2015年1月17日(土)
2015年1月17日(土)日本経済新聞
自己資金ゼロでモール 大連万達商業地産 4社から4500億円
(記事)
【コメント】
記事には、ショッピングモールを展開している会社(いわゆる不動産開発会社)が、自己資金なしでモールを建設する、書かれています。
記事には、「自己資金なしの事業モデル」と書かれています。
自己資金はないのにどうやって不動産開発を進めるのかと言えば、資金は機関投資家から調達する計画であるようです。
どのような種類の資金を調達するのかについては書かれていません。
自己資金ではないということですので、負債(借入金)ということになるのではないかと思います。
ただ、記事には、テナントからの家賃収入は、機関投資家6割、自社4割の比率で分配する、と書かれています。
自社にも分配する、という書き方になっているということは、
機関投資家が6割、自社が4割出資して別会社を設立し、その会社でショッピングモールを建設する、ということかもしれませんが、
それでは「自己資金なしの事業モデル」にはならないと思います。
詳しいことは分かりませんが、「テナントからの家賃収入の6割を利息として支払う」という条件で借入金を借り入れる、
ということかもしれません。
変動利の借入金、ということになるのかもしれません。
民法上の金銭消費貸借契約のみに着目すれば、そのような条件でお金の貸し借りをしてはならないという規則はないように思います。
ただ、「テナントからの家賃収入の6割を利息として支払う」という条件での借入金となりますと、
その借入金は、いわゆるトラッキング・ストックや特定事業からの収益のみを配当の原資とする優先株式に近くなっていくると思います。
ここで、借入金の利息の支払いであれば、費用の1つと見なされ法人税法上損金算入されますが、
トラッキング・ストックや優先株式の配当金の支払いであれば、利益の分配と見なされ法人税法上損金算入されません。
これは、商法制度上、借入金は負債であるのに対し、トラッキング・ストックや優先株式は資本である、
というふうに見なされているからであるわけです。
これら借入金とトラッキング・ストックと優先株式は、実態としては全くと言っていいくらい同じであるわけです。
少なくとも、当事者にとっては、資金の対価(利息や配当)の支払いや資金の返還だけを見れば、条件は全く同じであるわけです。
後は、それを負債と定義するのか資本と定義するのかの違いに過ぎなくなってくるわけです。
それを資本と定義するならば、資金の対価の支払いは配当金の支払いということになりますから、
商法制度上、金銭消費貸借契約に定められた対価の支払いに配当金の支払いに関する制限が課せられることになります。
また、資金の返還に関しても、その資金の返還は自己株式の取得という取り扱いになりますから、
金銭消費貸借契約に定められた資金の返還に、商法制度上、自己株式の取得に関する制限が課せられることになります。
つまり、当事者間で締結した金銭消費貸借契約以上に、商法制度上、十分な原資があることが要求されることになるわけです。
逆に、それを負債と定義するならば、資金の対価の支払いは金銭消費貸借契約に従うだけでよく、商法制度上の制約は一切ありません。
また、資金の返還に関しても、金銭消費貸借契約に従うだけでよく、商法制度上の制約は一切ありません。
つまり、それを負債と定義するならば、当事者間で締結した金銭消費貸借契約に従うだけでよく、商法制度上は何らの制約も受けないのです。
さらに言うなら、会社倒産時は、弁済の順位は、@負債、A優先順位の高い株式、B普通株式、の順となります。
この弁済順位の違いは、概念的には議決権の有無が理由だと思います。
以上の議論をまとめますと、会社は、全く同じ条件で資金を借りるなら、負債と定義して借りた方が有利だ、ということになります。
また、資金の出し手からしても、全く同じ条件で資金を貸すなら、負債と定義して貸した方が有利だ、ということになります。
こうなりますと、当事者は両者共が負債と定義した方が有利だということになりますから、
当事者は当然、その資金を負債と定義してお金の貸し借りをすることになるでしょう。
ただ、こう書きますと、何か変だな、と感じるわけです。
その資金は資本であるもしくは負債であると、当事者が決めてよいのだろうか、と感じるわけです。
