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2012年2月12日(日)



2012年2月12日(日)日本経済新聞
コダックの町 育つ起業精神 沈む巨人の遺産活用 OB・人脈・設備に厚み
(記事) 

 

 

 

2012年2月12日(日)日本経済新聞
米「勝ち組」 新興国握る キャタピラーなど最高益 ブランド力で値上げも浸透
全体は増益率鈍化 主要500社、伸び1ケタに 10~12月 海外事業が減速
(記事)

 

 

 


2012年2月12日(日)日本経済新聞 中外時評
「日の丸技術」復活の条件 オープンな若い感性重要に
(記事)


 

 

2012年2月12日(日)日本経済新聞 そこが知りたい
NECパーソナル社長 高塚 栄社長
レノボ傘下で どう変わった? 国籍多様 意思疎通は密に
(記事)




 


2012年2月12日(日)日本経済新聞 けいざい解読
中国の都市人口 過半数に 消費拡大 社会安定カギ
(記事)

 

 

 


「日経ビジネス 徹底予測 中国ビジネス 2012」

 

第3章 13億人市場開拓のカギ


内陸部でお宅訪問 規模だけでは見えない意外な消費者の特徴


70ページ

71ページ

72ページ

73ページ



 

コンビニ 現地ニーズとらえ、日本式から脱却


78ページ

79ページ

80ページ

 



 


第6章 最新チャイナ 70データ


沿岸部(都市部)

120ページ

 

121ページ




内陸部(農村部)

122ページ

 

123ページ

 

 

 

 


「ゼミナール ミクロ経済入門」 岩田規久男 著 日本経済新聞社

 

 

 

経済用語に関する注意
(68ページ)


>ところで、重要な経済用語でも、教科書によって同じ様に定義されていない場合がある。(中略)
>日本のミクロ経済学の教科書には、需要の価格弾力性を(中略)定義しているものが多い。
>しかし、(中略)定義しなければならないと決まっているものではない。アメリカの教科書には(中略)定義するものの方が多い。
>ところが、日本の公務員試験などの中には負の符号をつけて定義するのが当然であることを前提にした出題がみられる。
>そのような出題の仕方は正しいものではなく、受験生を惑わせるものである。(中略)
>日本のミクロ経済学の教科書の中には(中略)と定義しているものが散見される。
>しかし、それは不適切であり、本書のように定義すべきである。

 

 


私はミクロ経済学が専門というわけではありませんから、価格の需要弾力性の定義式はどちらが正しいかは分かりません。
アメリカの教科書にこう書いてあるからそちらが正しい、というわけでもないと思いますが。


物事や用語は確かに定義が大切です。
定義があいまいだと、議論がかみ合わずちぐはぐな議論が続くことになります。
最後は、その言葉はそのような意味でいったのではない、など言っては議論が分裂してしまいます。
物事や用語は最初に正しく定義することが大切です。
しかし、そちらの定義は間違いでありこちらの定義が正しい、いやこちらの定義こそが正しいのだ、
と主張し合うことは不毛な議論だと思います。
定義同士で論争しても得るものはあまりないと思います。
定義の先にある経済学の理論そのもの同士で議論をすべきでしょう。
経済学はあくまで現実世界が相手です。
現実世界を置き去りにした定義の争いなど不毛でしょう。
人を相手とせず自分を相手とせよ、という言葉がありますが、
経済学では、定義や言葉尻ではなく現実世界を相手とせよ、といったところでしょうか。


それと、各種資格試験に関してですが、確かに、試験においては用語や数式は正確に定義しておかないと
受験生が惑うということはあるでしょう。
マイナスがあるとなしでは意味や計算結果が正反対ということもあるでしょう。
ただ現実には、各種資格試験では、(少なくとも日本では)一番スタンダードと考えられている定義・内容が出題されることがほとんどです。
この教科書から出題されるとか、○○教授が試験問題を作問しておりその教授の著書にはこのような記述があるから
本試験でもこの用語はこのような意味であると解釈して問題に当たらないといけない、といった風に、
前もって十分に勉強して準備していきますから、実際には受験生が試験会場で用語や数式の定義に惑うことはないのです。
各種資格試験対策の学校のテキストや問題集や模擬試験なども実際に試験に出題される一番スタンダードな内容に沿った教材になっています。
(問題の難易度などではなく)もし用語や数式の定義で惑うようなことがあれば、それはその受験生は勉強不足であるということです。
そういう意味では、経済学その他の学問分野の理解や本質とは関係ないわけですが、
試験委員対策というものも資格試験おいては(あくまで試験テクニックとしてですが)大切だと思います。

