2013年5月1日(水)
2013年5月1日(水)日本経済新聞
JR北海道 社長に野島氏 小池氏は会長に
ヤマハ社長に中田氏が昇格
(記事)
2013年5月1日(水)日本経済新聞
東証社長 大和・清田氏
大証社長 野村・山道氏
国際競争にらむ 証券業界、一丸で
(記事)
2013年5月1日(水)日本経済新聞
孫社長インタビュー ソフトバンクの米スプリント買収計画 買収額引き上げず
一問一答 「ディッシュ、相乗効果ない」
(記事)
【コメント】
コスト削減効果もない。
相乗効果もない。
海外の携帯電話会社を買収する合理的理由は何もありません。
というのは何なのでしょうか。
「フェニックス・キャピタル・パートナーズ・テン株式会社」は、
自分が出資をしている投資事業組合(=このたびの真の公開買付者?)に対し無限責任を負っている、
という意味なのだろうか、とは思うのですが。
株式会社が無限責任を負うということは、それはそれであることだとは思います。
というより、組合への出資に限らず、大きく言えば、
基本的には株式会社は、自らが行った商行為は法人としては全て無限責任を負っていることになると思います。
株式会社が何らかの損害賠償責任を負うことになった場合、その賠償金額がある一定の金額までに制限される(=有限である)、
ということはないわけです。
株式会社は法人としては全て無限責任を負って商行為を行っていると言っていいでしょう。
一般に株式会社は有限責任制度に基づく法人と言われますが、それは株式会社への出資者(=この場合はいわゆる株主)が有限責任である、
という意味です。
出資者が負うべき経済的・金銭的責任は出資額の範囲内のみに限定される(=有限である)という意味です。
株式会社自体が有限責任で商行為を行っているという意味ではありません。
今日の議題は、「株式会社が行った行為に関して出資者(株主)が訴えられるということはない」、という点に関してです。
株主が株主であることを理由に訴えられることはない、とだけ聞くと、
「そんな話は聞いたこともない、当たり前じゃないか」、と思われるかもしれませんが、実はこれは法理的には非常に深い話なのです。
この点に関して理屈を言うと、株式会社の意思は出資者(株主)が決定しているわけですから、
意思決定者である出資者(株主)が訴えられてもおかしくはないようにも思えます。
民法上も、実際の行為者(この例では株式会社)ではなく、意思決定者(この例では出資者(株主))の方が法的な責任を負うべき、
というような考え方があると思います。
実際の行為者の方は法的その他の理由により意思決定者の指示にただ従っただけなのですから免責される、という考え方はあると思います。
そうなのですが、商法(会社法)では、例えば債権者(取引先や銀行など)は株主を訴えてよいとは定めていません。
商法の目的は債権者保護ですが、別の側面においては、損害賠償責任に関しては株主は商法により守られている、とも言えるわけです。
この理由についてなのですが、法理というものを考えて行きますと、
株式会社と株主とは法的に別の存在だからというより(意思決定者なのに法的に無関係・無責任であると考えるのは無理があるでしょう)、
株主責任はまた別の手段で取っていこう、という考え方に基づいているのだと思います。
別の手段とは、例えば、株式の価値を法的にゼロにし議決権も法的になくし会社を債権者のものとする(100%減資)、といった具合です。
それ以上の責任を株主に問うのはなしにしようと、いうことに商法(会社法)ではなっているのだと思います。
その方が有限責任制度の考え方にも合致することになるわけです。
もしくは逆に考えて、有限責任制度を担保するために、債権者は株主を訴えることはできないことになっているのだと思います。
この点は多重株主代表訴訟とは法理が異なることだと思います。
親会社の株主は子会社役員を訴えることはできません。
その理由は、親会社と子会社は法的には完全に別の法人だから、となります。
子会社役員を訴えたければ、自分自身が子会社の株主になるしかないわけです。
子会社役員を第一義的に訴えなければならないのは、親会社の株主ではなく子会社の株主なのです。
一方、債権者はなぜ株主の方を訴えてはならないのかと言えば、
株式会社と株主とは法的には完全に別の存在だからというより、
