2014年8月18日(月)



2014年5月23日(金)日本経済新聞 大機小機
「3分の1超」の大株主とは
(記事)


 



【コメント】
昨日、

>お客様は債務者です。(The customer is always debtors.)

と書きました。
このことに関連してというわけでもありませんが、
「会社と株主との関係」について考えさせられる記事がありましたので紹介します。
「3分の1超」の大株主とは、とのことですが、この議論は結局のところマッチポンプに過ぎないような気がします。
3分の1云々などと言うからおかしな話が出てくるわけです。
株主総会議案は「過半数か否か」一本で決する(株主総会議案の決議要件は「過半数」のみ)、と考えれば全ての説明が付くと思います。
株主に大株主も少数株主もないわけです。
あるのは、それぞれの株主が持っている株式数でしょう。
ある株主総会議案が過半数の賛成票を得た、だから、その議案は可決承認され法的に効力を持つ、
ある株主総会議案は半数以下の賛成票しか得なかった、だから、その議案は可決承認はされず法的に効力を持たない、
それだけのことではないでしょうか。
株主がその議案は会社の利益になると判断した、だから、その議案は可決承認され法的に効力を持つことになった、
株主がその議案は会社の利益にならないと判断した、だから、その議案は可決承認されず法的に効力を持たないことになった、
それだけのことではないでしょうか。
ある議案が可決承認されて株主の利益にならないということ自体が株式会社の概念にそもそもないことですし、
ある議案が否決されたがそれは株主の利益になる議案であるなどということ自体が株式会社の概念にはないわけです。
株主の利益になる議案が否決されるはずがない、という仮定・前提が株式会社にはあるわけです。
株主の利益にならない議案が可決承認されるはずがない、という仮定・前提が株式会社にはあるわけです。
サッカーに、「強いチームが勝つんじゃない。勝ったチームが強いんだ。」という名言がありますが、
この名言を使った言葉遊びでは決してありませんが、株式会社の仮定・前提や論理の流れを踏まえますと、まさに、
「株主の利益になる議案が可決承認されるんじゃない。可決承認された議案が株主の利益になるんだ。」
というようなことが言えるわけです。
「株主の利益になる議案のみが株主の意思により可決承認される(可決承認された議案が株主の利益ならないはずがない)」、
という仮定・前提(物事の判断の前提)が株式会社にはあるわけです。

 


民法の条文には直接規定はされていませんが、三大原則(書かれていない大原則)というものが私権の行使に関する一般原則があります。
民法の三大原則の筆頭は「権利能力平等の原則」です。
この原則は様々な教科書等によりいくつかの説明がなされています。
民法の三大原則なのに、教科書により説明が違っている部分があります(教科書により書かれていたり書かれていなかったりする)が、
私自身としては今まで自分で民法を勉強してきて、「権利能力平等の原則」が民法の三大原則の筆頭であろうと自分なりに理解しています。
ちなみに、民法の三大原則の残りの2つは、A私的自治の原則、B所有権絶対の原則、です。
民法という法律を構成している大きな概念として、まずこの三大原則があり、さらに、

権利能力平等の原則→私的自治の原則→所有権絶対の原則

の順番に民法の考え方が構成されていると思います。
例えば、権利能力平等の原則を大前提としないと(権利能力は平等であることが担保されていないと)、
私的自治の原則は成立のしようがない(そもそもお互いの契約が成立しないことになる)、
ということになると思います。
「私は能力(法律知識や条文解釈力や言語力など)が低かったので契約内容を間違えってしまったのです」、
で済むのなら、契約にならないわけです。
契約という法律行為が成立するためには、権利能力は平等であることを法理上の前提とせざるを得ないわけです。
そして、民法という法律は特に個人の社会生活関係、すなわち、主として財産および身分の関係に適用される法律(私法)です。
個人の社会生活に関する権利を守るために、所有権という権利を一つの絶対的な柱として民法を定めているわけです。
所有権は絶対であるという考え方も所詮前提や仮定と言ってしまえば前提や仮定に過ぎないかもしれませんが、
他の何かの権利よりも所有権を絶対のものとした方が、個人の社会生活を守ることを考えれば、
権利を守る体系を構築しやすいのだと思います。
他の言い方をすれば、個人の社会生活を守ることを考えれば、所有権を絶対のものと考えるのは自然なことであり理に適っていることだ、
と言ってもいいと思います。

