2013年4月20日(土)
2013年4月19日
株式会社八十二銀行
代表取締役の異動に関するお知らせ
ttp://www.82bank.co.jp/ct/other000009300/news20130419b.pdf
【コメント】
新頭取の湯本氏は1980年に入行したようです。
何と言いますか、80年代に入社した人が銀行の頭取になったと聞くと、個人的な感覚ですが、意外と言いますか非常に若く感じられます。
まあ冷静に湯本氏のことを見てみますと、56歳、銀行業務を32年間以上行ってきたわけです。
「50、60はハナタレ小僧」だとは全く思いませんが、考えてみれば、そんなに若い年でもないわけですね。
1980年代入社の人が銀行の頭取になる時期になった。
私も年をとったということでしょうか。
>第八十二国立銀行(第八十二銀行、現存の八十二銀行とは無関係)
と書いてあります。
現在の「株式会社八十二銀行」は、明治期の国立銀行の一つである「第八十二国立銀行」とは法人としては完全に無関係のようです。
現在の「株式会社八十二銀行」の「八十二」は「第八十二国立銀行」とは関係がなく、
>銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。
>これらのナンバー銀行は現存するものもあるが、
>現存する八十二銀行は第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82=19+63)であり、
>国立銀行の番号を名乗っているわけではない。
と書いてあります。
二つの銀行が合併して「株式会社八十二銀行」ができたのは1931年のことです。
明治期の「国立銀行」とは全く異なるとは言うものの、数字を足し算して行名にするのはどうだったのでしょうか。
奇をてらわず、素直に「長野銀行」という銀行名にすればよかったのではないでしょうか。
現在長野県内には、「株式会社長野銀行」という銀行が実在していますが、
この銀行は元々は1950年設立の「長野県商工信用組合」だったのです。
1989年に現在の「株式会社長野銀行」に商号変更しただけなのです。
やはり素直に考えれば、1931年に六十三銀行と第十九銀行が合併した際に、銀行名は「株式会社長野銀行」とすべきだったように思います。
>昭和時代前期に行われた大蔵省(現:財務省)の政策。「戦時統合」と称される場合もある。
>1つの府県に1つの地方銀行に制限すべく、中小の地方銀行に対して強制的な統廃合を進めた。
>銀行間の競争を国策の妨げと考え、府県もしくはそれに準じる地域ごとに資本金1000万円クラスの銀行を1つ置くことを目指した。
>1932年末に538行あった普通銀行は、1945年9月には61行(都市銀行8・地方銀行53)に減少した。
これはまさに、私が以前から言い続けていることそのものですね。
「日本には銀行の数が多過ぎる、オーバーバンキング状態だ、
全ての銀行は金利から手続きから全て完全に同じ業務を行っているのだから、銀行はどんどん合併していくべきだ」、
と私は常に言っていますが、実は戦前から、銀行の数を減らすという政策は取られていたようです。
「一県一行主義」という言い方をするようですが、一都道府県に一つの銀行(プラス極少数の都市銀行)、ということで、
まあ現実的にはそのくらいの数が落とし所なのかなあ、という気がします。
ただ、極端に思うかもしれませんが、究極的には銀行の数は日本に一つだけでいいのです。
国家には一応中央銀行は必要ですので、中央銀行としては現在の「日本銀行」のままでよいと思うのですが、
いわゆる市中銀行は日本にただ一つだけ、「株式会社日本商業銀行」があればそれでよいのです。
日本の全ての銀行は合併し、法人としては「株式会社日本商業銀行」になればよいのです。
現在ある各銀行の支店やATMなどは、そのまま「株式会社日本商業銀行」の支店やATMになればいいわけです。
預金口座ももちろんそのまま利用できます。
それで実は何の問題もないわけです。
預金者も困りませんし、借り入れ者も不便になることはありませんし、現金引き出し・振り替え・振り込み等も手数料がかからずも便利です。
全ての銀行が合併して日本に一つだけの銀行になることは実はいいことだらけなのです。
銀行の数が一つになっても、そこは金融当局による行政指導がありますから、利用者が不利な立場に追いやられるということはありません。
銀行業とは本質的に規制産業なのです。
銀行間の競争は、預金者保護や適切な融資や経済発展の妨げにしかならないのです。
「一県一行主義」を知って私は意を強くしました。すなわち、「銀行の数は減らすべき」だと、私は今日改めて強くそう思いました。
自分の考えに自信を持った、という意味です。
さらにウィキペディアには戦後についても書かれています。
>1949年、吉田内閣の池田勇人大蔵大臣が一県一行主義の緩和を表明し、
>その結果、1950年以後、地方銀行の新設(いわゆる、戦後地銀など)が認められるようになった。
>最終的に1968年の合併転換法の公布によって名実ともに一県一行主義は撤廃されることになった。
戦後、銀行は明らかに間違った方向に突き進んで行ったのでしょう。
戦後、確かに日本は奇跡とまで呼ばれるほどの経済成長を遂げました。
それに伴い、また物価上昇も手伝い、日本全体をマクロ的な視点で見れば、預金者の預金額や企業への融資額も増加していったわけです。
しかしそれは、各銀行の規模が大きくなっていくだけで十分対応できた話であって、
銀行の数を増やすことには何の意味もなかったわけです。
当時、銀行を新たに設立し銀行の数を増やさないと、預金者からの預け入れに対応できなかったなどということもありませんし、
企業への融資に対応できなかった、などということもありませんでした。
戦後、銀行をわざわざ新たに設立してその新しい銀行は何をしたのか。
従来からある銀行とまさに全く同じ業務を行っただけなのです。
今も昔も、銀行を新たに設立する必要は全くなかった・全くない、というのが実態です。
何度も書いていますように、銀行の数は減らさないといけないのです。
私は戦前の「一県一行主義」を真似して言っているのではありません。
極々単純に、「銀行業務とは何か」ということを踏まえて書いているだけです(「一県一行主義」を知る前から私は同じことを言っています)。
私としては、「なんだ、私と同じ様に昔から昔の人も銀行業の本質を分かっていたんだなあ」と感心しているところです。
ついでに言いますと、「新聞統制」という言葉もあったようです。
>新聞社についても同様に、一県一紙を目指して統制を進めていた。
戦後はこれらとは逆方向に、大卒者のレベル低下を生むだけなのに、国立大学に関しても全く同じ”大学統制”が行われたのでしょうか。