 

 

 



習慣の合理性
(96~97ページ)





>「経済学は合理性を前提としているが、人間の行動はそんなに合理的ではない」という批判がある。

 

なるほど、よく耳にする”言い訳”ですね。
確かに、経済学は理想的な完全な状態を想定した上で理論を構築していきますから、
経済学の教科書では説明がつかないこともたくさんあるでしょう。
コーポレート・ファイナスでも、市場における株価の決定理論(DCF法による株価算定とは違います)がありますが、
そこでも株式市場は完全で効率的あることを前提としており、教科書では説明がつかないことは非常に多いと思います。

経済が教科書の説明通りとはいかないことが多いのは確かでしょう。
それは、経済学は現実世界が相手であることそのものが原因です。
現実世界はあまりに複雑です。
複雑な現実世界を説明し理論を組み立てようと思えば、理想的な完全な状態を想定しないと理論が構築できないのです。
理想的な完全な状態を前提としている以上、その時点で現実とは異なる、ということには確かになってくるでしょう。
それが経済学の限界と言えば限界なのでしょう。

しかし、そこで問われているのは、その人の応用力ではないでしょうか。
まず理想的な完全な状態からスタートする、それで説明できない部分があればどうすれば現実を上手く説明できるか考える、
ということが大切なのだと思います。
「理論を現実世界に応用する」、この応用力こそが、
経済学では実は理論構築以上に大切なことではないでしょうか。

 

 





利潤最大化以外の企業目的について
(136ページ)





これについては特にコメントはありません。


敢えて言うなら、

企業の目的はキャッシュフローの最大化である、

となるでしょうか。

 


"What is management?"
"It's a cash flow."


経営とは何ですか?
経営とはキャッシュフローである。

 


 


アダム・スミスの神の”見えざる手”
(212ページ)




”神の見えざる手”の本質とは関係ない話ですが。
これもある意味定義の話になりますが。


この”神の見えざる手”という言葉が出てくるアダム・スミスの著書(英語では「The Wealth of Nations」と言います)の名前は、
スキャンしたこの教科書では「諸国民の富」となっています。
実はこの著書の名前は「国富論」とも言うのです。

私が中学生のころ、社会の授業では「諸国民の富」と習いました。
ところが高校では、「国富論」と学びました。(選択では世界史は取っていなかったのですが私は勉強家ですから)

最初私は、「諸国民の富」と「国富論」という二種類の本があるんだな、と思ってしまいました。
「諸国民の富」と「国富論」が同じ本だとは最初は分かりませんでした。
大学に入ってから両方読んでみようかな、と思っていましたら、両者は同じ著書を指していることに大学に入って初めて気付きました。
有名な本を翻訳・出版する時は、タイトルは統一しないといけないなと思いました。

ではなぜ日本語ではタイトルが「諸国民の富」と「国富論」に分かれるかと言えば、原題の"nations" をどう訳すかが難しいからでしょう。
nation もしくは nations はどちらも国民とか国という意味です。
nation は元々、nation(国民)一人一人が集まって統一された形で一つのnation(国)が出来上がっている、という風な意味なのでしょう。
nations を国民と訳せば「諸国民の富」が正しい、nations を国と訳せば「国富論」が正しいとなるでしょう。
ではどちらが正しいかというと、「The Wealth of Nations」の内容さらに出版された年である1776年という時代背景を考えれば、
nations は国民と訳すのが正しく「諸国民の富」が正しい訳語だと思います。
1700年代後半当時では、現代に比べればまだまだ貿易は盛んではなく、国家間の経済活動(貿易)は話の中心ではありません。
「The Wealth of Nations」ではあくまで「一国内の国民に関する富(経済活動)」の話が記述されているわけです。

 


 


ある文房具店での会話
(247ページ)



コラム「ある文房具店での会話」の解答
(259ページ)

 


 

解答を読みますと、この解答は妙に難しく言っているような気がします。
敢えて難しく言う、これが経済学の本質です(冗談)。

これはただ単に「買い物をしたら割引券がもらえるから」だけでいいと思います。
買い物をした後で初めて割引券はもらえる、買い物が完了して初めて割引券はもらえる、
代金の支払いが完全に終わったということに対して割引券が渡される、
と言えばいいでしょうか。
まだ買い物をしていないなら割引券はもらえない、という言い方でもいいと思います。