 


この民法の体系(何を前提・仮定とし、何をその前提・仮定から定めるのか)については、
条文の編纂方法とも一定度関連があると思います。
民法(日本だけでなく世界各国どこの民法でも同じでしょう)は、パンデクテン方式によって構成されています。
パンデクテン方式とは、法典編纂方式の一つで、個別的・具体的な規定より先に、
一般的・抽象的な規定を「総則」としてまとめる方法のことです。
体系的な構成のため、重複する条文が少なく、必要な条文の検索が簡単にできることが長所とされています。
パンデクテン方式とは、もっと簡単に、共通する事項を前にまとめて記載する方式、と表現してもいいと思います。
「前にまとめて記載している共通する事項」のことを民法では具体的には「総則」と呼ぶわけですが、
実はその「総則」の前にこれら民法の三大原則がある、と考えねばなりません。
三大原則については「総則」にも書かれてはいません。
しかし、この三大原則が民法構築上の前提なのです。
そうでないと、民法全体が崩れてしまいます。
「総則」も三大原則を前提にしているのです。
これが(条文に書かれていない部分まで含めた)民法の体系です。

 


それで、以前、「商法(会社法)は民法の補遺だ」と書きましたが、商法(会社法)を解釈していく際にも、
民法の三大原則や定めを株式会社にも応用して考えていくことになるわけです。
以下、会社法のことも商法と書きます。
商法でも「権利能力平等の原則」が大前提となります。
例えば、「いつも会社にいるわけではないから会社のことはよく分からなかった」で済むのなら、株式会社にならないわけです。
実務上は確かにそういった現実的問題点はあると思いますが、
法理上・商法構築の上では、取引や契約の相手方(株主や債権者債務者等)は
会社のことや商法の規定や各種法令のことを十分に理解している、ということを前提にしているわけです。
逆から言えば、そういったことを前提にしないと、商法が構築できないのだと思います。

また、「権利能力平等の原則」と同時に、もう一つ別の大前提も法制度構築の際にはあると思います。
それは、「人は正しく物事を判断し正しくその権利を行使するものだ」という大前提です。
「人は合理的な行動を取るものだ」という大前提と言い換えてもいいと思います。
これは人が行動を取る時の前提や仮定(合理的な想定)と考えてもよいと思います。
例えば、株主が合理的な行動を取らないならば、株主の利益にならない議案を承認可決してしまうでしょう。
変わった株主がいて、合理的ではない意思決定を行う株主も世の中には稀にいるかもしれません。
しかし、そんなことまで考慮し出したら商法が構築できないでしょう。
また、「株主は合理的な行動を取る」というのは、経済人・商人・商取引を行う者として、自然な想定と言えるでしょう。
株主は合理的ではない行動を取ることもあると仮定するよりも(前提とするよりも)、
株主は常に合理的な行動をとるものだと仮定する(前提とする)方が、
株主の利益を守ることを考えれば、権利を守る体系を構築しやすいのだと思います。
他の言い方をすれば、株主の利益を守ることを考えれば、
株主は常に合理的な行動をとるものだと考えるのは自然なことであり理に適っていることだ、と言ってもいいと思います。
「人は正しく物事を判断し正しくその権利を行使するものだ」という大前提と「権利能力平等の原則」という大前提の両方があって初めて、
「株主の利益になる議案のみが株主の意思により可決承認される(可決承認された議案が株主の利益ならないはずがない)」
という考えが生まれようかと思います。
そして、この自然な考えを株式会社における仮定・前提(物事の判断の前提)とした上で、商法は構築されているのです。
これが(条文に書かれていない部分まで含めた)商法の体系です。

 



以上の議論を1枚の図にまとめますと、次のような図になると思います。


「商法の体系、そして株主総会決議の意味」(PDFファイル)

「商法の体系、そして株主総会決議の意味」(キャプチャー画像)



法律に辿り着くまでに、非常に多くのことがその前提となっていることが分かると思います。
民法や商法には「書かれていないこと」が極めて多いのです。
法律以前の前提や仮定、これらを理解しないと、条文そのものを理解できないと思います。
条文そのものを理解できないとは、「なぜそのような定めになっているのか分からない」という意味です。

