2013年12月18日(水)



昨日のコメントの文言が間違っていました。


>合併 → 資本も負債も資本も連続している → 事業も株式も連続しているので、合併相手の上場審査を経ているなら上場維持で構わない。
>株式移転 → 資本も負債も資本も連続していない → 根底から別の株式なのだから、当然上場廃止。もはや上場維持云々以前の話。
>全事業の新設分割 → 資本と負債は連続していないが資本だけは連続している → 株式だけは連続してるが事業は全く連続していない。難しい。

と書いてしまいましたが、これは文言が間違っていました。
正しくは、

合併 → 資産も負債も資本も連続している → 事業も株式も連続しているので、合併相手の上場審査を経ているなら上場維持で構わない。
株式移転 → 資産も負債も資本も連続していない → 根底から別の株式なのだから、当然上場廃止。もはや上場維持云々以前の話。
全事業の新設分割 → 資産と負債は連続していないが資本だけは連続している → 株式だけは連続してるが事業は全く連続していない。難しい。

となります。
それぞれの右矢印(→)の次の「資本」は「資産」の間違いです。
前後の文脈等から、分かる人が見れば一瞬で「この資本は資産の間違いだな」と分かるかと思いますが、
ただの誤植と言えば誤植なのですが、極めて本質的な部分に誤植が生じてしまいました。
お詫びして訂正いたします。

 

 


M&Aのプレミアム縮小の謎―買い手企業は価格引き上げに消極的
(ウォール・ストリート・ジャーナル 2013年 11月 27日 17:31 JST)
ttp://jp.wsj.com/article/SB10001424052702304471504579223282624196854.html

 


【コメント】
非常に長い記事ですが、読んでいて気になった点のみ引用してコメントします。

 

>今や株価は上昇傾向にあり、買収側にとっては有利な状況にある。

これは反対でしょうか。
株価が下落傾向にある場合に買収側にとっては有利な状況なのではないかという気がしますが。

 

>プレミアムが小幅にとどまっている理由としては、株価の高騰が挙げられる。

これが正しいなら、株価水準に関わらず、全株主には売却してもよいと考えている価格がはじめからあることになりますが。
その株式の取得価額は株主によって異なります。
高い価額で買った人もいれば低い価額でかった人もいるわけです。
低い価格で買った人はプレミアムなしで十分と感じるのかもしれませんが、
高い価格で買ってしまった人はさらに多くのプレムアムが欲しいと思うのではないでしょうか。

 


>株価がすでに上がっているので買い手側は売り手にプレミアムの縮小を受け入れてもらいやすくなっている

「株価が上がっている」というのは低い株価の時に買った人から見ればそうなのであって、
たった今株式を買った人にとっては全く株価は上がっていないわけです。
短期間に急速に株価が上がっている場面と言うのは、多くの投資家が大量に株式を買い進めている場面です。
低い価格の時に株式を買った株主は、もう売却してしまっているかもしれないわけです。
もちろん、普段は全く売買しない長期保有の株主も一定数以上いますので、株主の全員が高い株価で買ったわけではないわけですが、
買収に応じるか否かの交渉の場面で声が大きいのは最近株式を買い集めたばかりの大口投資家だったりするわけです。
もっと多くのプレミアムを付けるべきだと要求するのは、最近の高い株価で株式を買った株主であったりするわけです。
株価がすでに上がっていることはおそらく、小さなプレミアムを容認する理由にはなっていないでしょう。
また、長期保有株主というのは経営に関与することが目的であって、高い価格で株式を売却することは相対的に重要視していないと思います。
もちろん、株式を売るという場面ですと高く売れるに越したことはないわけですが、
何と言いますか、短期売買目的の株主に比べると、プレミアムをたくさん付けることに対する要求度が小さい気がします。
これはそれぞれの株式の取得価額が理由なのではなく、株式の保有目的そのものの違いが理由なのかもしれません。
プレミアムが小さくて済むか否かは株価が上昇しているか否かではなく、
短期売買目的の大口投資家がおらず長期保有目的の株主が大勢を占めているか否かで決まる気がします。

 



最後は、「そもそもプレミアムとは何か」という議論に行き着く気がします。
この記事は、上場企業の買収の話をしているわけでして、
いざ株式を取得するとなると、いわゆる株式公開買付を行うことを前提としているのだと思います。
買収価格=買付価格、ということだと思います。
それで記事には、

