2015年2月21日(土)
2015年2月17日(火)日本経済新聞 公告
吸収分割公告
帝産京都自動車株式会社
株式会社テイサンホールディングス
(記事)
2015年2月20日(金)日本経済新聞 公告
吸収分割公告
三菱地所レジデンス株式会社
吸収分割公告
株式会社ロッテ
株式会社ロッテアイス
(記事)
Absorption-type Company Split.
(”吸収分割”)
2015年2月4日
グリー株式会社
子会社の吸収合併(簡易合併・略式合併)に関するお知らせ
ttp://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1211510
【コメント】
端的に言えば、株式会社3社が合併するという事例です。
当然、存続会社は1社、消滅会社は2社、ということになるわけです。
法理上の論点としては、株式会社は1社ずつとしか合併できない、という点になります。
存続会社が同じ日に消滅会社2社と合併することはできまるわけですが、要するに1度に2社と合併することはできないわけです。
法手続きとしては、1社とずつ合併手続きを進めていくことになるわけです。
このたびの事例に即して言えば、合併日(効力発生日)である2015年4月1日、
グリー株式会社はまずジグシーズ株式会社と合併を行い、続けて次に株式会社FEYNMANと合併を行う、という法手続きになるわけです。
グリー株式会社は1度にジグシーズ株式会社と株式会社FEYNMANの2社と合併することはできないわけです。
ここで問題となるのが、各合併手続きにおいて、「どの貸借対照表とどの貸借対照表が合併するのか」、という点です。
最初に行うグリー株式会社とジグシーズ株式会社との合併は簡単です。
2015年3月31日のグリー株式会社の貸借対照表(存続貸借対照表)と2015年3月31日のジグシーズ株式会社の貸借対照表(消滅貸借対照表)
とが合併を行うわけです(注:存続貸借対照表と消滅貸借対照表という言葉は私の造語です)。
続けて次に行うグリー株式会社と株式会社FEYNMANとの合併が少しだけ複雑です。
グリー株式会社と株式会社FEYNMANとの合併では、
2015年4月1日のグリー株式会社のジグシーズ株式会社との合併後の貸借対照表(存続貸借対照表)と
2015年3月31日の株式会社FEYNMANの貸借対照表(消滅貸借対照表)とが
合併を行うことになるわけです。
グリー株式会社が株式会社FEYNMANと合併を行う時には既に、グリー株式会社の貸借対照表は、
ジグシーズ株式会社との合併の結果、2015年3月31日の貸借対照表とは異なってしまっているわけです。
法理的に厳密に言えば、両社の株主は、自社の貸借対照表と相手方の貸借対照表とが合併することを承認しなければなりません。
その意味では、合併の承認決議は2015年3月31日を過ぎた日(2015年4月1日以降)に取らないといけないわけです。
2015年4月1日に合併を行いたいなら、2015年4月1日に合併の承認決議を取らないといけない、ということに法理上はなるわけです。
A stock company should commit any kind of act by one at a time, not by two at a time.