「権利能力平等の原則」について一言追加します。
「人は正しく物事を判断し正しくその権利を行使するものだ」という大前提は、
結局のところ「権利能力平等の原則」の一類型と見ることもできると思います。
取引を行う当事者達は、相互に「人は正しく物事を判断し正しくその権利を行使するものだ」という前提をもって法律行為を行う、
と考えることは自然な考え方でしょうし、同時に、その考えに拠って立った上で、
取引を行う当事者達は、相互に「取引相手は平等に権利能力を有する」という前提をもって法律行為を行う、
と考えることは自然な考え方でしょう。
「人は正しく物事を判断し正しくその権利を行使するものだ」という大前提と「権利能力平等の原則」とは、やや極端に言えば、
字面こそ違うものの、同じ概念のことを違う言葉で表現しただけと言えるのではないかと思います。

 


それで、民法とその前提や仮定にまでさかのぼった説明になってしまったわけですが、話を最初に戻します。
紹介した記事(「3分の1超」の大株主とは)についてですが、
「3分の1」という数字が一体どこから出てきたのか、と本当に思うわけです。
「3分の1」という数字には何の根拠もないわけです。
記事(「3分の1超」の大株主とは)を読みますと、奥歯に物のはさまったような文章と言いますか、
どう説明付けすれば「3分の1」の説明が付くのか分からないがといった感じの文章になっています。
結局のところ、3分の1超の議決権で株主の意思を否定できること自体がおかしいわけです。
どう頭をひねっても、論理だった説明など付くはずがないのです。
端的に言えば、物事の議決には、普通決議しかなく、そもそも特別決議などない、と言わねばならないわけです。
株式会社に「少数派の乱用」も「支配株主の責務」もありません。
あるのは「何が会社の利益か」だけです。
会社の利益、それがすなわち株主共同の利益というだけなのです。
3分の1超には意味はありません。
過半数か否かが本質的に重要であるわけです。

 



また、記事には、「支配株主の誠実義務の法理」という言葉が載っています。
そして、「株主の議決権とは権利ではなく、会社に対する責務としての権限である」との商法学者の言葉が載っています。
民法(商法の前提)にも、明文の規定として、信義誠実の原則(1条2項)がうたわれています。
信義誠実の原則は、信義則とも呼ばれ、取引関係に入った者は、互いに相手方の信頼を裏切らないよう誠実に行動すべきという原則です。
この信義則は、法律を解釈するための指針となったり、個々の条文では妥当な解決を図ることができない場合に適用されます。
と同時に、民法(商法の前提)には、明文の規定として、権利濫用禁止の原則(1条3項)についても記載があります。
権利濫用禁止の原則とは、外形上は適法な権利行使に見えても、実質的に見ると社会的妥当性を欠くような場合は
正当な権利行使として許されないことをいいます。
権利濫用に当たるか否かは権利行使者の主観と当事者の利益状況を総合的に考慮して判断されます。
「信義誠実の原則」と「権利濫用禁止の原則」は、詳細な規定というより、民法の明文上の原則、という位置付けと言えます。
「信義誠実の原則」と「権利濫用禁止の原則」とを鑑みますと、「支配株主の誠実義務の法理」という考え方や、
「株主の議決権とは権利ではなく、会社に対する責務としての権限である」という考え方は理に適っているように思うかもしれません。
しかし、それらの考え方はやはり間違いです。
「信義誠実の原則」と「権利濫用禁止の原則」は、煎じ詰めれば、「取引の相手方の利益を害するようなことはしてはならない」、
という意味なのです。
「信義誠実の原則」と「権利濫用禁止の原則」ともまた、煎じ詰めれば、非常に近い概念のことを意味しているのだと思います。
翻って、株式会社と株主との関係はどうでしょうか。
株主は株式会社に対して出資をしているのです。
誠実義務だ信義誠実だなどという以前に、株主こそが真っ先に会社の利益のことを第一に考えるはずでしょう。
なぜなら、会社の利益が株主の利益だからです。
会社が倒産でもしようものなら、株式の価値はゼロになり、株主には損失しか残らないわけです。
株主が会社の利益に反することをするはずがないのです。
「信義誠実の原則」など、株式会社と株主との関係にはそもそも当てはまらない(「信義誠実の原則」以前の話だ)とすら言えるわけです。
株式会社のことは株主が決める(もちろん過半数か否か一本で)、株式会社と株主との関係はこの一言で全ての説明が付くわけです。
それから、以上の「信義誠実の原則」に関連する議論として、株主総会の定足数に関する議論があります。
株主総会には特別決議などなく本来は普通決議しかないように、
株主総会には定足数という考え方はなく、定足数に関する定めもない(必要ない)のが法理に沿った考え方だと思います。
なぜなら、株主は株式会社に対して出資をしているからです。
誠実義務だ信義誠実だなどという以前に、株主こそが真っ先に会社の利益のことをそして自分自身の利益のことを第一に考えるはずから、
株主が株主総会で議決権を行使しないということ自体が論理的に考えてあり得ないわけです。
したがって、「株主は株主総会で必ず議決権を行使する」ということを前提に商法を構築していけばそれで十分であるわけです。

