2013年1月1日(火)



2013年1月1日(火)日本経済新聞
日本証券取引所きょう発足
(記事) 

 

 


2013年1月1日(火)日本経済新聞
シャープ、社内分社制 4月にも
(記事)



 


2013年1月1日(火)日本経済新聞
政府、再生機構の改組検討 地方中小支援へ組織 4月にも
(記事)




 


【コメント】
新年早々意味不明な記事ですが、借金の肩代わりを多くの業種業界であたかも日常業務のように政府は行っているわけですから、
○○支援機構というようなものをわざわざ設立する必要すらないように思いますが。
政府が任意に借金の肩代わりをする場合と○○支援機構を通じて借金の肩代わりをする場合とは何か違うのでしょうか。

 

 

 



平成11年11月29日
首相官邸 連絡会議
国立大学教官等の民間企業役員兼業に関する対応方針について
ttp://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/991130kengyo2.html

 

 



【コメント】
首相官邸からの「国立大学教官等の民間企業役員兼業に関する対応方針について」(平成11年11月29日付)ですが、
この連絡会議や関係省庁等申合せはどの出来事が下敷きになっているかは言わなくても分かると思います。
ある国立大学の教授(公務員)がソニーの取締役になるという運びでしたが、公務員の兼業に当たるということで待ったがかかり、
結果その教授は大学を辞めた、という出来事です。
当時のソニーは、「ソニーがそういうことをやるんだったら」、ということでソニーの行動を受けて、
政府も何か新しい行動・規制等の改正に動く、という感じだったと思います。
当時、書店の棚にはソニー関係の書物が山のように並んでいたのをよく覚えています。
ソニーは当時何をやっても成功していた、そんな気がします。
当時は何かソニーが世の中を動かしているかのような、そのくらいの勢いがあったように思います。

 


ソニーと言えば、このような記事がありました↓。
電池事業は韓国勢との競争が激しいなどと書いてあり、内容はデタラメですが。
電池事業はソニーにとって数少ない高収益事業の一つです。


2012年12月22日(土)日本経済新聞
ソニー、事業改革進める 電池売却 革新機構と交渉
(記事)

 

 


さて、「国立大学教官等の民間企業役員兼業に関する対応方針について」から、印象に残った記述を引用してコメントします。

 


> 資本主義経済システムを採る我が国においては,経済活動の主要な担い手は,株式会社であり,
>その活動の影響は当該会社内部にとどまらない。

 

「経済活動の主要な担い手は株式会社」、この一言に尽きます。
テレビを見ても新聞を読んでも雑誌を読んでも、株式会社のことばかりでしょう。
株式会社のことが分からないと、世の中分からないことだらけです。
率直に言えば、株式会社のことが分からないと何か自分がバカに思えてくるでしょう。
世の中株式会社のことだらけですから株式会社のことが分からないと人生も面白くありません。
株式会社が何を行っているのかを知る手段、それが簿記なのです。
「会計のない株式会社はない」、「仕訳を切らない一日はない」のです。
経済活動を行うたびに株式会社は仕訳を切るのですから、どのような職業に就くにせよ社会に出る前に必ず簿記は勉強して下さい。

 

 


>株式会社を取り巻く関係者は,多数に及ぶのであって,取締役が違法な業務執行を行えば,単にその会社の問題では済まされず,
>多くの関係者,ひいては社会経済に重大な影響を与えるものである。取締役等の違法行為は,国家としても放置できず,
>刑事処罰をもって防止すべきであるとして,商法は,株式会社の取締役等の各種違法行為について,これを特別の犯罪類型としている。

 

この記述はどうでしょうか。
法律は専門ではないので間違っているかもしれませんが、
>取締役が違法な業務執行を行えば,単にその会社の問題では済まされず,多くの関係者,ひいては社会経済に重大な影響を与える
のは確かだとしても、旧商法においても現会社法においても、国家として刑事処罰をもって防止するという考え方はしていないと思います。
旧商法においても現会社法においても、、株式会社の取締役等の各種違法行為については、損害を被った人が適宜取締役等を訴える、
というような流れかと思います。詳しくは分かりませんがこういうのも民事不介入というのでしょうか。

 

 


>民間企業の方から,適法性監査のための人的支援を国の機関に求めてきた場合,
>すなわち国立大学教官に適法性監査のための役員への就任を求めてきた場合,その支援を行うことは,公益性が認められるものであり,
>企業の営利追求のための経営判断の決定に参画するものではないことから、全体の奉仕者性に反することはなく,
>その観点からの役員兼業を認め得ると言える。