あの資金が資本か負債かでは、資金の取り扱いはある意味正反対であるわけです。
それなのに、ある資金を資本とも負債とも定義し得る、というのはおかしいわけです。
その資金が資本か負債かは、商法制度から一意に決まらないといけない、と思うわけです。
当事者間で締結した契約が金銭消費貸借契約か何らかの出資契約かで、その資金が資本か負債かが決まるようであってはならないわけです。
商法制度上、トラッキング・ストックや優先株式を所与のものとしますと、
その資金は資本か負債かを当事者が任意に決めてよい、ということになってしまうわけです。
トラッキング・ストックや優先株式は、本来は負債としか定義しようがないものなのではないか、という気がします。
そして、さらにそもそもの株式会社の概念に遡って考えてみますと、
株式会社には資金を借り入れるという考え方がそもそもあるのだろうか、という点にも行き着く気がします。
明治三十二年商法ではなく、現代の株式会社制度においても、
株式会社がお金を借りて経営を行うというのはおかしな点があるかもしれないなと思いました。
仮にこのたびの記事のように、株式会社が資金を借り入れて有形固定資産を取得もしくは建設後保有するという状態を考えてみますと、
お金を貸した人の意思はその事業運営に全く反映されない状態だ、というふうに感じるわけです。
もちろん、お金を貸した人は株主ではありませんから、お金を貸した人に議決権がないのは当然です。
しかし、お金を出した人の意思が全くない(全く反映されない)お金が株式会社内にあること自体がおかしい、
というような言い方ができないだろうかと思いました。
他の言い方をすると、株式会社では本来、お金を出した人達が自分達の意思で事業運営を行っていかねばならないのに、
他の人からお金を借りて事業運営を行っているとなりますと、
「意思」という点においてそのお金はどこから来たのか、という話になる気がするわけです。
そのお金は返さないといけませんからそのお金は寄附を受けたのとは異なるかもしれませんが、
お金に対する意思がないという点に関して、概念上の不整合を感じるわけです。
もしくは、株式会社内で、その借りたお金を株主の意思決定に基づき事業運営で使うとなりますと、
自分達が出したお金ではないのに、株主にそのお金の使い道について意思決定を行う権利・資格があるのか、
というようなことが概念上の話として言えるような気がするわけです。
極端に言えば、そのお金は貸してくれた人のお金ではないのか、という言い方ができる気がします。
もちろん、株式会社は、将来返すために借りているわけですが、概念的な話になりますが、
株主やその受任者(業務執行者)には、借りたお金を事業運営で使う資格がないかのように感じるわけです。
株式会社はお金の使い道について委託を受けたわけでもないわけです。
株式会社にお金の使い道について委託を行うのがまさに他ならぬ株主なのではないか、というようなことも概念的に言える気がします。
株式会社内に委託を受けていないお金があること自体がおかしい、と言えばいいでしょうか。
株式会社は事業を行うためだけの器、そして、その器には、株主が皆でお金を出し合うわけです。
そして、お金を出し合って事業を行い、稼いだ利益は株主で分け合う、これが株式会社であるわけです。
その器に極端に言えば関係のない人物がお金を出すのはおかしいわけです。
そしてその関係のない人物は、株式会社が稼いだ利益から資金の対価という形で、利息を受け取るわけです。
その人物は、株式会社に対して一切意思決定に参加していないのにです。
議決権を行使する義務も果たしていないのにです。
株主はその人物に対して、「どうして君が利益を受け取るの?」と言わねばならないわけです。
資金の出し手や利益の受け取り手という意味で株式会社と関係があるのは、出資者である株主だけである、
というふうに、概念整理ができそうな気がします。
出資をしているから利益を受け取る権利がある、
その利益を受け取る権利を表象するものが株式だ、
株式が利益の通行許可証になっている、
利益の通行許可証を持っている者だけが、利益の分配を受けることができる、
金銭消費貸借契約の契約書では、利益の通行許可証にはならない、
これが本来の株式会社制度なのだと思います。
借入金で事業を運営するとなりますと、その借入金は将来返済せねばならないから、事業基盤・財務基盤として脆弱だ、