 


それからもう一つ、このたびの記事には直接的には言及はありませんでしたが、
この手の議論には、支配株主が少数株主の利益を害する場面がある、という論調の主張がよくあろうかと思います。
この命題の結論は、一言で言えば、法理的には「支配株主が少数株主の利益を害することなど絶対にない」、となります。
支配株主が少数株主の利益を害することなど法理的にあり得ないのです。
なぜなら、支配株主の法的地位と少数株主の法的地位は全く同じだからです。
支配株主と少数株主との関係は、もはや取引の相手方ですらありません。
支配株主の法的地位と少数株主の法的地位は株式会社において完全に同一だからです。
株式会社と株主は取引をします。
しかし、支配株主と少数株主とは取引をしないのです。
支配株主と少数株主とは株式会社において完全に同一の法的地位にいます。
株主という法的地位です。
ですから、取引の行いようがないわけです。
株式会社においては、会社で一つの権利の主体であり、総体としての株主で一つの権利の主体です。
支配株主と少数株主という2つの株主が株式会社にいるわけではないのです。
この点が分かりづらければ、株主(総会)という「会社の機関」で一つの株主である、と考えれば分かりやすいかもしれません。
会社の取引の相手方としての株主は一人、と言えばいいでしょうか。
株式会社には株式譲渡の自由という原則がありますが、それは権利を細分化した株式を譲渡しているだけのことであって、
総体としての株主の数が増えたりするということではないわけです。
株式会社において、総体としての株主は一人だけ、と表現してよいと思います。
個々の株主は、株主総会内において持株比率に応じて議決権を行使するという文脈ではまさに株主一人一人が権利の主体なのですが、
概念的に言えば、株主総会という会社機関のみが会社と取引を行う権利を有する権利の主体であるわけですから、
株式会社全体で見れば、会社の取引の相手方という文脈では、株主総会という会社機関のみが権利の主体であり、
株主一人一人は権利の主体ではないのです。
支配株主はただ単に、その株主総会という会社機関を支配しているに過ぎません。
決して、支配株主というある株主が会社と取引を行えるわけではないのです。

 



あくまでも、総体としての株主(概念的に株主総会という言い方でもよいと思います)が会社と取引を行うのです。
会社と取引を行う権利を有するのは(権利の主体は)あくまで総体としての株主(株主総会)、
そう考えると、株式会社の概念・成り立ちに照らせば、
例えば、新株式の発行は株主割当増資(株主割当てによる株式発行)しか法理的にあり得ず(株主個々に割当てようがない)、
また、株式の払戻しも法理的に行いようがない(個々の株主と会社が取引をしていることになるから)、
ということが理解できると思います。
会社とあくまで株主総会とが取引をする(法的権利がある)、だから、既存株主(だけ)は新株式を平等に引き受けることができるのです。
なぜなら、既存株主は株主総会の構成員だからです。
株主総会の構成員ではないものが、新株式を引き受けることなど法理的にできるはずがないのです。
もちろん、株主平等の原則に照らせば、株主総会の構成員の内、一部の構成員だけが新株式を引き受けることもできません。
なぜなら、株主総会の構成員は皆平等だからです。
自己株式の取得が法理的に認められないのは、株式会社の概念に反していたり債権者保護の観点に反する側面があるからだけではなく、
会社と株主総会とが取引をしていないから、という説明ができるのだと思います。

