2013年11月15日(金)



【水道橋駅前会計教室 公認会計士試験対策 特別講座 合格発表直後答練】


第1問
次の貸借対照表と株主構成を見て、以下の問いに答えなさい。


「貸借対照表及び株主構成」


【問題】
さてここで問題です。
この時、各株主の保有議決権の数はいくつでしょうか。

 

 

 


 



【模範解答】
株主A・・・0個
株主B・・・1個
株主C・・・2個
株主D・・・3個
株主E・・・4個
株主F・・・5個
株主G・・・6個
株主H・・・7個
株主I・・・8個
株主J・・・9個

 

 


【考察】
足し算をすると、株主が各保有する議決権数の合計は、45個です。
会社が発行している株式数は54株であり、
したがって会社の議決権の総数は54個だったはずですが、
議決権9個はどこへ行ったのでしょうか。
例えば、株主総会における定足数や決議要件は、
会社から見た議決権の総数である54個を基準に判定していくべきなのか、それとも、
株主から見た議決権の総数である45個を基準に判定していくべきなのか、という問題が生じます。
会社法上はおそらく、「会社から見た議決権の総数である54個が基準」なのだと思います。
しかし、株主からすると、消えた9個の議決権は、議決権行使したくても行使できないのです。
この問題はどう考えればよいでしょうか。

 

 


例えば、株主総会において、株主Aと株主Bが協力して議決権行使をすることにしました。
この時の「株主Aと株主Bの議決権の数」はいくつでしょうか。


株主Aの議決権数は0個、株主Bの議決権数は1個、
したがって、「株主Aと株主Bの議決権の数」は、
0個+1個
=1個
となるわけです。

ところがこれには他の見方があります。
それは議決権の数を株式数で考えることです。
株主Aの保有株式数は0.9株、株主Bの議決権数は1.9株、
したがって、「株主Aと株主Bの保有株式数の合計数」は、
0.9株+1.9株
=2.8株、
よって、「株主Aと株主Bの議決権の数」は「2個」、
となるわけです。


会社法上は、株主総会において、議決権行使を協力するため、両者で議決権の数を足して考えることは株主間の意思により全く自由です。
しかし、会社法上は、両者の株式数を足すというような考え方はできないと思います。
株主Aが保有している株式はあくまで株主Aが保有している株主であり、株主Bが保有している株式はあくまで株主Bが保有している株式である、
という考え方になりますから、「株主Aと株主Bの保有株式数の合計数」は、合計2.8株、とはならないわけです。
仮に2.8株分の議決権を行使したいのなら、一方から他方へ株式の譲渡を行い、どちらかの株主のみが2.8株を保有するしかないと思います。
実態は事実上同じなのに、株式を別々に保有している場合と一人で保有している場合とで行使できる議決権の数が変わってしまう、
端数株式とはこういった矛盾も生じさせてしまうのです。

 


上記の説明を踏まえた上で(上記の説明を理解のヒントにして)、端数株式についてさらに議論を深めたいのですが、
私は「0.5株+0.5株=1株ではないのではないだろうか」と思っているわけです。
この疑問は「そもそも株式というのは足し算できないものなのではないだろうか」という疑問と同じだと思ってもらってもいいと思います。
例えば、「1株と1株を持っていたら合計2株持っている」と言うわけですが、
それはあくまで「同じ株式が合計2つある」という意味でしょう。
「1株と1株が何か融合して『1つの2株』になる」わけではありません。
「1株と1株があるから合計2株ある(=株式が2つあることには変わりない)」というだけです。
「2株」という時には、「1株が2つある」という意味でしょう。
このことを踏まえると、「0.5株+0.5株=1株ではない」となるわけです。
「0.5株が2つあるだけ(=株式が2つあることには変わりない)」という状態になるわけです。
つまり、0.5株が2つあっても1株にはならないのではないだろうか、と思うわけです。
株式会社制度の特長の一つは、
出資者は出資した持分(株式)を小口に分けて他の投資家等に売却して資金の回収を図ることができることですが、
それは1株1株が言わば独立しており、ただ1株だけで意味があるからこそ可能なことであるわけです。
0.5株には意味はないわけです。
また、手元の教科書には、
「株式とは、細分化された均一な割合的単位の形をとる、株式会社の社員の地位のこと」
と書かれています。
私は「株式」とはまさにこの説明の通りではないかと思いますが、
端数株式となりますと、0.9株であったり0.5株であったり0.3株であったりと、
株式の単位が全く均一な割合になっていないことになります。
「株式の単位は均一な割合」しかないのなら、株式には「1株」しかないわけです。
0.5株などありません。
そして、株式には「2株」すらないのです。
あるのは「1株が2つ」です。
株式を「1株」より大きく分けることもできませんし、また、株式を「1株」より小さく分けることもできません。
「0.5株+0.5株=1株ではありません」し、「0.9株+1.9株=2.8株でもありません」。
1株と1株は、「1株+1株=1株が2つ」という意味で”2株”です。
「2株が1つ」ではないのです。