一方、資本は返済しなくてよいから、財務基盤として盤石であり資本こそが確固たる事業運営の基盤だ、
というふうに、財務の安定性の観点からも、株式会社がお金を借り入れることのおかしさは説明できるとは思います。
確かに、借入金の利息は株式会社が利益を計上していなくても支払わねばならないのに対し、
株主への配当金は株式会社が利益を計上していないならば支払わなくてもよいわけですから、
その観点からの説明ももちろん正しいと思います。
ただ、今日は、株式会社という事業の器の中にあるべきお金はどんなお金だけであるべきか、
意思が含まれていないお金は株式会社の中にあってはならないのではないか、
受任者(業務執行者)を通じて株主の議決権が直接的に及ぶお金だけが株式会社の中にあるべきだ、
といった概念的な観点から、株式会社がお金を借り入れることのおかしさについて考えてみました。
それで、以上の議論を踏まえまして、最初の記事に戻りますと、
記事には、「自己資金なしの事業モデル」という言葉あったわけですが、
結局、株式会社が借入金で事業を運営していくとなりますと、まさに「自己資金なしの事業モデル」ができてしまうわけです。
昨日の学校法人の話ではありませんが、株式会社に資本がなくても事業が成り立つということになってしまうわけです。
このことのおかしさを貸借対照表で表現してみました。
概念的な話になりますが、借入金で取得した有形固定資産には運営主体がないかのような状態になる、
というのがこの貸借対照表を見れば分かるのではないでしょうか。
資本で取得した資産に対して議決権が及ぶ(会社の意思が及ぶ)のであって、
負債で取得した資産に対して議決権が及んで(会社の意思が及んで)いいのだろうか、
という概念上の不整合について考えてみました。
「借り入れで資金を賄うとはどういうことか?」
(PDFファイル)
(キャプチャー画像)
As is often the case with a modern stock company,
business
operated by borrowings is equal to one operated by no owner's equity.
これは現代の株式会社によくあることなのですが、
借入金によって運営されている事業は自己資金ゼロで運営されている事業と同じなのです。
上記の概念上の不整合について、「意思」という観点からも表現してみました。
資本の出し手には、株式会社に対する意思があります。
しかし、負債の出し手には、株式会社に対する意思は全くないのです。
しかし、株式会社の資産は1つしかないわけです。
株式会社に借入金がありますと、資金の運用に関して負債の出し手からお金が白紙委任されたかのような状態になってしまうわけです。
資産は必ず意思の結果を表すわけですが、株式会社は関係がない人から出されたお金を使って資産を取得していいのか、
というような概念上の問題があるように思います。
経済的に言えば、同じ資産を取得するなら、負債の出し手自身は、自身が意思を行使できる形でお金を使おうとするのではないでしょうか。
つまり、負債の出し手は負債の出し手ではなく、株主になるのではないでしょうか。
「自己資金なしの事業モデル」が成立してしまうような状態になるお金の使い方は、資金の出し手は決してしないものではないでしょうか。
「本来の株式会社」
(PDFファイル)
(キャプチャー画像)
No investment, no profit. A loan contract is not a pass for the
profit.
出資せざる者受け取るべからず。貸付の契約書は利益への通行許可証にはなりません。
The person would sooner operate the same business by using the money on his
own
than lend money to a stock company which operates some business.
ある事業を運営している株式会社にお金を貸すくらいなら、その人はそのお金を使って自分自身で同じ事業を運営する方がましなのです。
昨日追記すると書いた学校法人と私立学校法の話については、明日もう少し頭の整理をして書きたいと思います。