> なお,適法性の監督にとどまらず,会社業務全般の効率性の監督の観点から,
>社外役員として会社経営に関与することが必要であるとの意見もあるが,業務の効率性に関する監督を行うということは,
>営利追求を含め会社経営全般に役員として関与することを認めることにほかならず,前述の公務員法制のもと,
>公務員がそこまで一般的に関与することについて,国民全体からみて,全体の奉仕者性との整合性を図り得る公益性があると言えるか,
>現下の社会情勢,社会通念及び関係制度を前提としては,疑問が残る。

 


ここの記述を大まかに要約すれば、
国立大学の教授(公務員)が適法性監査のために役員へ就任することは認められるが、
会社業務全般の効率性など会社経営に関与するために役員へ就任することは認められない、
となるかと思います。
通常役員という時には取締役か監査役しかないわけですが
(委員会設置会社であれば執行役などもあり得ますが、1999年という時代背景を考えればこの二つのみをここでは指していると思います)、
法律上、適法性監査のみを行う取締役、もしくは逆に、会社経営に関与する取締役、というような定義付けはないわけです。
取締役なら取締役、監査役なら監査役で、少なくとも法律上は同じと考えるのではないでしょうか。
社内の担当業務が各取締役で異なるということはあるわけですが、法律上の取締役という地位・責任はみな同じ、と考えるのだと思います。
法律上は、適法性監査のみを行う取締役=会社経営に関与する取締役、と言えばいいでしょうか。
ここでは漠然と役員と書かれていますので、具体的にどういった状況を想定しているのか分からないわけですが、
国立大学の教授(公務員)は監査役になら就任してよいが取締役には就任してはならない、
と言いたいのでしょうか。

 

 


>また,近年,企業の自主的な取締役会改革の動きが顕在化しており,社外から取締役を迎えるケースも増加しつつある。
> その人材供給源としては,@他企業経営者,A弁護士等専門家,B大学教員などが想定されるが,
>他企業経営者は,直接的な出資や取引関係はなくても,業務内容を拡大するにつれて,利害関係が生じたり,
>営業機密が他企業に漏れる可能性があることから,実際に選任することは容易ではなく,
>十分な人材供給源として期待はできないといわれている。

 

他企業経営者が社外取締役に実際に選任することは容易ではない、と書かれています。
これは当時のソニーに関しても言えることだったと思います。
当時のソニーの取締役はほとんどが内部昇進による取締役だったと思います。
1999年から13年がたった現在、ソニーの取締役はどのような構成となっているでしょうか。


有価証券報告書 2011年度
ttp://www.sony.co.jp/SonyInfo/IR/library/h23_q4.pdf


112/259ページから【役員の状況】が書かれています。
全取締役14名中、10名は社外取締役です。10名の社外取締役は全員他企業経営者(他の企業の取締役など)です。
また、前会長兼CEOのハワード・ストリンガー氏は、1997年5月にソニーのアメリカ事業の経営トップとしての入社(55歳の時)ですので、
いわゆる内部昇進とはやや趣が違うかもしれません。
そうすると、いわゆる内部昇進の取締役は、代表執行役社長兼CEO、代表執行役副会長、CFO(財務担当取締役)の三人のみとなります。
通常の監査役設置会社から委員会設置会社へ移行したことなどの影響もあるでしょうが、たった13年で取締役の構成が完全に逆になっています。

 

 


当時の懸念として、

>他企業経営者は,直接的な出資や取引関係はなくても,業務内容を拡大するにつれて,利害関係が生じたり,
>営業機密が他企業に漏れる可能性がある

とのことですが、
結論だけ言えば、利害関係が生じたり営業機密が他企業に漏れる恐れが全くないほど、実際の取締役会は形骸化しているのかもしれません。
実際の取締役会は、経営戦略立案の場ではなく、会社法や金融商品取引法の法的要件を満たすためだけの場、
となっているのかもしれません。
悪く言えば、実際には取締役会など開催しなくとも、法的に「取締役会け決議を取ったのだ」ということにすればそれでよい、
という程度の位置付けなのかもしれません。

 

 


> そもそも,企業統治において,取締役の業務執行を監視・監督することが重要であるところ,
>その機能を有効に発揮するためには,法律上もそのような地位及び権限を有していることが不可欠であり,
>また,業務執行を監視・監督する法的責任が生じるような地位に就くからこそ真剣な監視・監督機能の発揮を期待することができるのであって,
>そのような地位及び権限を有しない役員以外の立場では,十分な監視・監督機能を発揮することは期待できない。


とありますが、何に関して言っているのか若干意味が分かりづらい文章だと思いますが、
前後の文脈を踏まえますと、これは監査役について言っているのでしょうか。取締役について言っているとも取れますが。

