a juridical person to come into the world.

本質的に、所得を得るのは自然人なのです。
本質的に、法人は所得を得る必要はないのです。
自然人が商取引を行う場合、そこで発生する所得はその自然人に帰属します。
ところが、法人が行う商取引となりますと、商取引を実際に行うのは自然人なのに、そこで発生する所得は法人に帰属するのです。
法人という考え方をするせいで、所得の帰属主体にねじれが生じているのです。
そういうわけで、明治三十二年商法の会社では、所得税法に基づき、所得は会社をパススルーしていたのです。
当時、所得は会社には帰属しなかったのです。
そういった論理的なねじれを度外視することによって、法人という考え方が誕生したのです。