2015年1月1日(木)
A timeline before and after an annual meeting of shareholders in the Meiji
era.
「明治時代における定時株主総会前後のタイムライン」
について少しだけ追加をしたいとも思います。
明治三十二年商法では、株式の譲渡は認められたの否かについてなのですが、
昨日のコメントでは私個人の推測として、株式の譲渡は行える方が株式会社の理念に合致するのではないか、と書きました。
その考え自体は株式会社の概念に照らせばやはり理論的には正しいと今でも思っていますが、
今日は、仮に明治三十二年商法では株式の譲渡は認められていなかったのだとすると、その理由や背景は何だろうかと考えてみました。
株式の譲渡が認められない理由について、昨日は2つの側面から一言だけ書きましたが、今日はその理由について考察を深めたいと思います。
まず、理由の1つ目は、明治三十一年民法の物の譲渡に関する基本的考え方です。
明治三十一年民法では、譲渡できるのは有体物だけであったわけです。
以前、商法の法体系的位置付けについて、商法は民法の補遺に過ぎない、と書きました。
商人が行う商行為に関しては、民法に記載がない事柄についてのみ、補遺という位置付けで別途商法に定めを置き、
商法に特段の定めがない事柄については、民法の規定をそのまま適用する、というのが基本的考え方であるわけです。
商行為の特則という考え方はないわけではないのですが、対象となる同一事柄に関して民法と商法とで規定が異なるというのは、
実はそもそもおかしいという考え方になるわけです。
株式会社ではなく自然人が行う商行為を想定してみれば分かるように、その行為が商行為か商行為でないかは全く明確ではないわけです。
”業として行う行為が商行為だ”という説明もないわけではありませんが、
ここでいう”業として”とは、営利を目的としてという意味合いだったり繰り返して行うという意味合いだったりするわけですが、
それで済むなら、法律はいらないわけです。
私には人徳があり結果として儲けただけです、これは営利を目的とはしていません、などという言い逃れが通ることになりますし、
1回の商取引で大儲けをして、これだけ儲けたからもういいやということですぐに引退・廃業(アーリー・リタイヤ)した場合は、
その行為を繰り返して行いはしないわけですから、それは商行為ではないということになります。
”業として”などという判断基準は全く判断基準になっていないわけです。
人が行う行為に、”業として”も”業としてではなく”もないわけです。
したがって、対象となる同一事柄に関しては、民法と商法とで規定は同一でなければならないわけです。
正確に言えば、商法の方にはその規定(特則)はなくてよい、ということになるわけです。
株式会社の定義や運営方法に関してはもちろん商法に別途規定がなければなりませんが、それは特則でも何でもありません。
究極的なことを言えば、理論上は商行為の特則というのはない、と言わねばならないのだと思います。
ですので、極端な言い方をすれば、民法の規定が商法の規定である、ということになるわけです。
そうしますと、物の譲渡に関しても、全ての行為について民法の規定をそのまま適用準用する(準用する)、ということになるわけです。
明治三十一年民法では、譲渡できるのは有体物だけであったわけですから、
明治三十二年商法でもその考え方を準用することになり、結果、株式は譲渡できない、という結論になるわけです。
蛇足で書きますと、私個人としましては、その「株式」自体が株式会社特有の(株式会社だからこそ発行し得る)有価証券であるため、
「株式」には民法の規定は理論的・法理的に準用することができず、
したがって、商法の規定により株式は譲渡できると定めることも間違いではないと思っています。
最後は、これは定義の世界の話になってきます。
法律によってどちらであると定める、という世界です。
より理論的・法理的に正しいと考えられる方を法律として定めるべきですが、どちらの考え方が正しいかは読み手に委ねたいと思います。
他に、株式は譲渡できないと定める理由としては、
たとえ直接的には株式が譲渡できなくとも「他の手段により株式を譲渡したことと同じ効果を得る方法がある」からだ、
というのが理由になります。
その方法とはどういう方法かと言いますと、
株式を取得したいと考えている投資家と引き続き株主でいたいと考えている株主とで新しく会社を設立し、元の会社は清算してしまう、
という方法です。
株式会社の株式を譲渡するとは、煎じ詰めれば、その株式会社の株主構成を変えることです。
新しい株主構成で新しく会社を設立し、元の会社は清算してしまえば、
株式を譲渡したい株主は会社の株主ではなくなり、株式を取得したいと考えていた投資家は新たに会社の株主になります。
これは会社の株式を譲渡したことと同じでしょう。
株式を資本金額(もちろん株式数に応じた資本金額という意味ですが)で譲渡することを想定すれば、
株式の売り手にも売却損はでませんし、買い手も結局資本金額で株式を買ったことと同じです。
当時であれば会社には資産も負債もありません(会社には文字通り現金しかない)ので、会社としても1円(1銭?)の損得もありません。
現代であれば当然株式の譲渡自体が認められていますから以上のようなことはする必要は全くないわけですが、
仮に現代でも株式の譲渡は認められていないのだとしても、同様の手法は使えます。
同じ様に新しい株主構成で新しく会社を設立し、帳簿価額で資産負債全てを元の会社からその新しい会社へと譲渡すれば、