 



「会社と株主総会とが取引をする」、そう考えると長年私の中にあったある疑問が氷解したような気がします。
長年私の中にあったある疑問とは、
「役員の選任や定款変更などに関する議決権行使及びその決議結果は不平等なところがあるのではないか?」
という疑問です。
例えば、配当金の支払いであれば、1株当たりの配当金額は全株式で平等です。
他の配当金額を希望していた株主もいるかもしれませんが、少なくとも「1株当たりの配当金額」に不平等は一切ないわけです。
配当金の支払いに関しては株主平等の原則が守られていると私は思っていました。
ところが、役員の選任や定款変更などに関する議決権行使の場合、
その役員の選任や定款変更に反対の株主もいるわけです。
その株主が希望していた役員は全く選任されませんし、その株主が全く希望していない定款変更が実施されてしまうわけです。
これでは一人の株主として、出資した意味が全くないことになるのではないか(株主平等の原則に反する部分があるのではないか)、
という疑問が私の中にあったわけです。
もちろん、物事は最後は多数決で決めざるを得ないのは確かですが、
その株主が出資している分は決議内容に全く反映されていないかのように感じる部分が私の中にあったわけです。
しかし、株主一人一人が株主個々の議決権行使により役員を選任したり定款変更を意思決定すると考えるのではなく、
株主総会が役員を選任したり定款変更を意思決定する、と考えると、この疑問が解けた気がします。
役員を選任したり定款変更を意思決定するのはあくまで株主総会だ、
個々の株主は株主総会内で持株比率に応じて議決権を行使するだけなのだ、
そして、議決権行使結果に基づいた株主の総意として株主総会が役員を選任したり定款変更を意思決定するのだ、
そう考えると、個々の株主が希望していた役員は全く選任されないことや
個々の株主は全く希望していない定款変更が実施されてしまうことは、
株式会社の概念に適うことであるし、もちろん株主平等の原則にも反しないことだ、と思えるようになりました。

 


会社に対して意思決定を行うのは、総体としての株主(株主総会)であって、個々の株主ではない、
株主総会と呼ばれるもの(会社機関)を会社と個々の株主の間に挟むと、途端に論旨・論理の流れがすっきりしたような気がします。
念のため書いておきますが、株主総会というのはあくまで会社の機関であって、法人ではありません。
したがって、民法でいう厳密な意味での「権利の主体」(権利能力者)には当然なれません。
しかしながら、商法制において、株主総会は「会社の意思決定機関」として定義されたれっきとした合議体であり、
商法制に照らせば、民法とは異なる文脈における「権利の主体」(概念的な商法上の権利能力者)であると表現できると思います。
「権利の主体」(権利能力者)に準ずる「意思決定の主体」(法的な意思決定権を持った機関)と言っていいと思います。
株主総会で決議を取りますと、商法上正式に効力を持った決議(会社はその決議結果に法的に従わなければならない)、
ということになるわけですから、株主総会は法的に正式に意思決定を行う権利を有する、と言っていいと思います。
民法上法人が観念的な権利能力者であるのと全く同様に、商法上は会社機関が観念的な権利能力者である、と表現できると思います。

「民法と法人」の関係は「商法と会社機関」の関係と全く同じである。
(The Civil Code is to a juristic person what the Commercial Code is to a company organ.)

 

今日は、「会社と株主との関係」について、様々な観点から考えてみました。
くだけた表現をすれば、商法というのは本当に総合格闘技みたいだな、と改めて思いました。
企業経営のこと、会計のこと、商法の条文そももののこと、民法のこと、法理的な物の考え方のこと、
本当に様々なことが融合した形で一つの商法ができあがっているのだなあと、改めて思いました。
今日はたくさんのことを書きましたので一言でまとめようがありません。
ですので、次の言葉を書いて今日は終わりたいと思います。


商法は民法を前提として会計という言語で書かれている。
(The Commercial Code is written in the language "accounting" on the premise of the Civil Code.)