2013年9月29日(日)
2013年9月29日(日)日本経済新聞 公告
第107期決算公告
立山酒造株式会社
(記事)
【コメント】
昨日の決算公告と似たような事例ですが。
利益剰余金の内訳の中で、
>(うち当期純利益) | (12)
の記述はどこにかかるのかが気にならないわけではないのですが、この場合はほとんど誤解を生むことはないでしょう。
当期純利益12百万円は、「その他利益剰余金」の金額の一構成要素だ(したがって、当期純利益12百万円は当然利益剰余金の金額の一構成要素だ)、
というのはさすがに誤解を生じさせようがないことでしょう。
数字がカッコで囲まれているので、例えば最終損益は実は「当期純損失」であり、最終損益は12百万円の赤字(当期純損失が12百万円)だ、
例えば仮に最終損益がプラスマイナスゼロなら利益剰余金(ここでは=その他利益剰余金)は417百万円だった、などと解釈するのは、
さすがに無理やり違う意味だと悪意を持って難癖でも付けるつもりでもない限り、不可能な解釈でしょう。
金融商品取引法に基づく決算短信や有価証券報告書に記載する財務諸表及び連結財務諸表で使用すべき勘定科目や表示形式は、
「財務諸表等規則(財務諸表等の用語、様式及び作成方法に関する規則)」などに定められていますが、
会社法に基づくこういった公告(決算公告)などに記載する財務諸表で使用すべき勘定科目や表示形式は、
「会社計算規則」(平成18年2月7日法務省令第13号 最終改正平成23年11月16日法務省令第33号)に定められています。
この「会社計算規則」の「第6編 計算書類の公告等」の「第2章 計算書類の要旨の公告」に具体的な表示方法が定められていまして、
この中に「第3節 損益計算書の要旨」がありまして、そこの「第143条第7項第11号、第12号」に、次のように書いてあります。
>十一 当期純損益金額(零以上の額に限る。) 当期純利益金額
>十二 当期純損益金額(零未満の額に限る。) 当期純損失金額
つまり、勘定科目名として「当期純利益」を使用していているということは、当期純損益金額は零以上の額であったことを意味しているわけで、
最終損益(当期純損益)は実は「当期純損失」であった、などという解釈は成り立たないわけです。
さてここでふと思ったことがあります。
先ほど、”(うち当期純利益)”の記述に関して、「この場合はほとんど誤解を生むことはないでしょう。」と書きましたが、
それは、当期純利益の金額は利益剰余金(の中の「その他利益剰余金」の中の「繰越利益剰余金」)に加算される形で財務諸表が作成される、
ということが分かっているから誤解を生むことがないわけです。
仮に、当期純利益の金額は利益剰余金に加算される形で財務諸表が作成されるということが分からないのだとすれば、
ひょっとすると、”(うち当期純利益)”の記述を見て、当期純利益の金額は資本金や資本剰余金に加算される、と思ってしまうかもしれません。
もしくは、当期純利益とは貸借対照表の勘定科目の一つだと誤解してしまうかもしれません。
当期純利益とはあくまで損益計算書の勘定科目です。
”(うち当期純利益)”と記載してあるのは、金額面では繰越利益剰余金に対しそれだけのインパクト(数値)がありました、
と債権者等に対して開示しているだけのことであって、決して当期純利益自体が貸借対照表の勘定科目であるわけではないわけです。
結果として損益計算書の当期純利益の金額もこの記述により分かる、というだけなのです。
何が言いたいかと言いますと、「誤解を生じない」もしくは「当然にそうであると誰にも分かる」ためには、
一定度・一定範囲の知識を関係者全員持っていることが暗黙の前提になっている、ということです。
例えばこのたびのように、会計の知識がなければ財務諸表の意味は分からない(もしくは誤解を生じさせてしまう)わけです。
このことは会計に限りません。
法律も全く同じだと思います。
例えば、日本の法律は日本語で書かれていますが、それは日本の法律が適用される範囲の人間は当然日本語を理解できる、
ということを実は大前提にしている、と言えるわけです。
そして、属地主義ということは、その人の属性に拠らない、という意味であるでしょうから、
言語面の障害もしくは不勉強が原因で悪気はなく本当にその法律を知らなかったのだとしても、等しく裁かれてしまう、
という意味でもあるわけです。
例えば、アメリカに行きまして、"Off
Limits"(立入禁止区域)と表札が付いていたところに、
「on ではなく off
だから制限(limit)がないという意味なのだろう」と思って入ってしまうと、一定の処罰があったりするわけです。
これはアメリカの法律はアメリカの法律が適用される範囲の人間は当然英語を理解できるということを実は大前提にしているわけです。
