2015年9月22日(火)


昨日のコメントに一言だけ追記をします。
昨日は、海外資産(例えば海外子会社株式)を保有するためには、現地の人(現地の法律事務所など)を通して保有することになる、
といった点について書きました。
そして、貸借対照表上はその際の海外送金額が海外資産の取得価額になる、と書きました。
それで、基本的考え方はこの考え方で正しいと思いますが、海外資産の所有者は経営上は確かに擬似的な所有者に過ぎないわけですが、
法理的に考えると、現地ではやはりその資産の真の所有権者であることに変わりはないわけです。
そしてその真の所有権者は、海外資産の取得を依頼した人から、海外送金を通じお金を受け取った上でその資産を取得するわけです。
この時、海外にいる真の所有権者にとって、受け取ったお金というのは、どのような取り扱いになるのだろうか、と思ったわけです。
海外の依頼主から代わりに資産を取得するよう頼まれただけなのだから、
言わばパススルーする形でそのままそのお金で資産を取得できるのか、それとも、
代わりに資産を取得するというのはあくまで私的な契約に過ぎないのだから、
受け取ったお金というのは寄付に相当する、ということで、真の所有権者に所得税が課されるのか、と思ったわけです。
要するに、依頼主からすると、海外資産は直接には保有できないので、あくまで代理として取得してもらっているだけなのですが、
現地の税務当局からすると、その点については判然としないといいますか、
ただの寄付ではないか、と言いたくなる部分があるのではないかと思うわけです。
少なくとも、代わりに取得してくれるよう渡されたお金というのは、出資という形とは異なるわけです。
出資という形であれば、受け取ったお金は寄付ではありませんが、
出資かどうか判然としない場合は、受け取ったお金は寄付だ、という見方になるのではないか、と思うわけです。
そうしますと、真の所有権者が受け取ったお金は出資ではなく寄付ということになりますと、
受け取ったお金に関して真の所有権者は所得税を支払うことになるわけです。
もちろん、所得税を支払った分、手持ちのお金は減少します。
したがって、海外から代わりに資産を取得してくれるよう依頼した依頼主は、
所得税の分も加味した金額を海外送金する必要が出てくる、ということになるわけです。
為替レートや通貨単位の相違についてはここでは度外視しますが、所得税率を40%だとしますと、
100円の資産を代わりに取得して欲しい場合は、依頼主は「166.66円」(=100円÷(1−0.4))海外送金しなければならないわけです。
そして真の所有権者は、「166.66円」お金を受け取り、66.66円所得税を支払い、そして、100円の資産を取得することになります。
この論点は、現地の税務当局が、
「資産を代わりに取得してくれるよう依頼を受けて受け取ったお金は、出資の一類型なのか、それとも、寄付に過ぎないのか。」
のどちらの判断をするのか(現地の商法制とも関連してくるでしょう)、という問題なのです。
特段の商法制がない場合は、やはり受け取ったお金は寄付に過ぎない(所得税を支払った上で資産を取得するのはもちろん全く自由)、
という見方になるのではないか、と思います。
そうしますと、真の所有権者の資産の取得価額は「100円」なのに、依頼主にとっての資産の取得価額は「166.66円」(=海外送金額)、
ということになってしまうわけです。

 


そして、この資産に関する依頼主の貸借対照表価額についてですが、
依頼主の貸借対照表価額は、依頼主にとって資産を取得するのに直接に要した金額が「166.66円」であるわけですから、
やはり資産の貸借対照表価額は「166.66円」と考えるべきなのだろう、と思います。
と同時に、真の所有権者にとって受け取った「166.66円」は寄付に過ぎないのであれば、
お金を支払った依頼主にとっても支払った「166.66円」は寄付に過ぎない、という見方をするべきなのだと思います。
それが、取引の対称性というものでしょう。
そうしますと、依頼主にとって支払った「166.66円」は寄付に過ぎないのなら、
当然のことながらその「166.66円」は資産計上できず、寄付ということで全額を費用処理するしかない、ということになるわけです。
要するに、受け取った・支払ったお金は寄付なのかそれとも寄付ではないのか、により捉え方が根本的に異なることになるわけです。
どの国であろうと、海外の依頼主から資産を代わりに取得するために受け取ったお金は出資の一類型と見なす、
すなわち、損益取引ではなく資本取引の一類型と見なす、という商法制度・税制度はないと思います。
それどころか、一国内(例えば日本国内)であろうとも、「依頼主から代わりに資産を取得してくれと頼まれて受け取ったお金」
というのは、結局のところ、それは寄付ではないのか、という見方になると思います。
例えば、会計上は「預かり金」という勘定科目がありますが、これは定義からして資産の取得に使うというものではありません。
また、「預け金」という勘定科目(資産勘定)をある会社の貸借対照表で見たことがありますが、
真の所有権者はこの「預け金」を受け取った上で代わりに資産を取得する、というようなことも考えられなくはありませんが、
結局のところ、「お金を預かった上でそのお金で代わりに資産を取得する」という考え方自体がないのではないか、という気がします。
明治三十二年商法ではありませんが、出資であるのであれば預かったお金は寄付ではない、
出資でなければ預かったお金は寄付だ、というふうに整理されているのではないでしょうか。
結局、資産を取得するというのは、その資産取得者の意思に基づくもの、という基本的考え方があるのだと思います。
その際、取得に要したお金というのは、当然のことながら、資産取得者自身のお金、という根本概念があるのだと思います。
他の人のお金で資産を取得できるでしょうか。
ただし、出資という形を取る場合のみ、
出資者全員の意思に基づき複数の人(出資者達)のお金で資産を取得する(そして商取引上はその後その資産を譲渡する)、
ということが商法制度上認められている(その旨定められている)、ということではないでしょうか。
「資産取得者の意思」ということを鑑みれば、「これは寄付ではなく預け金だ貸付金だ」という理屈は通らない、ということだと思います。
預かったお金は出資なのかそれとも出資ではないのかについては、相当程度明確でなければならない、
というふうに商法制度上そして税制度上要求されてくるであろうと思います。
結局のところ、出資という形を取れば複数の人のお金で資産を取得することが商法制度上認められるように、
「あくまで依頼主に代わって資産を取得するためにお金を受け取っただけ」という場合は寄付ではない、
というふうに商法制度上そして税制度上、整理・定義付けを行うことはあるいは可能なのかもしれません。
ただ、取得した資産をその後どうするのか(資産からの収益や費用、権利や義務は法理的にはあくまで所有権者に帰属する)、
などと言い出すとキリがありませんので、やはり「お金を預かって代わりに資産を取得する」という考え方自体を認めない、
受け取ったお金はただの寄付だ、というふうに商法制度上そして税制度上、整理・定義付けされているのだと思います。

