2011年4月15日(金)



「あしたのジョー」の考察
An analysis of what HYPOCRISY is, from the point of a comic book "Ashita no Jo."

 

 


漫画「あしたのジョー」に白木葉子というお金持ちのお嬢様が出てくるのですが。
この女は完全に狂っています。
自分で劇団を作って慈善事業を行っているのですが。
演出・脚本・舞台装置全部自分で決めて、自分が主役の劇を制作するのです。
その劇の中では彼女は慈悲深い心優しいキャラクターになりきっています。
劇中傷ついている人を見かけては、私が代わってやりたいくらい、などと言い、優しい女になりきります。
演じながら「私は何て愛に満ちたやさしい女なのかしら」と自己陶酔をしています。
白木葉子は自分に酔っているわけです。

 


セリフも全部自分が決めます

私は何てやさしい女なのかしら

 

 


 



その劇を見て矢吹丈はこう言います。
あなたは人のためを思ってやっているんじゃない、あなた自分のためにやっているんじゃないんですか、と。

本当に相手のことを思ってやっていることであれば、相手が感謝をしなかったとしても何とも思わないでしょう。
しかし白木葉子は自分のためにやっています。
本当の優しさじゃない。
相手が自分に感謝しないと腹を立てる。
劇を見て相手が「なんて優しい人だ」と感動しないと、「わざわざここまで来てやって劇をしてやっているのに」と腹を立てる。
劇は自分が酔いたいがための口実。
慈善活動をやっていることも劇中のセリフも、自分が感謝され自分が酔いしれたいがためにやっていること。


矢吹丈はこう言います。
「そして おれが感謝感激して なみだをこぼさなきゃ またそこで腹をたてるんだ
つまり 万事が恩きせがましいんだよ
はるか雲の上から優越感でやっていることなんだ
うわべだけの愛
かたちだけの親切
いわばすべてにせものなんだな」

「葉子おじょうさまよ あんた おれやここにいるあわれなれんじゅうのためじゃなく
自分のためにこんな慈善活動をやる必要があるんじゃないのかね
え? 自分のためによ」

 


相手が感謝しないと腹をたてる



自分のためだけの慈善活動

 

 

 



本当に優しい女であれば、わざわざ劇を制作し、劇中で優しい女の役など演じなくてよいはず。
本当は優しい女でないからこそ、白木葉子は自分が主役の劇を制作しなければならないのでしょう。

現実の世界で本当に傷ついている人や困っている人を見かけたとき、白木葉子は助けようとするでしょうか。
絶対にしないでしょう。


本当は人助けなどしない冷たい女、だからこそ劇を制作して自分は優しい女だとアピールしなければならないのでしょう。

 

 

今の世の中、人助けをするのは現実にはなかなか難しい?
確かにそうでしょう。私ももう人生参謀は辞めました。
ただ私がここで言いたいのは、
自分の冷たさを隠すために上から目線で恩きせがましく慈善活動を行うなんて偽善的行為をするなってんだ。