法律論を書きますと、取締役というのは「業務執行の意思決定機関である取締役会の構成員」という位置付けです。
取締役会というのは取締役全員で構成される合議体であり、
「業務執行に関する意思決定を行うとともに代表取締役の職務執行の監督をする」という位置付けです。
代表取締役とは「会社の業務執行を行い対外的に会社を代表する」常設機関です。
代表取締役の権限としては、業務執行権と代表権があります。
監査役とは、「取締役の職務執行の監査にあたること」がその役割です。
監査役が行う監査には、「取締役の職務執行を監査する業務監査」と「計算書類の監査を行う会計監査」があります。
監査役の権限としては、報告要求・調査の権限、取締役の違法行為の阻止をする権限、会社と取締役間の訴訟を代表する権限、などがあります。

以上が法律論(教科書論)なのですが、これを読んで取締役や監査役の正確な位置付けが理解できるかと言えば、
経営と会計の融合を専門としている私でさえ理解できないでいるというのが本音といったところでしょうか。
というのは、実は会社によって、これらの機関の位置付けというのが微妙に異なっているのが実態だからです。
例えば取締役というのは「業務執行を行うのか否か」という単純な問いにすらこの世の誰も答えられないのです。
法律論では業務執行を行うのはあくまで代表取締役のみのはずです。取締役というのは代表取締役の職務執行の監督をするだけのはずです。
ここだけ考えれば答えは「取締役というのは業務執行を行わない」となります。
しかし、実際には、取締役兼経理部長だったり取締役兼営業本部長だったり取締役兼○○工場長といった肩書きの人は大勢いるわけです。
取締役なのに業務執行を行っていいのかよ、という話になるわけです。
逆に代表取締役(社長)の方が会社全体を統括するなどといって兼職はせず何の業務執行も行っていなかったりするわけです。
法律と実態が正反対になっているといいますか。

 

 


さらに分かりづらいのが監査役の位置付けであり、法律上は「取締役の職務執行の監査にあたる」とは言うものの、
取締役は法律上は職務執行(業務執行)をそもそも行わないのでは、と私は思うのですが。
監査役という機関が取締役とは別に存在するというのは、「取締役は職務執行(業務執行)を行う」ことを前提としているように思えます。
「取締役は職務執行(業務執行)を行う」ということであれば、なるほど、「取締役の職務執行(業務執行)の監督をする」機関が必要だな、
ということになるわけです。
監査役の位置付けというのが本当に分かりづらい、というのが誰もの偽らざる気持ちではないでしょうか。

この問題は旧商法ができた明治期からある問題だとは思います。
諸外国の事例を研究して日本に取り入れて商法は作成されたと思いますが、その過程で、
明治期の先人達は「取締役の位置付けを間違えた」と言っては何ですが、
「諸外国で言っている取締役というのは結局何なんだ?」という疑問を持ったまま商法を作成したのかもしれません。
「日々業務執行を行っているようでもありしかし一方で業務執行の監査の役割を果たすようでもあり」という感じで、
明治期の先人達は諸外国の事例を研究しても分からなかったのだと思います。
それで実務上の柔軟性を考慮して、一応法律論では取締役は代表取締役の業務執行を監督するという位置付けではあるが、
実際取締役になる(実際諸外国で取締役になっている)のは内部昇進の社員であることが多い(と想定される)ことから
今で言うコーポレート・ガバナンスの考え方から別途監査役という機関も設置したのかもしれません。
明治期の先人達は諸外国の事例を研究すればするほど、国によって会社制度が異なっており、
また同じ国でも会社の規模に大きな相違があって一律に会社の機関を設定することが困難であることから、
法律論と実務との落としどころをどこにすればいいか困り果てたのだと思います。
それで、実際の取締役は内部昇進が多い(業務執行を行うことが多い)ことを前提にして、別途監査役という機関を設置しつつ、
法律論では取締役の役割は業務執行の監査である、というふうに、
何と言いますか、一部矛盾した形で、法律論と実務との整合性を図ったのだと思います。
実務を考慮し法律定義上の「取締役の位置付けに幅を持たせている」、監査役の位置付けが非常に分かりづらい理由はここにあると思います。

 

 