>買い手候補が複数いる場合は、プレミアムが拡大することが多い

といったことが書かれているのだと思います。
まあ上場企業の株式だけなく、どんなものでも、買い手候補が複数いる場合は価格というのは上がるものなのでしょうが。

買い手候補が複数いる場合、買付価格の引き上げ合戦が行われることがあります。
最終的な買付価格は当初の買付価格よりもはるかに高くなってしまった、ということも現にあります。
買い手からすると、もちろん買付価格を上げざるを得ないのは望ましくないことなのですが、
しかし考えてみると、株式公開買付ではなく市場で買い進めていった場合も株価はどんどん上昇するわけです。
そして、市場でその時の価格で買い進めていった時は、どんなに株価が上がってもそれはプレムアムとは言わないわけです。
もちろん、株式公開買付という制度がある以上、それを利用することは何ら問題ないわけですが、
株式の取得方法によって、同じ価格なのに、プレミアムが付いていると言ったりプレミアムは一切ないと言ったりすることになるわけです。
上手く言えませんが、プレミアムが何か確かなもの、客観的なもの、明確なもの、であるのなら、
株式の取得方法によって、プレミアムが変わるということはないのではないか、と思ってしまったわけです。
これは完全に概念的なもの、イメージの世界の話になるのですが。
一定のプレミアムを付けて株式公開買付を行った場合よりも、市場で買い進めていった場合の方が合計の株式取得額は大きくなると思います。
なぜなら、最後の最後は株価が青天井になると考えられるからです。
しかしそうであるならば、最初の”一定のプレミアムを付けて株式公開買付を行った場合”というのは、
実は全くプレミアムなど付けておらず、むしろディスカウントをして株式公開買付を行ったことに相当しないだろうか、と思いました。
株主全体の富(株主価値といったりすると思います)を考えると、株主からすれば、市場で買い進めていった場合の方が価値は大きいわけです。
市場で買い進めていく場合は確かに最後の最後は株価が青天井になります。
しかし、それが本当の株価だったのでは?それが需給関係に基づく本来の株価だったのでは?、という考え方があるように思いました。
株式公開買付という手段を取ったので、言わば株主の本来の価値を毀損する形で、株価が上昇せずに済んだだけなのだ、と。
こういったことを考えていきますと、プレミアムというのは、そんなものは果たしてあると言えるのかどうか、
トータルで言えば本当はディスカウントだったのではないか、という気がしまして、
「プレミアムとは何か」という問いには本当は答えなどそもそもないのではないか(せいぜい「買付価格−現在の株価」の意味のみ)、と思いました。

 

 



むかしむかし、あるところに、日本の会計の将来を憂える二人の青年がいました。
お兄さんの名前はチルチル、妹の名前はミチルと言いました。
クリスマスの前の夜のことです。
二人のへやに、金融庁の使いがやってきて言いました。
「日本の会計が、今、ピンチでな。あるべき連結財務諸表の開示方法を見つければ荒廃は改善するんじゃ。
どうか二人で、理想の開示方法を見つけてきておくれ」
「うん、わかった」
チルチルとミチルは仕訳帳を持って、理想の開示方法を探しに旅に出ました。
チルチルとミチルはいろんな国に財務情報開示を視察に行きました。
どこの国にでも連結財務諸表はありましたが、日本の連結財務諸表の作成方同様、みんな理論上矛盾がありました。
親会社説であろうが経済的単一体説であろうが、きれいに説明できる連結財務諸表は世界のどこにもありませんでした。
二人は途方に暮れました。
一番理想的な連結財務諸表とは一体どのような財務諸表なのでしょうか。
「さあ、起きなさい。今日はクリスマスですよ」
お母さんのよぶ声が聞こえました。
目を覚ますと、二人は自分たちの部屋のベッドの中にいました。
理想の連結財務諸表を探す旅は、終わったのです。
チルチルとミチルは、とうとう理想の連結財務諸表を探し出すことが出来ませんでした。
でも、チルチルとミチルが、ふと連結決算の手順を見ると、中に連結精算表が入っているではありませんか。
「そうか、ぼくたちのいつも作成している連結精算表が、ほんとうの理想の連結財務開示だったんだ。
理想の連結財務諸表は、連結決算の手順の中にそのままあったんだね」
二人はお互いに顔を見合わせて、ニッコリしました。
二人は金融庁の使いに、連結精算表を開示すればそれが一番情報量が豊富な計算書類なのであって、
連結財務諸表を特段貸借対照表や損益計算書に似た形に作り上げる必要はない、
連結精算表そのものが本当の連結財務諸表である、ということを教えてやったのです。
おしまい

 

【解説】
「幸せの青い鳥」と言いますが、連結財務諸表を開示するのではなく、
ただ単にはじめから連結精算表を開示すればそれで済むだけの話だった、という寓話です。