 


株式会社Xが株式会社Yを株式交換で完全子会社化するという場面を考えてみましょう。
株式交換比率は、

Y株式1株に対して、X株式を1.5株割り当て交付する

だとしましょう。
この時、Y株式を5株保有していた株主はX株式を何株割り当て交付を受けるのかと言えば、
単純に考えると、
1.5X株/Y株×5Y株=7.5X株
となるわけです。
実務上は確かにこのように株式の割り当て交付を行っていくわけですが、
上記の議論を踏まえると、株式交換に際してこのY株主が受け取るX株式は、
「1.5株が5つ」
となるわけです。
7.5株ではないわけです。
議決権の個数で言えば、この旧Y株主が保有する株式会社Xの議決権の個数は「5個」であるわけです。
「7個」ではないわけです。
「X株式0.5株×5」の分は、”切り捨てられる”や”カウントされない”といった表現とは少し違うでしょうが、上手く言えませんが、
上記の議論を踏まえると、「株式は足し算できないのだから2.5株分保有しているということにはならない」、
という考え方になるのだと思います。
もちろん、端数株式という考え方自体がおかしいわけですから、「X株式を1.5株割り当て交付する」と言っている時点でおかしいわけですが。


 


この議論を最後の最後まで深めていきますと、株式交換に限らず、合併の場面でも会社分割の場面でもどんな組織再編その他の場面でも、
究極的には「何かの対価を株式とする」ということ自体が不可能である、という結論に行き着くと思います。
その理由は端的に言えば「株式の価額は確定しているからだ」となる思います。
株式の価額を簿価に求めるにせよ市場株価に求めるにせよ、株式1株の価額自体は確定しています(確定していないなら対価にならない)。
その確定している株式の価額に柔軟性を持たせようとすれば、端数株式というものを考え付く以外ないわけですが、
今まで議論してきましたように、株式というのは最小単位が1株であり、株式を1株未満に割ることなど(本来は)できないのです。
株式の価額は確実性・確定度合いが低いとは決して思いませんが、「対価の柔軟性」という点においては現金がはるかに優れています。
株式を対価とする場合、株式の価額の最小価額は文字通り「株式1株の価額そのもの」ですが、
現金を対価とする場合、現金の価額の最小価額は文字通り「1円」です。
株式を1株未満に割ることなどできない以上、何かの対価は現金以外考えられない(現金以外は対価の支払いが不可能)、
となろうかと思います。


 



旧商法においては、合併の対価は存続会社の株式のみと定められていましたが、
今から思うとあれはひょっとしたら上場企業同士の大型合併を推進せんがための政策的思惑があったからかもしれません。
旧商法において合併の対価は存続会社の株式のみと定められていた理由としては、
合併は消滅会社の権利義務を包括的に存続会社に承継させるわけですから、
消滅会社の株主にとっては全ての資産負債の承継に伴い出資が存続会社へ継続していると見なされるからである、
という説明が一般になされていたかと思います。
これはこれで確かに一定の合理的説明にはなっているとは思います。
権利義務を一つも失くすことなく二つの法人が文字通り一つの法人になるわけですから、
株主もそのまま同じ法人の株主になる、というのはむしろ自然な考えかもしれません。
それはそれで確かに筋は通っているとは思います。
しかし同時に、消滅会社は法律的にはまさに消滅しているのもまた事実であるわけです。
存続会社は権利義務を包括的に承継したというだけのことであって、存続会社の株主と消滅会社の株主とはそもそも法的には完全に別である、
という考え方もまたあるわけです。
旧商法における営業譲渡の対価は実務上現金であった(旧商法上は対価の種類の定めはなかったと思います)わけですが、
譲渡人の営業の大部分を移転させる場合と譲渡人の営業を包括的に移転させる場合とでどれだけの差異があったのかを考えると、
合併の対価は存続会社の株式のみとの定めに対する理論的根拠は強いものではなかったかもしれません。
まあ実務上はこの「包括的に」の文言が極めて重いものがあるのだと思いますので、
瑕疵があった場合に備えて、消滅会社の株主にも一定の責任を取らせる(言わば人質)という意味では、
やはり消滅会社の株主には存続会社の株主になってもらうべきかもしれませんが。
実務上の法律面その他のことを考えると、合併の対価は存続会社の株式のみとの定めにはやはり合理性があるのだとは思いますが、
その定めの代償として、端数株式が旧商法に誕生してしまった、ということなのかもしれません。
裏を返せば、改正以前の合併の定めが旧商法になかったころには、旧商法には端数株式の定めもなかったのではないかと思います。
合併の定めと端数株式の定めは同時だったのではないだろうか、と思います。
正確なところは旧商法の改正の歴史を紐解いていけば分かることですが、
端数株式という考え方は株式そのものの概念をも揺るがしかねないほど根本的に矛盾をはらんだものであるため、
極めて大きな改正と同時に旧商法に導入されたものだったに違いない、と推論した次第です。


