2014年3月11日(火)
2014年3月11日(火)日本経済新聞
エドウィン支援300億円超 伊藤忠、5月メド完全子会社化に 社長派遣、立て直し
(記事)
2014年2月7日(金)日本経済新聞
エドウィン支援 伊藤忠に要請へ
(記事)
2014年3月11日
伊藤忠商事株式会社
エドウイングループとのスポンサー契約締結について
ttp://www.itochu.co.jp/ja/news/2014/140311.html
2014年3月11日
株式会社エドウイン・ホールディングス
伊藤忠商事とのスポンサー契約締結のお知らせ
ttp://news.edwin.co.jp/news/20140311.html
伊藤忠がエドウインを完全子会社に、5月めど−スポンサー契約を締結
3月11日(ブルームバーグ):伊藤忠商事 は11日、経営再建中の国内最大手ジーンズ製造・販売業者の
エドウイン・ホールディングス
(東京都荒川区)の全株式を取得することで合意し、スポンサー契約を結んだと発表した。
伊藤忠は5月末までに株式を取得するとしているが、取得額は開示していない。エドウインは伊藤忠が国内外に持つネットワークを活用して
より低コストで素材を調達できるメリットがあるほか、海外向けにも販路拡大を狙う。伊藤忠から社長や役員も派遣する。
13年5月期の売上高は500億円だった。
共同通信によると、伊藤忠はエドウインが実施する100億円超の増資を引き受けるほか、少額債権の買い取りも含め約360億円を融資する。
エドウインは2012年8月に為替デリバティブなどで巨額の損失が発覚。再建を図るため、
昨年11月に私的整理の1種である事業再生ADR(裁判以外の紛争解決)の利用申請を行い、
伊藤忠がスポンサー選定の優先交渉権を得ていた。
伊藤忠はエドウインとは40年来の取引関係にあるほか、メーカーとしての技術を評価しており、本業は順調と判断して支援を決めた。
(ブルームバーグ 更新日時: 2014/03/11 13:11
JST)
ttp://www.bloomberg.co.jp/news/123-N296766K50YM01.html
経済産業省
早期事業再生について
ttp://www.meti.go.jp/policy/jigyou_saisei/index.html
事業再生ADR制度の概要(PPT資料)(PDF形式)
平成23年7月 経済産業省
産業再生課
「産業活力の再生及び産業活動の革新に関する特別措置法」に基づく 事業再生ADR制度について
〜早期事業再生のために〜
ttp://www.meti.go.jp/policy/jigyou_saisei/gaiyo_adr_r3.pdf
事業再生ADRのポイント
(2/15ページ)
(参考)制度設計の経緯
法的整理と私的整理の比較
(4/15ページ)
「倒産概念の整理」
【コメント】
事業再生ADRについての解説資料なのですが、「私的整理」手続を理解するよい資料だと思います。
端的に言えば、私的整理手続においては、「対象者の全員一致による決議」が必要、と書いてあります。
事業再生計画をいくら立案しても、「当事者全員の合意がなければ計画は成立しない。」と書いてあります。
この点、私的整理とは異なり、
法的整理であれば、「裁判所での手続により、債権者の多数決を得た計画が強制力を持つ。」と書いてあるわけです。
「対象者の全員一致による決議」、「当事者全員の合意」、という文言を見ますと、、
「『私的整理』というのは簡易な手続きかと思いきや、実はかえって非常にハードルが高い手続きなのだな」
と感じるかと思います。
「多数決」と「満場一致」は極端に違うのは確かかと思います。
この違い(法的整理と私的整理の違い(多数決と満場一致の違い))について書き出すと長くなるのですが、
簡単に書きますと、この違いは何から生じているのかと言えば、
端的に言えば、「私的整理には法的拘束力はない」という点に原因があるわけです。
「私的整理には法的拘束力はない」、だから、「満場一致」が必要だ、という流れ(法理的背景)があるわけです。
「法的拘束力」があるのなら、「多数決」でよいのです。