どのような行為を行うにせよ、株式会社は1度に1社とずつ行っていかねばなりません。
1度に2社と行為を行うことはできません。
【コメント】
表題通り、株式会社ヤマトが「事業全部の譲受け」を行う、という内容の公告です。
「事業全部の譲受け」については、会社法第四百六十七条(事業譲渡等の承認等)
に規定があります。
会社法第四百六十七条の第1項第3号に
>三 他の会社(外国会社その他の法人を含む。次条において同じ。)の事業の全部の譲受け
と定められています。
株式会社ヤマトはこのたび、会社法第四百六十七条の第1項第3号に定められた「事業の全部の譲受け」を行う、
ということのようです。
この会社法第四百六十七条の第1項第3号には、わざわざ「他の会社」と書かれています。
自社から事業を譲受けることなどできないのではないか、「他の会社」という文言は蛇足ではないか、と思われるかもしれません。
この理由についてなのですが、私個人の推測になりますが、
この第3号は、あくまで「法人」からの事業の全部の譲受けを想定したもの、ということではないでしょうか。
つまり、自然人からの事業の全部の譲受けは会社法としては想定していない、ということではないでしょうか。
この点に関しては、会社法第二十四条(商人との間での事業の譲渡又は譲受け)
が関連しているのではないでしょうか。
会社法第二十四条でいう「商人」は、文脈から判断して「自然人」のみを指すのではないでしょうか。
本来は、「商人」には自然人と会社の両方が含まれるのだと思いますが、
会社法第二十四条の文脈では、この「商人」は「自然人」のみを指すのだと思います。
2006年5月に法律の名称が商法から会社法に変更になったわけですが、
自然人が行う商行為に関して会社法がどの程度適用されるのかは不明な点も多いのかもしれません。
会社法第二十四条第2項には、
>2 会社が商人の営業を譲り受けた場合には、当該商人を譲渡会社とみなして、前二条の規定を適用する。
とありますので、自然人が行う商行為に関しては、自然人をあたかも会社であるかのように見なして会社法を運用していく、
という考え方になるのかもしれません。
基本的には、自然人が行う商行為は、法人が行う商行為に比べて、極めてシンプルであるわけです。
商行為の主体としての形態、意思決定機構、利益の取り扱い方法などなど、会計面においても法理面においても、
自然人は法人とは比較にならないほど、関係者が注意を払わなければならない事柄がそもそも少ないわけです。
それは結局のところ、自然人が受けねばならない法の規定の少なさということにつながってくるわけです。
機関の「機」は、「動力を備えたり精巧な仕組みを持っていたりする道具。」という意味です。
また、「気が置けない」という慣用句は、「気を許してつきあうことが出来る様子。」という意味です。
法人が行う商行為とは完全に異なり、自然人が行う商行為は「”機”が置けない」、といったところでしょう。
それから、「事業の全部の譲受け」について、同じく会社法第四百六十七条の第2項には、
>2
前項第三号に掲げる行為をする場合において、当該行為をする株式会社が譲り受ける資産に当該株式会社の株式が含まれるときは、
>取締役は、同項の株主総会において、当該株式に関する事項を説明しなければならない。
と定められています。
これはどういう意味かと言いますと、これも私個人の推測になりますが、
株式会社が「事業の全部の譲受け」を行うに当たり、譲り受ける資産に自社の株式が含まれている場合の話をしているのだと思います。
これは結果として、自己株式の取得を行うことになってしまうわけです。
自己株式の取得を行いますと、当然、利益剰余金の金額にマイナスの影響を与えることになります。
端的に言えば、自己株式の取得の結果、分配可能な剰余金の金額が減少してしまうわけです。
ですので、「事業の全部の譲受け」を承認する株主総会において、取締役は、
「事業の全部の譲受けを実施しますと自己株式を取得することなります。
その分、配当金の金額が減少することになりますが、それでもよろしいでしょうか?」
というふうに、株主に説明をしなければならない、ということだと思います。
The acceptance of assignment of entire business of another
company.