やはり理由としては株式会社の根本たる有限責任制度との関係が理由だと思います。
債権者が株主を訴えてよいことになれば、有限責任制度の根本が揺らぐことになるでしょう。
債権者としては会社倒産の際は納得がいかない場面もある(会社が弁済できない残りは株主に賠償させたい、など)のだとは思いますが、
そこは社会的そして法条理としては、有限責任制度の確立の方を優先させている、ということになると思います。
法理で言えば、行為者ではなく意思決定者の方を訴えるというのは筋は通っているとは思うのですが。
その点、多重株主代表訴訟というのは、やはり子会社役員を第一義的に訴えなければならないのは、
親会社の株主ではなく子会社の株主であるわけですから、
子会社役員が最上位(=親会社の株主)の意思決定者の意思に反すること(会社に損害を与えた、など)をしたのだとしても、
法理を考えれば、子会社が被った損失は子会社株主が問うべきであって、親会社株主が問うのはおかしい、という考え方になると思います。
基本法である民法のみに従えば、「株式会社が行った行為に関して出資者(株主)が訴えられる」ことがあっても法的には何らおかしくないのに、
特別法である商法に従えば「株式会社が行った行為に関して出資者(株主)が訴えられるということはない」のか。
この問題は言い換えれば、究極的には、ある行為に関して適用される法律は、
「どこまでが民法か、そしてどこまでが商法(会社法)か」
という議論になると思います。
通常、民法が基本法、商法が特別法、と言われます。
法の基本的考え方は、基本法に定めがないことに関しては特別法の定めが優先される、とされています。
しかし同時に、基本法の基本的考え方(法理や法条理と呼ばれるもの)に反する特別法の定めと言うのは、そもそも無効なのではないか、
という考え方もあると思います。
「基本法と特別法はどちらが優先されるのか」、という点に関しては、実は答えはないのだと思います。
ある場面では基本法を優先し、ある場面では特別法を優先する、
論理的には考えていけばそこには何の根拠もないでしょう。
債権者は株主を訴えてはならないという有限責任制度の確立は、特別法を優先した結果です。
一方、親会社の株主は子会社役員を訴えてはならないという多重株主代表訴訟が認められないのは、基本法を優先した結果です。
ここに論理的・法律理論的な明快な答えはないのです。
法律実務上はおそらく、敢えて言うなら、「そのような定めになっているからです。」が答えになってしまうのでしょう。
私は自分の理解のために「基本法」という言い方をしていますが、教科書には「一般法」という言い方で定着しているようです。
「基本法」は英語で「fundamental
law、basic law、organic law」というようですが、
「一般法」は英語で「general
law」というようです。
どちらも同じ様な意味かとは思いますが、「general」というのは、「それ全体に渡る」、「それら全体に共通する」、という意味です。
特別法は「general」の定めに反してよいのか、という点に関しては、法理上明確な説明はできないでしょう。
分かりやすく言うと、法理上は、憲法の定めに反する法律は無効なわけです。
それと全く同じ理屈で、一般法の定めに反する特別法は無効、と言えるのではないか、と私は言いたいわけです。
というより、「一般法の定めに反する特別法は無効」だからこそ、憲法の定めに反する法律は無効なのではないでしょうか。
まあ、法律と言うのは、何らかの社会からの要請に応じて、また、社会的制度の確立(例えば有限責任制度の確立)のためにあるわけですから、
最後の最後は「そういうものだと思ってくれ。」としか説明が付かない部分はあると思います。
ある場面では基本法を優先し、ある場面では特別法を優先することに、一体どんな明瞭な答えがあるというのでしょうか。
例えば、「基本法の定めや基本的考え方に反してまで特別法の定めに基づき有限責任制度を確立することにどんな根拠があるのか?」
という問いには誰も答えられないでしょう。
法律というのはそもそもそういうものであり、だからこそ私は法律は学問ではないと思っているわけです。
最近、旧商法の変遷(改正)について考える(例えば中間配当制度導入の是非、など)ことがあるのですが、これなどまさに歴史なわけです。