立入禁止区域なのであれば、英語ではなく日本語でも書いておくべきだ、という理屈はアメリカでは通らないわけです。
要するに、法の下の平等だ何だとは言うものの、それはその法律を正しく理解しているという大前提があっての平等だ、という意味なのです。
ここだけ聞くと「何を当たり前のことを言っているのか、共通する正しい解釈がなければ法律を守れないではないか」と思うかもしれませんが、
しかし、これは法律を理解できない方に非がある、という意味も含んでいるのだと思います。
他国で法律トラブルになった場合のことを想像すると分かるように、言語の知識不足が原因で正しい法律の理解に支障が出ることもあれば、
このたびの公告のように、会計面の知識不足が原因で正しい法律の理解に支障が出ることもあるわけですが、
それらはいずれも、原因・理由を問わず法律を理解できない方に非がある、という前提で法律と言うのは運用されているわけです。
もちろん私はそのことを批判しているのではありません。
言語面が原因だ、一定の専門知識の不足が理由だ、で全て免責されるのであれば、逆に社会秩序は保てないでしょう。
法の下の平等であるからこそ、原因・理由を問わず法に基づき人を等しく裁くべきだと思います。
ただ私がここで言いたいのは、そういった知識・法の理解という点に関して言えば、
人を平等に取り扱うことには自ずと一定の限界があるのではないか、ということなのです。
そういった知識・法の理解という点に関して言えば、究極的には人は平等ではないように思うのです。
例えば、私は田んぼと畑しかない田舎の日本中どこにでもある公立中学に通いましたが、
学校の成績で言えば、5科目500点満点中、学年トップクラスの人は450点以上取っていましたが、
最も点数が低い人は200点も取っていなかったと思います。
テストの点数は暗記中心かもしれませんが、ひょっとしたら物事を理解する能力そのものにも個々人で差があるのかもしれません。
これで、知識や法の理解力は平等である(だから法の下の平等だ)、と考えるのには必然的に無理があるようにも思います。
そして、学校の成績は本人の努力のみだとは思いますが、法律の分野では、本人の努力不足とばかり言えない部分もあるように思います。
法律の分野では、「それは専門家にしか理解できない」という部分はあるわけでして、
それを理解しておかなければならないことを前提とするのなら、この世の全員が法律の専門家(司法試験合格など)にならないといけない、
ということを社会的に前提としていることになるわけです。
それは社会を縁の下で支えることを役割としている法の存在意義に反することでしょう。
社会的にも、ある程度の知識・法の理解は全国民にとっての前提としつつ、それを超えた深い部分は法律の専門家(主に弁護士)に任せる、
という国民と弁護士の役割分担を行っていく方が望ましいわけです。
国民全員が法律の専門家になることは社会的にも望ましくないことであり、
そして国民はそれぞれが自分の能力を発揮できることをやっていくべきでしょう。
語弊を招く言い方ですが、平等にも限界があるわけです。
「法の下の平等」とは第一義的には「法を平等に適用すること」を意味しているわけですが、手元にあります法律の教科書を見ますと、
「『形式的平等(絶対的平等)』と『実質的平等(相対的平等)』」といった、人の事実の差異に着目した学説・通説・解釈もあるようです。
「実質的平等(相対的平等)」とは、「等しいものは等しく、等しくないものは等しくないように取り扱う」ということだ、
と書いてあります。
確かに、上で書きましたように私自身の中学時代を振り返っても、法の下の平等には必然的な一定の限界があるのだろうとは思いますので、
「実質的平等(相対的平等)」も大切な考え方なのだろうとは思います。
しかし、それも行き過ぎると、「法律知識はない方が有利だ、法の理解はない方が有利だ、勉強はしない方が有利だ」
という不合理な逆差別につながる恐れもあるわけです。
社会的に、どこまで「形式的平等」を追求し、どこまで「実質的平等」を追求すべきなのか。
言い換えれば、どこまでを「当然誰もが持っていなければならない(当然誰もが持っているはずの)知識・理解」と考え、
どこまでを「それは一部の専門家等のみが分かっていれば十分な知識・理解だ(自己責任・本人の原因を超えるもの)」と考えるべきなのか。
もちろんそこにもまた絶対的な答えはないのかもしれませんが。
この答えは私にも誰にも分からないことだとは思いますが、社会一般論としては、
法律自体言葉書かれていて言葉を否定するとなると法を否定するに等しくなるからか、
言語面の知識・理解不足では形式的平等(絶対的平等)を極めて重視しているように思え、
反対に、社会的な通常の意味での高度な専門分野(医療、工学、会計などなど)の知識・理解不足では
実質的平等(相対的平等)を考慮に入れているように思えます。