(”他の会社の事業の全部の譲受け”)
上のコメントで、「自然人からの事業の全部の譲受け」は会社法としては想定していないということではないでしょうか、
と書きましたが、ひょっとしたらこのことと関連がないわけではないのかもしれないなと私が感じたことが次の記事に載っていました↓。
2015年2月20日(金)日本経済新聞 経済教室
松岡 久和 京都大学教授
民法改正 商取引に変化も
時効や保証に留意点 「消費者保護」の評価は疑問
ポイント
○時代の変化に即しルールの透明性を向上
○契約ルールの視点は消費者保護に限らず
○内容はやや保守的で今後の運用が重要に
(記事)
今後予定されている民法大改正において、いわゆる債務の個人保証についての取り扱いが変わることになるようです。
>個人の保証人が予想外の多額の保証債務の支払いによって生活の破滅に陥ることが社会問題となっており、禁止を求める意見が多かった。
と書かれています。
厳密な定めについては分かりませんが、保証人の責任の限度額を予め定めたり、公証人のところで慎重な手続きを取らない限り無効とする、
というような改正となるようです。
この文脈での債務の保証とは、個人が行う債務の保証であろうと思います。
会社法の分野から言えば、自然人が行う債務の保証、ということになると思います。
自然人が行う債務の保証について自然人(保証人)を保護しようという民法の改正と、
「自然人からの事業の全部の譲受け」は想定していないという会社法の規定とが、
何か共通するものがあるような気がするな、と思いました。
>これまで改正せずにすんだのは、裁判所による規定の柔軟な解釈運用で新しいルール(判例準則)がつくられ、
>時代の要請に巧みに応えてきたからである。
>しかし、判例準則は民法の規定を読んでもわからない。
と書かれています。
この判例準則という考え方についてなのですが、立法論としては大問題と言いますか、立法の根幹に反する考え方だと言わざるを得ません。
というのは、立法というのは、国会を通じて行われるべきものだからです。
判例準則という考え方をしますと、裁判所が立法を行っていることになってしまいます。
これはいわゆる三権分立に完全に反しているわけです。
法律を作っていいのは国会のみのはずです。
裁判所が新しいルールをつくるなど、司法の府であるはずの裁判所がいつの間にか立法府になってしまっているわけです。
法律の規定ではなく判例準則に従うというのは、国会を通さずに新しい法律を作っていることと同じです。
問題解決の基準は法律そのものであるべきであって、裁判所の判断であってはならない、
というのが、現代国家といいますか、三権分立を基礎とした国家運営のあり方ではないかと思います。
判例準則による運用が意味するものは、三権分立の否定です。
憲法第41条にこう書かれています。
”国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。”
いつの間に裁判所が国権の最高機関になったのでしょうか。
そして、いつの間に裁判所が第二の、それも国会に優越する立法機関になったのでしょうか。
判例というのは、法律に従った結果です。
法律とは異なった、新しい解釈を与える指針であってはならないわけです。
判例準則が法律の規定に優先するなど、あべこべもいいところでしょう。
時代の変化に合わせて柔軟に云々とどうしても言うのなら、新しい判例が出次第、即座に国会で判例の趣旨に沿うよう法律を改正する、
という立法手続きが必要であるはずです。
判例準則は法律の規定を読んでもわからないというのは、率直に言えば、法律はないと言っていることと同じであるわけです。
確かに、判例そのものは法律同様国民の誰もが自由に読むことができるものではあるわけですが、
柔軟な解釈運用などと言い出すと、結局自分が抱えている問題にどの判例が適用されてくるのかが分からない、ということになるわけです。
似たような判例が2種類ある場合は、どちらが自分に適用されることになるのでしょうか。
また、法理上は、自分の場合には判例ではなく法律そのものが適用されるかもしれないわけです。
判例準則があることは、必ずしも法律を適用しないことを意味するわけでもないわけです。
たとえ判例準則があっても、司法上・法理上は、法律を適用することもできるわけです。
大きな視点で見れば、判例準則は実は確たる指針にはなっていない、という言い方すらできると思います。
局所的に言えば、そのような場合はいつもこの判例準則が適用されてきている、というだけではないでしょうか。
確たる判断基準というのは、やはり法律のみであるべきだと思います。
どうしてもと言うのなら、実務上法律を代替するルールであるということで、
判例準則をもっと公に、もっと分かりやすく明確に、社会・国民に周知徹底させていくべきであろうと思います。
法律を知らなかったのは国民の責任ですが、法律を知らしめなかったのは国の責任、そういう言い方ができるのではないかと思います。
法律を知るのは国民の権利であり法律に従うのは国民の義務です。
同様に、法律を作るのは国の権利であり法律を知らしめるのは国の義務だ、というふうに思います。