2013年1月13日(日)
2013年1月12日(土)日本経済新聞 きょうのことば
医薬品のネット販売 対面販売を重視
(記事)
【コメント】
最高裁判決の中には気の遠くなるようなデタラメな判決もあります。
そしてその判決がその後その分野における定説であるかのように見なされてしまい、
その分野の”権威者”と言われている人が執筆している教科書などにも記載され、間違った考えが世に一人歩きしている例も現にあります。
「その分野の専門家であればすぐに間違いだと分かることなのに、こんな滅茶苦茶な判決が”正しい考え方”だとして世の中に流布されるのか。
最高裁判所とは素人集団なのか。法が言う絶対真実とは何だろうか。最高裁判決が間違っている場合は一体どうするというのか。
最高裁判決が絶対的に正しいものとされる法律の世界というのは少しおかしいのではないだろうか。」
分かる人にはすぐ分かる「完全に正反対の話をしているあの最高裁判決」に接した時、私はそう思いましたし今でもそう思っています。
「最高裁判決が間違っていることはあり得ない。もし最高裁判決が間違っているのであればその最高裁判決がこれからの新しい正しい考え方だ」、
これが法律の世界だったりします。
「僕にはとても法律を専門とすることはできないな」、私はその時そう思いましたし今でもそう思っています。
ちょうどいい機会なのでこの際ついでに書きますが、分かる人にはすぐ分かる「完全に正反対の話をしているあの最高裁判決」に接した時、
私は「最高裁判決なんて本当にくそくらえだな」と思いました。
法律家であれば「最高裁判決なんてくそくらえだ」と言った瞬間にその法律家人生はきっと終わるのでしょう。
しかし幸か不幸か私は法律家ではありません。
だから私はこれからも声を大にして「最高裁判決なんてくそくらえだ」と言えるわけです。
「最高裁判決を絶対視する、それは法ではなく宗教ではありませんか」、そう改めて言いたいと思います。
前置きが長くなりましたが、そんな中にあって、このたびの薬のネット販売に関する最高裁判決は極めてまっとうだなと思いました。
2013年1月12日(土)日本経済新聞
「法の支配」を守り通して
(記事)
【コメント】
法の解釈、そして、司法の独立、という言葉が使われています。
法の解釈は人によって異なります。
当たり前じゃないか、と言う人もいるかもしれません。
しかし実はそれは当たり前でも何でもないわけで、むしろ人によって法の解釈が違っていてはいけないのです。
なぜなら、法の解釈が人によって異なるのであれば、それは同一の裁判において裁判官によって判決が異なることになるからです。
法の解釈は人によって異なっていてもかまわないという考え方は、
裁判官が異なっていれば裁判の結果も異なるものになったかもしれないことを許容することにつながります。
それはおかしいのではないでしょうか。
なぜ法律によって物事を裁くのかと言えば、公平性や客観性を担保するためでしょう。
判決は属人的であってはならない、いつ誰が何回裁こうとも同じ結果にならなければならない、
そういう考えが根底にあって法律というものを作り法律で物事を裁くことにしたわけでしょう。
「法の下の平等」という言葉があります。
この言葉は一般には「裁かれる側」がその人の属性によらず平等だという意味だと思います。
誰が「裁かれる」としても裁きの結果は同じでなければならない、という意味だと思います。
しかし私はこの言葉を「裁く側」に関しても使いたいと思います。
誰が「裁く」にしても裁きの結果は同じでなければならない、と私は思います。
そのために必要なのは、法律に基づいてのみ裁判が行われるのみならず、法の解釈が全員同一であることが必要不可欠です。
なぜなら、法の解釈が人によって異なるのであれば、当然裁きの結果も人によって異なるものになるからです。
「法の下の平等」という言葉は、「裁かれる側」だけなく、「裁く側」についても真でなければならないと私は思います。
この点、会計は人によって解釈が分かれるということは基本的にはありません。
少なくとも会計基準の解釈が人によって異なることはありません。
この会計処理は妥当か否か、という問題が生じた時、会計が分かっている人であればみな白か黒かは実ははっきり付けられるのです。
ただ、異なることを言う人は政治的その他の意図を持って敢えて違った意見を述べているだけなのです。
会計における真理というのは、物理学や化学のように人によって判断が分かれないという点において、
実は自然科学の真理に非常に近いものがあるのです。
まあこの会計と法律の違いというのは、法律は社会全体が相手であるのに対し、会計は財務諸表のみが相手である、
という点に起因しているのかもしれませんが。
法律がその解釈に差が生じてしまうのは法の運用を考えれば実際上は致し方ないのかもしれません。
(と同時に思うのは、やはり法の解釈が人によって異なるのに最高裁判決が絶対だというのはおかしいということです。
様々な法の解釈がある中で最高裁ではたまたまその判決になっただけでしょ、と言いたくなるわけです。)
私は高校も大学も理系出身です。
中学時代から文系に進学しようなどとは一度たりとも思ったことはありません。
子どものころから理科の実験などをはじめとする自然科学が好きな人間であるせいか、
人によって解釈が異なる法律というものにどうしても違和感を覚えてしまい、
そして同時に会計というものは自分の価値観と合うなと感じるところがあります。
結論から先に言えば、自律運転システムなど何十年たっても絶対実現しません。
これは半導体技術(ハードウェア)に原因があるわけでもなければ制御プログラム(ソフトウェア)に原因があるわけでもありません。
根本的にコンピューターでは完全・安全な自動車運転は不可能なのです。
究極的には、コンピューターというのは実はプログラムされた通りにしか動けないのです。
何かコンピューターが考えているように見えても、それはプログラムされた全通りの選択肢を計算しているに過ぎず、
その中で最適解であると計算される挙動を取っているだけなのです。
実際にはコンピューターは考えているわけではないのです。
コンピューターは淡々とプログラムされた通りの計算を行っているだけなのです。
言葉の定義によりますが、”人工知能”というものも実際にはないと言ってもいいのです。
率直に言えば、実はコンピューターは考えることができないのです。
しかるに、自動車の運転はと言いますと、無意識的に行うこともあるせよ運転中は考えることばかりなわけです。
信号機の変化や前を走る車との車間距離、対向車の挙動、歩行者をどう追い抜くか、交差点では子どもが飛び出してきたりしないか・・・、
などなど、まさに1秒未満単位で刻々と変わる自動車の周囲の環境を常に考えながら人は自動車を運転しているわけです。
実は運転中は自動車の周囲の環境がどう変わるのか全く分からない中で人は自動車を運転しています。
そこまで難しく考えていないと言う人もいるかもしれませんが、実はそうなのです。
ところがコンピューターというのは予想外の出来事に全く対応できないのです。
何か例外的なことが起こったら安全に停止させる、というようなプログラムを組むことはできますが、
それはそのようにプログラムを組んだから停止しただけであって、コンピューターが自分で考えて停止したのではありません。
そのようにプログラムを組まないなら、コンピューターは決して停止しないのです。
自動車を運転中に運転者が取らねばならない行動パターンというのはまさに無限通りです。
いつどこでどんなことが自動車の周囲で起こるか全くわからないからです。
人間はその時その時で一番安全と思われる行動を瞬時に考えて自動車を操作(ハンドルをとっさに切ったり急ブレーキを踏んだり)できます。
しかしコンピューターは結局のところその時その時にプログラムされた通りに動くことしかできません。
それが自動車の自律運転システムが絶対に実現しない理由です。