一般には、取締役は英語で「director」です。
しかし、業務執行の「監視・監督」をする人が「director」というのも何か変な気がします。
direct は、「方向を指し示して人をその方向に向かわせる」というようなことが元々の意味だと思います。
非常に積極的・能動的な指図・命令の意味だと思います。
人が行っている業務執行を傍で見ていて「監視・監督」をするというような消極的・受動的な意味とは大きくその意味合いが異なると思います。
そもそも「director」とは業務執行を行う人のことのように思えます。
日本における明治期の試行錯誤の上作成された商法と同じで、「director」という機関はアメリカでも、
「日々業務執行を行っているようでもありしかし一方で業務執行の監査の役割を果たすようでもあり」という感じだったのかもしれません。
日本の明治期の先人達が「取締役」という機関を商法上そして実務上どう位置付ければいいか困り果てたように、
1800年代のアメリカの先人達もまた「director」という機関を法律上そして実務上どう位置付ければいいか分からなかったのかもしれません。
「director」に対応する用語としては「officer」があります。日本では「執行役(文脈によっては「執行役員」)」になります。
「officer」には「direct」とは異なり特に強い意味合いはないように思いますが、
「officer」の元々の意味は「オフィス(職場)にいて仕事をする人」だと思います。
仕事をする人の中でも幹部だったり上級の職務に付いている人、というようなニュアンスが含まれるのかもしれません。
「officer」は「オフィス(職場)にいて仕事をする人」であり日本で言えば「執行役(執行役員)」である、というのは
「director」(取締役)の場合と異なり、意味合いはすっきり整理できる気がします。
「officer」(執行役・執行役員)は「オフィス(職場)にいて仕事をする人」ということは、
「director」(取締役)は出社もしないし仕事もしないという意味だな、というのは冗談ですが。

また、手元の英文会計用語辞典を見ますと、監査役は英語で「statutory auditor」と書いてあります。
「会社法上定められた監査役」といった回りくどい単語になっています。
これはアメリカでは日本の監査役はいないということから説明的な訳語にならざるを得ないのだと思います。
アメリカでは日本の監査役の役割は取締役会の「監査委員会」が行う、という位置付けです。
アメリカでは日本とは異なり、「director」が(もしくは「director」の一部が)監査の役割を果たすように制度設計をした、
ということなのでしょう(結局アメリカでは別途「監査役」は機関設計しなかった)。

 

 


日本(の通常の監査役設置会社)では、取締役と監査役の役割がどこかダブっているように感じるわけですが、
アメリカ型と言われる委員会設置会社の機関設計ですと、取締役と監査委員会の関係はある意味すっきりしているようにも思います。
ただ、では委員会設置会社における他の取締役は業務執行の監督は行わなくていいのだろうか、という疑問や
指名委員会や報酬委員会の取締役は指名や報酬決定以外は何をするのだろうか、といった疑問もあります。
そもそもの話として、取締役会全体の役割そのものがいわゆる監査委員会の役割ということではないだろうか、という疑問もあります。
そういう意味では、委員会設置会社における取締役会と監査委員会とはむしろ思いっきりダブっているわけですが。
何で取締役会に監査委員会というのがわざわざあるんだ、という話になるわけです。


取締役の役割と監査役の役割についてアメリカの機関制度も踏まえて考えてみたわけですが、
考えれば考えるほど、完璧な会社制度というのはないんだな、と思いました。
小規模な企業もあれば大企業もあり、また上場企業もあれば非常企業もあります。
国全体の株式会社全てに関してできる限り不都合がないように会社制度を構築していかねばならないわけでして、
こうすれば全ての会社にとって完全な法律となる、ということはないのでしょう。
法律と言うのはどのような場合でも、「最大多数の最大幸福」を追及していくものなのだろうか、と思いました。
そして、「最大多数の最大幸福」を追及する限り、実務上説明の付かない部分が必ず出てくるのは避けられないのだと思います。
誰か特定の一人のための法律であれば、少なくともその人にとっては矛盾や不都合のない完全な法律が出来上がると思います。
しかしそれは既に法律ではないでしょう。

 

 



私は昨日、「法律は学問ではないと思っています」と書きました。
その理由は以上のように、法律というものを実務に照らして理詰めで考えていくと、説明の付かないことが非常に多いからなのです。
明治期の先人達もそうだったのだと思いますが、実務における柔軟性を確保することを考えれば、
ある程度幅のある制度設計にせざるを得ない、というような立法事情があるのは分かります。
しかしそうであるならば、法律というのははじめから理詰めで考えていくということに耐えられるはずがなく、
その意味において、やはり「法律は学問ではない」というふうに思います。
法律というのは社会全体を相手にしていますから、条文でカバーできる範囲に自ずと限界があります。
法律実務上は、「関係当事者から文句が出ないならそれでよし」というような気持ちで法律を運用していかざるを得ない面もあると思います。
そこに厳密な論理はないのです。
法律は妥協の産物と言ってもいいのです。
学問の世界というのは理詰めの世界であり論理の世界だと思います。
一方、法律と言うのはある意味純粋に現実のみが相手の世界だと思います。
論理も何もない現実への妥協に過ぎない法律に学問が成立するはずがありません。