株式を譲渡した状態を実現できます。
「仮に株式が譲渡できなくても、株主構成の入れ替えが必要(株式売却希望株主がいるそして株式購入希望投資家がいる)なら、
新しく会社を設立してしまえばいいではないか」、
明治三十二年商法はそう考えたとも考えられます。
明治三十一年民法の規定を踏まえれば、株式は譲渡できないと定めた方が、法律間の整合性はさらに高まる、
と、明治三十二年商法は考えたのかもしれません。
さらに、株式は譲渡できないと定める理由としては、投資家保護の観点が理由として挙げられるかもしれません。
株式会社では資本金と株式とは、概念的にも価額としても極めて密接な関係にあるわけです。
資本金と株式とは、表裏一体であり、一体不可分なものです。
ですので、株式の譲渡を考える場合は、株式は資本金額で譲渡するということが基本的考え方であろうと思います。
特に、昨日も書きましたように、株式は資本金額において現金同等物であるわけです。
資本金額以外の金額での譲渡となりますと、相手方に対する寄附の側面が出てくるわけです。
そうますと、株式は資本金額以外では譲渡できない、との考え方が法律的にも要請されてくるわけです。
ただ、ここで問題となるのは、資本の欠損が生じている状態だと思います。
資本の欠損が生じている状態では株式の価額は当然資本金額より小さいわけです。
その状態で株式を資本金額で譲渡するというのはおかしいわけです。
そして、会社外部の人物(既存業務執行者と既存株主以外)には、今現在会社が資本の欠損を抱えているかいないかは分からないわけです。
一見、会社の計算書類を開示することによって資本の欠損を抱えていないことを明らかにできように思うかもしれませんが、
極端な話をすれば、その計算書類は嘘かもしれないわけです。
税務当局としては、脱税は困るわけですが、納税者が多く収めた分に関しては問題視できないと言いますか、
少なくとも、私人間の有価証券の売買に関して税務当局が口を挟むのは税務理論的にはおかしい(法律の対象分野が異なる)わけです。
有価証券(株式)の売買に関連して脱税でもあれば別でしょうが。
そして、計算書類が嘘であったことの保証は、少なくとも新しく株式を取得したものに対しては及ばない、
ということであるように思います。
概念的に言えば、受任者が正しい計算書類を作成するのは、委任者と税務当局のためであって、
委任者でも何でもない新しい株式取得者のためではない、という言い方ができるように思います。
率直に言えば、開示された計算書類が嘘であっても(本当は会社は資本の欠損を抱えていたのだとしても)、
新しい株式取得者は、その計算書類を作成した旧受任者を責めることもできなければ株式を売った旧株主を責めることもできない、
ということになる気がします。
商法制度としては、そのような事態を未然に防ぐため、株式の譲渡自体を禁止する、と考えたのかもしれません。
株式の譲渡をしたいなら、私が上の方で書きました方法を使えば、会社が資本の欠損を抱えていないことは確実に担保されるわけです。
経営的に考えれば、当時の会社が行う商取引とは完全な”取り次ぎ業”に過ぎないわけですから、
商取引の結果会社に損失が発生する(会社が資本の欠損を抱える)こと自体が通常はないわけです。
しかし、株主が他の相手と共謀して、商品を敢えて仕入値以下の価額で販売し、その後、株式は何も知らない投資家に資本金額で譲渡する、
ということが考えられるわけです。
有り体に言えば、会社が資本の欠損を抱えていないことの保証が難しい、ということだと思います。
嘘の計算書類を作成した業務執行者に責任を負わせるというのも法制度としてはありだとは思います。
しかし、株式の譲渡自体を禁止すれば、そういったトラブルは完全に防ぐことができる、と、明治三十二年商法は考えたのかもしれません。
"On the primitive accounting theory, all that exist in this world are cash
and the others."
(元祖会計理論上は、この世にあるのは現金と現金以外だけなのです。)
「現金そのもの」なのか、それとも、どんなに強く現金の裏付けがあろうとも(たとえ即時帳簿価額で現金化可能な現金同等物であろうとも)
「現金以外のもの」なのかは、決定的に異なる、と明治期の先人達は考えたのだと思います。
「現金そのもの」はどうやっても現金です。
しかし、「現金以外のもの」は、物質的には・有体物としては、やはり現金ではないのです。
「現金以外のもの」は現金ではないのは確かなのです。
それほどまでに、「現金そのもの」と「現金以外のもの」は完全に異なる、という見方をしなければならないのだと思います。
端的に言えば、"Seeing
is
believing."(意訳「現金そのものを見るまでは信用できない。」)、ということだと思います。
「現金そのもの」と「現金以外のもの」とは決定的に完全に異なる、これが物の価額に関する基本的考え方なのだと思います。
「その価額で現金同等物なのは分かりますが、でも現金ではありませんよね。」、という見方をしなければならないわけです。
したがって、どんなに現金の裏付けがあろうとも、株式についても公正な価額というものはない、
というのが、当時の考え方であったのだと思います。
やや文脈はずれますが、現代の国債にも当時の基準で言えば公正な価額というものはないわけです。
国債はどこまでいっても国債です。
現金ではないのです。
国債は現に現金化して初めて現金になるのです。