また、法律と言うのは会計と異なり、日本語で書かれていますから、法律力は最後は日本語力だったりします。
この点において、私は法律は文学みたいなものだな、と思っているわけです。
ちなみに、会計は簿記という言語で書かれています。
簿記を理解していないと会計は理解できません。
また、商法(会社法)は、その他に関する定めも多いといえば多いのですが、会計に関するルールを定めているとも言えるわけです。
簿記や会計を理解していないと、商法(会社法)を理解することは絶対にできません。
大げさに言えば、商法(会社法)は「企業会計法」などと呼んでもよいのではないかと個人的には思うくらいです。
敢えて言うなら、「関係者から文句が出ないならそれでよし」、もしくは、「関係者が文句を言えないようにするために法律はあるのだ」、
というのが法律が存在する基本的理由であるようにも思えます。
実社会との妥協の産物、それが法律とも言えるように思えます。
法律は社会秩序安定のためにある一方、法律は論理的に考えていくことには耐えられないようにしか思えません。
そして法律が論理的思考や論理的検証に耐えられないのは社会が複雑過ぎることの必然的結果、とも言えるかも知れません。
少なくとも、理系の純粋理論の学者をかつて志していた私にはそう見えます。
そもそも社会が複雑過ぎるから逆に法律が必要なのであって、社会が理路整然としているのならはじめから法律はいらないのかもな、
そんなふうにも思います。
「ある場面では基本法を優先し、また別のある場面では特別法を優先しなけらばならない」のは、
社会が複雑過ぎるがゆえの法律上の柔軟な現実への対応、そう言うしかないのかも知れません。
このようなこと考えていくと、自分が中学高校時代、理系に進み純粋理論の学者になりたいと思った理由が
何か思い返されてくるような気がします。
中学校の頃から、社会は複雑だった。だから私は学者を志したのかもしれません。
「社会は汚い」、そういった漠然とした気持ちが中学校の頃から私の心の中にあった気がします。
「学問の世界であれば自分に向いているかな」、そう思いました。
結論だけ言えば、私は学者にはなれなかったわけですが、今私が商法や会社法や金融商品取引法の話をしているのは、
経営との関係で必然的に学ぶことになったから書いているだけのことであって、法律そのものに興味があってのことではないのです。
私の見るところ、会計は理詰めで考えていくことに耐えられると思います。
しかしやはり法律は理詰めで考えていくことは不可能だと思います。
まあその原因は、対象範囲の狭さ・広さにあるのだとは思いますが。
会計は財務諸表のみが対象範囲、法律は社会全体が対象範囲です。
自ずと理詰めで考えていくことには限界があるのでしょう。
理詰めで考えていくことができるというのは、完璧な規則をはじめから作り上げることができる、ということにつながります。
理詰めで考えていくことができないというのは、完璧な規則を作り上げることはできないであろう、という意味です。
この点において、会計基準ははじめから完璧な基準を作り上げることができるのです。
法律の方は少し話がややこしくなります。
例えば商法というだけであれば、はじめから完璧な商法を作り上げることができます。
基本的には旧商法は完璧だったと思います。
ところが、上の方で書きましたように、法体系全体をとらえて、
「ある場面では基本法を優先し、また別のある場面では特別法を優先する、というその合理性」
ということまで考えますと、民法その他との関係において商法は完璧ではなくなるわけです。
「なぜ民法の考え方に反した規定が商法にあるのか?」という議論をし出すと、商法にも明瞭な説明が付きづらい部分はあると思います。
商法だけで言えば商法は完璧な法律だと思います。
しかし法体系全体で言えば、商法は全く完璧ではないかもしれません。
そして完璧にしようと思っても、そもそも特別法において基本法とは違うことをしようとしているわけですから、
完璧にしようと思ってもはじめからできるわけがない(はじめからそこに整合性があるわけがない)、とも言えるかもしれません。
考え出すときりがありませんが、法体系全体で言うと、どうしても明快な説明ができない部分と言うのはあると思います。