私的整理では、事業再生計画に反対の債権者がいる場合、その債権者を事業再生計画に従うよう、拘束できないのです。
だから、論理的な必然的な流れとして、私的整理では(結果として)「満場一致」が必要になってくる、という理屈になるわけです。
「私的整理には当事者全員の合意が必要である。」とはどの法律のどの条文にも書かれていません。
しかし、論理の流れから、必然的に「私的整理には当然に当事者全員の合意が必要となる。」と決まるのです。
事業再生計画に反対の債権者を縛れない、これが私的整理には「満場一致」が必要となる論理的根拠です。
これは条文解釈論ではありません。
法理的思考です。
と、ここまで書くと、誰もが気付くかもしれません。
「私的整理って、おかしくないか?」と。
多分その感覚は正しいと思います。
「満場一致は不可能だ、だから、法的整理なのだ。」と。
もちろん、法的整理に及ぶ理由は、会社財産の保全もあるわけですが。
また、「対象者の全員一致による決議」の「対象者」、そして、「当事者全員の合意がなければ計画は成立しない。」の「当事者」、ですが、
この文脈の「対象者」や「当事者」には、債権者の他に実は「株主」も含むわけです。
なぜなら、私的整理では議決権は停止されないからです。
例えば、「100%減資を実施するというその事業再生計画には従えない」、そう株主が主張したらどうするのでしょうか。
私的整理では、株主の意思に反する100%減資は実施できません。
「株主は100%減資には絶対賛成しない、だから、法的整理なのだ。」と。
議決権が停止すれば、株主の意思は全く関係がなくなります。
もちろん、法的整理に及ぶ理由は、会社財産の保全もあるわけですが。
究極的なことを言えば、「私的整理」などないのかもしれません。
あるのは「法的整理」だけなのかもしれません。
税法との関連で言えば、税法上はおそらく、「私的整理」であろうが「法的整理」であろうが、
債務者が清算したのであれば貸倒損失は損金算入可能、清算していなければ貸倒損失は寄付相当(損金算入できない)、
という判断基準を設けているだけなのだと思います。
税法は、「私的整理」か「法的整理」かは全く問うていないと思います。
ただ、税法上の議論ではなく、ここでは、
「そもそも私的整理ということがあり得るのかどうか」という、言わば商人の経済合理性の話になるかと思います。
清算型ではなく再建型の私的整理であれば、もちろん株主は反対しないでしょう(むしろ大賛成でしょう)。
しかし、そんな私的整理を考える債権者は一人もないでしょう。
例えば債権者=親会社という極めて特異な状況を想定すればあり得るかもしれませんが、一般論としてはあり得ない状況でしょう。
また、仮に多くの債権者は事業再生計画に賛成でも、一部の債権者は事業再生計画に反対するかもしれません。
逆に、再建型ではなく清算型の私的整理であれば、株主は絶対に最後まで反対するでしょう(自分の出資が全てゼロになるわけですから)。
清算型だろうが再建型だろうが、私的整理では全く事が進まないのではないか、という結論になるわけです。
ですから、清算型だろうが再建型だろうが、何らかの会社の整理を行うという場面では、法的整理という手法を使うしかないのだと思います。
他にも例えば次のような場面が考えられます。
ある再建型事業再生計画が満場一致で決議されたとします。
満場一致ですから、無事全債権者が債権額の一律カット(例えば全債権者が債権額の1割を債権放棄する)に応じた(実施した)とします。
ところが、実はこの事業再生計画は株主と一部の債権者(と会社)が仕組んだ謀略であり、
一部の債権者は事業再生計画通り債権放棄を行ったが、謀略を企んだ債権者は債権放棄を行っておらず、会社から全額弁済を受けた、
という場面が考えられます。
この場合、債権放棄を行った債権者は株主と一部の債権者(と会社)に出し抜かれたことになるわけです。
債権放棄を行った債権者は自分以外の全債権者が債権放棄を行ったものと信じ込んでいるかもしれません。
しかし、会社は通常通り事業を続けていますから、その債権者は自分が騙されたことに最後まで気付かないかもしれないわけです。