 



話をこの資産に関する依頼主の貸借対照表価額に戻しますと、税法上は寄付(損金不算入の費用)ではあるものの、
あくまで海外資産の擬似的保有のために現金を支出したわけですから、
その現金支出額を資産の取得価額として資産計上する、ということも考えられなくはないかもしれません。
ただ、貸借対照表に資産として計上するためには、その現金支出額の資産性と言いますか、
譲渡可能性ということが重要になってくると思います。
海外の人を通じて(真の所有権者は海外の人)ではありますが、海外資産を保有しているということをどう見るべきなのか。
仮に、厳密には会社財産としてはないという見方をするとすれば、債権者保護の観点から資産計上は認められない、
ということになるでしょう。
他の言い方をすれば、これは、「代わりに資産を保有してもらう」という私的な契約を、商法制度がどの程度認めるのか、
という線引きの問題になると思います。
商品代金は受け取っていなくても売上高として計上してよいということを商法制度が認めているように、すなわち、
「代金は後で支払います。」という私的な契約を商法制度が認めているように、
「代わりに資産を保有してもらう」という私的な契約を商法制度が認める、ということもまた線引きの問題に過ぎないように思えます。
「代わりに資産を保有してもらう」という私的な契約を商法制度が認めるのならば、
真の所有権者は他の人であってもその資産は会社財産の1つだ、という見方になってくるでしょう。
つまり、(海外)送金額を資産の取得価額として貸借対照表に資産計上する、ということもまた認められるということになるでしょう。
大企業の個別貸借対照表には、海外子会社株式がよく計上されているかと思いますが、
これは「代わりに資産を保有してもらう」という私的な契約を商法制度が既に認めている、ということでしょうか。
この場合、税法上も、代わりに取得してもらうために支払ったお金は寄付ではない(譲渡時にそのお金は損金算入可能だ)、
というふうに、商法制と整合性を保つべく定めを整理するべきでしょう。
そして、取引の対称性を鑑みれば、
代わりに取得するために受け取ったお金も寄付ではない、というふうにも、商法制と税制を整理するべきでしょう。
結局のところ、現代会計や現代商法というのは、極めて多くのことを前提とした上で構築されている、ということだと思います。
例えば、商品代金は受け取っていなくても売上高として計上してよい、というのは、
債務不履行は絶対起きない(私的な契約は必ず果たされる)、ということを前提にしていると言えるわけです。
結局、何を前提とするかで、何を会社財産と見なすかすら変わってくるわけです。
債務不履行は絶対に起きないのならば、海外資産を会社財産と見なすこともまた認められるべきでしょう。
より一般化して言えば、資産の所有権者は他の人であっても会社財産と見なすことも認められる、ということになるわけです。
結局、線引きの問題なのだと思います。
そして、その線引きということを一切行わなかったのが、明治三十二年の商法と所得税法であったのだろうと思います。
所有権一本、現金一本、で取引を決めていたわけです。
商取引の概念や取引の原理そして性悪説まで考慮に入れると、
概略(基本的考え方)としてはやはり明治三十二年の商法と所得税法に行き着くのだろうと思います。
昨日は、貸借対照表と損益計算書とのつながり、そして、商取引(取得した資産はその後譲渡を行うものだ)という観点から、
海外資産は貸借対照表に計上可能か否かについて論じましたが、
今日は、寄付か出資か、所有権、資産取得者の意思、所得税、そして、商法が前提としていること、という観点から、
海外資産は貸借対照表に計上可能か否かについて論じてみました。