もっと別な言い方をしますと、
もし代金を支払う前に割引券がもらえるなら(そしてその割引券をその場で使えるなら)、
お客さんは1円も支払わずに無限に買い物ができることになります。

 

 

 


マーケット・シェアと集中度
(266ページ)





ちょうど20年前(1992年)の各種製品の市場占有率です。
棒グラフを見ますと、市場シェアが大きく変わった製品もあればあまり変わっていない製品もあります。
20年たっても各企業の市場シェアが変わっていないということは、
ミクロ経済学的には、安定しているとか需要と供給に大きな変動がなかったといった言い方になるのかもしれませんが、
業界分析論的には、製品市場の成長率が低く競争が激しくないとかその製品は成熟産業であるといった言い方になるでしょう。
もちろん実際には各企業同士は激しいシェア争いをしていてそれでも各企業間の実力の差が20年間変わらない、
ということなのですが、
もう少しマクロ的な視点で俯瞰しますと、その業界では20年間新規参入がないとかその業界から撤退した企業が20年間1社もない、
という見方になる、ということです。

 


 



資本の移動と廃棄処分
(350ページ)





産業が著しい不況に陥った場合、政府の援助のもとに、資本財の廃棄処分が実施される場合がある、というコラムです。
ある国において、政府資金による過剰設備の買い上げが行われれば行われるほど、その国は社会主義的であると言えるでしょう。
また逆に、そのような政府による構造不況対策は行わず、
業界内企業の自助努力に任せれば任せるほど、その国は資本主義的であると言えるでしょう。

 

 


 


第Ⅳ部 時間と不確実性

 

第17章 不確実性と危険負担


1 株式会社制度と危険負担


(450~451ページ)

(452~453ページ)

(454~455ページ)




 

株式会社制度についての記述です。非常によくまとまっていると思います。
株式会社制度や有限責任制度の本質が書かれています。

一点だけ。

>売上高から原材料費や賃金・利子・地代・家賃を差し引いた金額を会計学上、利潤という。

とありますが、会計学上の話をするのなら、ここは「利益」だと思います。
利潤という言葉は経済学上の言葉です。
会計上は利潤ということはあまり使わないかと思います。

 

 



2 保険制度と危険回避


保険とリスクのプール
逆選択とそれを回避する方法
モラル・ハザードとそれを回避する方法


(464~465ページ)

(466~467ページ)

 


 



第18章 情報と制度・組織

 

1 市場の取引費用と情報


477~482ページ


「情報の非対称性を克服する制度と組織」

「(1) 保証制度・ブランドネーム・チェーンストア」

「(2) 許認可と免許・資格制度」

「(3) 情報提供機関」

「(4) 仲介業」

 


 



2 企業組織の統合・多角化と情報


(482~483ページ)

(484~485ページ)

(486~487ページ)



 

 

4 系列化と情報 (493~495ページ)


「系列化」

「系列化はなぜ生まれるのか」

「市場経済システムの中の企業」

 

 

 


「シグナルとしての教育とリクルートルックとノーベル賞」





 

当研究所では、シグナルは一切送りません。
その理由は、書いている内容のみで私を判断してもらいたいからです。

学問の世界では、どこどこ大学を出ていれば自動的に優秀な論文であると認められる、ということは一切ありません。
また、この大学のこの研究室で論文を執筆すれば自動的に素晴らしい研究であると認められるというわけでもありません。
中央の有名大学だろうが地方の無名大学だろうが学問には関係ありません。
学問の世界では、論文の中身でのみその人が判断されます。

当研究所でもそう望んでいます。

 


 

 


練習問題


18.4
マクドナルドやセブン-イレブンなどでは、フランチャイザーと呼ばれる企業がフランチャイジーと呼ばれる多くの独立企業に
末端の店舗の経営を任せて、フランチャイザーは原材料や製品や経営上のノウハウを供給して、商品の仕入代金や経営指導料や
商標の使用料などの形で収入を得ている。これをフランチャイズ制という。なぜこうした形態が採用されるのか。

(スキャン)



解答とヒント

(スキャン)






この解答は少しズレていると思います。
価格・品質を一定水準に維持して商標の評判を守ることに重点を置くのなら、フランチャイズ制ではなく、むしろ直営店制を採用するでしょう。
また、フランチャイザー自身が自ら直営店を出店している場合も多いことから分かるように、
フランチャイズ制は一概に川上と川下が分離している組織形態(経営形態、出店形態)であるとは言えないと思います。