そういった「債権者が債権を放棄するに際しての会社財産(債務額も含む)の透明性」というのが、私的整理では全く担保されないわけです。
法的法理であれば、裁判所の下、「会社財産(債務額も含む)の透明性」も担保されますし、
万が一そのような謀略が行われれば、担当の管財人は、不当に弁済を受けた分は会社に返すよう、命令を出せるかと思います。
しかし、私的整理では、会社財産を管理(保全その他)する人も不正が行われた場合に返済命令を出す人もいないわけです。
私的整理の場合、自分が出し抜かれたことに気付いた債権者は、何らかの損害賠償の訴えを起こすことはできるとは思います。
債権を全額弁済するようにとの訴えになるかと思いますが、訴える相手は基本的には会社になるのだろうか、という気もしますが、
謀略を企んだのが他の債権者だとすると、その債権者を訴えるということも可能なのかもしれませんし、
取締役その他の役員を訴えるということも可能なのかもしれません。
詳しくは分かりませんが、とにかく、その場合の訴えは言わば”私的な訴訟の提起”ということになるわけです。
”私的な訴訟の提起”という言葉の意味は、「法的整理であれば当然に管財人が代わりに行ってくれているはずだ」という意味です。
逆から言えば、そのような債権者間もしくは株主と債権者間のトラブルを避けるために、法的整理という手法を使うのだ、
という言い方ができるかと思います。
裁判所というのは、法律トラブルを裁くためにあるのではなく、法律トラブルを未然に防ぐためにあるのだ、と言ってよいかと思います。
というわけで、理詰めで考えていくと、私的整理が行われる場面というのは全くないのではないかと思われます。
そもそもの話をすれば、「会社の整理」と言えば本来は「法的整理」しかなかった、と言ってよいのかもしれません。
例えば高齢の経営者が会社の後継者がいないということで円満に自主廃業する(会社の債務は十分に全額弁済可能もしくは債務はない等)、
という場面もあると思います。
その場合であっても、会社の清算は実は一定の簡易な法的整理(商法上の会社の整理)によらなければならなかったのではないだろうか、
と私は思っています(この点に関してはまだ勉強が不十分なので間違っているかもしれませんが)。
その推論の理由は債権者保護です。
会社が清算されてしまいますと債権者はどうやっても救われないため、間違いなく全債権者に対する弁済が完全に完了していることを
透明性をもって明らかにするために、会社の清算は裁判所の下で法的整理によらなければならなかったのではないかと思います。
会社がいくら「弊社に債務はありません」と主張しても、それは会社が勝手に言っているだけかもしれないわけです。
債権者が知らないうちに会社が清算されてしまっていた、などということが起こり得るわけです。
そういったことを避けるために、債権者保護の観点から、
会社の清算は全て法的整理によらなければならなかった(裁判所の下で行う必要があった)のではないか、というふうに私は思っています。
つまり、会社の設立は任意にできましたが、会社の清算は任意にはできなかったのではないか、と思うわけです。
私のこの推論が正しいかどうかは分かりませんが、私が今商法を定めるなら、そのような定めにしたいと思います。
ちなみに私は法学部出身ではありません。
しかし、会計も法律も基本的には自分で学びました。
大学時代というのは、自分が好きな勉強を自分が好きなように自由に行う4年間です。
逆に言えば、「自分自身がしっかり勉強する」ということをしないのであれば、大学には進学しても何の意味もないのです。
大学時代というのは、大学に通う4年間ではありません。
People study various province through each own diligence.
Seldom do
curricula of their universities gratify their respective scholastic
curiosity.
人は一人一人の勉強を通じて様々な領域について学ぶのだ。
大学の教育内容が自分の学問的好奇心に合致していることはめったにない。