 



一番最初の「貸借対照表及び株主構成」に戻ります。
会社の株主資本合計額は54百万円です。
この株主資本の全てが平等に10名の各株主に帰属しています。
そして発行済株式総数は54株ということで、
「1株当たりの株主資本額」は54百万円÷54株=1百万円、ということになります。
ここで私は昨日、

>仮に端数株式というものがあるとすれば、株主に帰属していない株主資本が一部存在することになると思います。

と書いたわけですが、
では株主Aには、1百万円×0.9株=0.9百万円株主資本が帰属しているかというと、していないわけです。
なぜなら株主Aには議決権はなく配当を受け取る権利もないからです。
株主Aは株主資本に対して何もできないわけです。
株主Aに帰属している株主資本額は0円です。
しかし、貸借対照表には0.9株分の株主資本が現に載っています。
同じ様に考えていくと、株主Bには株主資本は1百万円分しか帰属しておらず・・・、となり、
合計9百万円分が株主に帰属していない株主資本となります。

この9百万円の資本は一体誰に帰属しているものなのでしょうか。
誰のものでもないという考え方は株式会社にはないと言ってもいいですし、
会社の残余財産の請求権は最後は株主のみにあるという考え方を応用すれば、
誰に帰属しているわけでもない資本は煎じ詰めればやはりいずれかの株主に帰属していると考えることができるかもしれません。
すると、株主の保有株式数ではなく株主の保有議決権の個数で帰属金額が決まる、という考え方が出てきます。
株主にとっての議決権の総数は45個です。
したがって、「議決権1個当たり株主資本額」は54百万円÷45個=1.2百万円、となります。
このように考えていくと、株主Aに帰属している株主資本額はやはり0円、
株主Bに帰属している株主資本額は1.2百万円、株主Cに帰属している株主資本額は2.4百万円・・・、
となり、このように考えると一応全株主資本が(最大限)平等に株主に帰属している、となります。
議決権で帰属金額を決めると、株主に帰属していない株主資本はない、とはなるわけですが。
株主Aに帰属している株主資本額は0円になりますが、今度は「株主Aは会社の株主なのか?」、という議論が新たに生じてしまうでしょう。


 



株主資本はある、しかしそれは株主に帰属していない、となりますと、
これは「株主資本が株式の価値を表す」という株式に関する根本の概念を揺るがすことになってしまうわけです。
株主資本の全てが払い込み資本だと考えると、あたかも、株主は会社に0.9株分資本を払い込んだが、
議決権はなく配当を受け取る権利もなかった、という状況になるわけです。

「資本を払い込んだのに、議決権が発生しないのは 重大なる『払い込み詐欺』!」


の恐れありといったところでしょうか。
この問題の根本原因は煎じ詰めれば端数株式にあるわけです。
端数株式のせいで、議決権がない株式というものが誕生してしまい、
結果、議決権の数や株主資本の帰属に問題が生じてしまっているわけです。
私がいつも、「端数株式は『数値計算上のみある』」と言っているのはこういうわけなのです。


以上長くなりましたが、旧商法上や現会社法上に確かに定めはあるものの、
「端数株式というのは概念的にも法律的に存在しない」という点について論じてみました。

 


 



今日は公認会計士試験の合格発表だったようです。
不合格だった人は私が主宰している「水道橋駅前会計教室」に通ってみて下さい。
私の公認会計士試験対策講座を受講すれば、落ちない限り必ず合格します。


私も資格の学校に通っていた日々を思い出します。
資格の学校の自習室はお正月休み以外は毎日開いていたと思いますが、
クリスマスの時だけは自習室の席が妙に空いていたのを覚えています。

「落ちてしまえ。」


私としましては、クリスマスも何も関係なく毎日勉強を頑張れたこと自体が、
今の私の経営や会計に対するちょっとした自信につながっているように思います。

 

各種資格の勉強だけでなく、最近の中学生・高校生は本当に勉強しなくなったと思います。
私が中学生・高校生のころは、「受験生には盆も正月もありません」という感じで必死になって勉強したものでしたが。
受験勉強を一生懸命に頑張った中学校時代や高校時代のことを私は本当に誇りに思っています。
勉強を頑張らなかった中学校生活・高校生活がそんなに充実しているとは私には思えません。
「暇な高校生活だった」、これが人生の中で一番くだらないと思います。
受験勉強には決して害悪などなく、それどころか正反対に、人生を長い目で見れば必ずプラスになります。
どのような道に進むにせよ、中学生・高校生は受験勉強を毎日頑張って欲しいと思います。