私はそのことを法律は現実への妥協だ、と言っているわけです。
その点、理系の純粋理論というのは、理論体系全体が完璧なのです。
そして、会計理論というのも、理論体系全体を完璧にしようと思えばはじめからできると言えます。
今はそうでない会計基準になっているのが残念ですが。
何にせよ、法律と言うのは、現実に対応するためにあると考えれば、現実が複雑である以上、個々の法律のみで見ると矛盾はなくとも、
法体系全体として見ると法理的には矛盾がある、という見方はできると思います。
その矛盾は解決は不能ですが。
商法の法源の適用順位 (ある事例に法律を適用して処理しなければならない場合の法律の適用順位)
@商事制定法:商法
↓ @に規定がないときは
A商慣習法
↓ Aがないときは
B民法
>民事法の分野では慣習法は数多く存在し、商事に関しては民法より商慣習法が優先される
>一般法とは、適用対象が一般的な法のことをいい、特別法とは、適用対象が特定されている法のことをいいます。
>両者の区別は相対的なものです。
>特別法の適用対象とされている事項には、特別法が一般法に優先して適用される。
>一般法が全面的に改正された場合でも、特別法は一般法に優先する
>商人が行う取引は、私たち一般人の行う取引と比べて、営利、つまり利潤を上げることを目的として行われるという特徴があります。
>最大限の利潤を獲得するためには、反復継続して大量に取引ができる仕組みが求められます。
>そこで(中略)商法では、民法上のルールを商行為では不要としたり、
>民法で定められている債権者保護を目的とする制度をより徹底するための特側が定められています。
>当事者の一方にとって商行為である行為については、商法が双方に適用される
私が今日書きましたことは、一言で言えば、
「商行為の特則は民法の原則規定に比較して、どれくらい正当性を持つのか?」
と言えるかもしれません。
確かに、特に商行為が行われる状況を想定して、民法とは異なる特別な規定を設けているというのは分かります。
一般人による通常の取引と商人による商行為とは内容や性質や目的が大きく異なることが確かに多いでしょう。
民法の原則規定とは異なる商行為のみの特則を設けることには確かに合理性があるとは思います。
そのこと自体が間違っているとは思いません。
ただ今日私が書きましたことは、商法の各特則がどうであるというより、法体系全体として見た場合、
どこまでが民法の原則規定を適用すべきでありどこまでが商法の特則を適用すべきか、
というその事例の線引きという点については明快な論理的根拠はないのではないか、ということなのです。
一般法と特別法の区別は相対的なものだ、と何気なく書いてありますが、
実はこの世に近代的法律が誕生したその時から、「どこまでが一般法か、そしてどこまでが特別法か」という議論はあったのだと思います。
そして特別法の規定が優先する場合の正当性や合理性についても、議論は大昔からずっとあったことなのではないかと思います。
法律実務からは離れる話かもしれませんが、「特別法を優先する根拠は何か?」という問いには誰も答えられないでしょう。
どこかの株式会社が債務不履行を起こしたら、民法に基づき債権者は株主に対し損害賠償請求の訴訟を提起してみてはいかがでしょうか。
裁判では、商法が適用されますから、全く相手にされないでしょう。
しかし、判決後、裁判を起こした債権者は記者会見でも開いて、
「現行の有限責任制度のあり方に疑問を持っていましたので、裁判では負けると分かっていましたが有限責任制度に一石を投じてみました。」
と語るのも面白いのではないかと思いました。
商法はそもそも債権者保護を目的としているなら株主に対する損害賠償請求を認めるべき、という考え方もあるかもしれません。
以上書きましたことが、私がいつかまとめてみたいと思っていた論点になります。
以上のような議論は、大学や資格の学校などでもあまり触れられることはない内容なのかなと思います。
法律専門書や資格対策本にもあまり書かれることはない領域だと思います。
これまで法律(主に商法ですが)の勉強をしながら自分の中で感じていたことを書いてみました。
「法律が専門ではない人間から見た法律観 〜特に商法と民法との関係性について〜」
とでもタイトルをつけてもよいかもしれません。
それではこれで今日のコメントを終わります。