なぜフランチャイズ制を採用するのか、その理由はやはり、「短期間に多くの店舗展開が可能だから」の一言だと思います。
よく、「M&Aは時間を買う」ことだ、と言われます。
フランチャイズ制は煎じ詰めればフランチャイザーとフランチャイジーとの業務提携にすぎません。
フランチャイズ制においてはフランチャイザーとフランチャイジーには資本関係はありませんので、
フランチャイズ制を採用することはM&Aを行うとは言わないのですが、
「時間を買う」という点では両者は本質は同じであるといってよいでしょう。

 

 



先ほど、フランチャイズ制は川上と川下が分離している組織形態であるとはいえない、と書きましたし、同時に、
フランチャイズ制は川上と川下が資本関係にある組織形態であるともいえないという意味のことを書きました。
言い換えれば、フランチャイズ制は統合しているわけでもありませんし市場取引を行っているわけでもありません。
言わばその中間であり両者のいいとこ取りをした組織形態であるといえます。


この点について、マーケティングの教科書からフランチャイズ制の特徴について記載された部分をスキャンして紹介します。
この教科書では、フランチャイズ制のことを「中間組織」と呼んでいまして、「2つの原理のハイブリッド」と表現しています。

 


「統合でもない、市場取引でもない、第3の方法」


「中間組織を活用する」


「フランチャイズ・システム」


「戦略的提携」

 

 

 


参考文献

(497ページ)

(498~499ページ)

 


どの教科書や学術論文でもそうであるように、この教科書の最後にも参考文献が載っています。
ここにはこう書いてあります。


>本書を読み終えた読者がさらにミクロ経済学を学ぶ方向としては、[Ⅰ] 中級・上級の理論を学習する方向と、
>[Ⅱ] ミクロ経済学が現実のさまざまな分野にどのように応用されるかを学習する方法とがある。


私は、(自分で言うのも何ですが)「理論の現実への応用」が得意なのだと思います。
私は中学生の時から学者になりたいと思っていました。
学問の基礎理論を自分で構築していきたい、多くの基礎理論を確立させて数多くの論文を書けるような学者になりたい、
そう思っていました。
はっきり言ってしまうと、私は応用よりも基礎理論の方を志していたのです。
まあ残念ながらその夢は叶わなかったわけですが、経営管理学や会計を学んでみると、
私は意外と応用の方が得意なのかな、という気がしています。
人間の能力というのは勉強してみないと本当に分からないものだなと感じています。


それと、これは余計な一言になりますが。
入門書を超えて中級・上級の経済学の教科書になりますと、ますます現実世界とは離れて行っているような気がします。
要するに、上級に進めば進むほど、現実に応用できる部分が少ないようにも思いました。

 

 


>(13)は日本経済のマクロ的課題の本質をミクロ経済学を応用して明らかにしている


私もマクロ経済を考える時は、会計や経営管理学の理解を応用して考えています。
マクロ経済をマクロ経済だけで理解することは不可能なのではないだろうか、という気すらしています。
一人一人の経済活動、一つ一つの企業の経済活動があって初めてマクロ経済があると思います。
そして、一つ一つの企業の経済活動を理解するためには、経営管理学と会計の理解が必要不可欠だと思います。


*498ページには、”日本経済のミクロ的課題”と書かれていますが、ここは「日本経済のマクロ的課題」の誤植でしょう。
当教科書「需要と供給の世界」は読んだことはありませんし、林敏彦氏はマクロ経済学が専門なのも分かりますが、
前後の文脈を踏まえると「日本経済のマクロ的課題」が正しいと思います。

 

 


最後にもう一言だけ言いますと、私が経営管理学や会計を学んでいた時は本当に日々の実務や仕事に活かすことしか考えませんでした。
経営管理学や会計を学問であるとか理論であるといった観点からは全く見ていませんでした。
敢えて言うなら、応用(日々の実務)のことだけを考えていました。
ところが、これも面白いもので、学習を進めて行っていると、
「これって理屈で言えばこうだよな」とか
「この事例とこの事例を考えていくと一般的にはこういうことが言えそうだな」
といった風に、知らず知らずのうちに、経営管理学や会計を、学問っぽく・理論っぽく考えている自分がいることに気付きました。

だから何だと言われると困るのですが、
自分では学問の世界のことは完全に断ち切ったつもりでいたのですが、
どうやら私はどうしても学者っぽいところが抜けきれないようだなと
自分で思っているところです。